獬豸を貸そうか、と言われて瓉明は物思いに沈めていた顔を上げた。低く滑空した騎獣は岩棚にふわりと降り立つ。


「人を乗せて帰ってくるだけならば泉主の指示なくとも言うことを聞く。そのほうがお前も毒霧で具合が悪くならずに済む」

「それは、そうですが……万一、ということもありますし」

 先ほどの光景を見ていればそう言わざるを得ない。呟きを背に泛仁は、そうだな、と空に目を向けた。

「……それか、やはりお前の主とともにこちらへ落ち延びて来い」

「……え?」

「そのほうが安全だ」

 跳躍させた獣が再び地に降り立ったところで振り返った。

「どうだ?」

 問うてきた瞳は本気のようだ。それに苦笑してまた俯いた。

「しかし……驚きの連続でした。まさか、狴犴が人語を話すとは」

「是か否かしか言わないがな」

 故意に話を変えたのに気がついていないのか、泛仁は続ける。

「喋れずともこのような妖獣はある程度人の言うことが分かるようだが」

「狴犴は、心の中まで見通すのですか」

 ああ、とそれには手を振った。

「必ずしも丸ごとではない。あれには否と言わせたら駄目だ」

「――――え?」

 問い返した瓉明に、少し休憩する、と言いおき泛仁は狴犴を森に降ろした。





「狴犴はたしかに嘘真うそまことを見分ける。ゆえに法治を司る意味の名を冠して獬豸と呼ばれる」

 獣を連れ、小川の中にすねまで浸かり小瀑から流れ落ちる飛沫に手を伸ばした。

「しかし、見分ける対象が目の前におらねば判断出来ぬ。それに心の中をあまねく見通しているわけでも、完全な審判が出来るわけでもない。たとえ獬豸に是と判じられた人間でもその事由の全てにおいて正というわけではない」

「よく……意味が」

 瓉明は革囊かわぶくろに水を満たしながら首を傾げる。泛仁は獣の汚れた脚を洗いながら、つまり、と続けた。

「獬豸にとって、正邪とは是非に二分されている。もちろん裁く対象がその場で嘘を言っているのか真実を言っているのかを判じるが、問い尋ねたその一言いちげんにおいてのみしか判断を下せない。俺が獬豸にした問いを覚えているか?」

「ええ……」

「はじめの二つの問い、答えはいずれも『是』だった。獬豸は俺が二軍の謀略を確信して言っているのは嘘ではないと判じ、膂兒の今際いまわきわの発言も真実だとした。それまでの回答が『是』ならば、最後の質問にも獬豸は『是』と答えざるを得ない。なぜなら最後のは『俺が奏上したが妄想だという妃嬪の発言は間違っている』のかどうかに対して正誤を請う問いだったからだ。すでに獬豸はそれまでの問いで俺の直訴が正であると判じてしまっている。ならば最後の質問に『否』を言うわけがない」

 瓉明は唸った。

「む、難しいですね。まるで言葉の揚げ足取りのようです」

「たしかに獬豸は心を読むが、額面どおりの意味しか解さず問いの裏の意図までは測れない。実際あんなもので本当に人が裁けるのなら大理府さいばんしょなど必要ない」

「お待ちを。では、小寛美人のことは」

 ゆるゆると不安が募ってきて問えば、泛仁は顔を逸らす。

「獬豸の前に引き出した時点で、泉主は小寛美人をあの場で裁くことを望んでいた」

「獬豸を誘導して小寛美人を殺したと?」

「たとえ俺が問いを投げかけずとも、小寛美人の裁きは変わらなかった。それに初っ端から俺のほうが危なかった」

「初め?」

「泉主は最初、俺の言うことはまことかと問うた。広汎な質問すぎて獬豸は判断を迷っていた。だから俺は自分で問うた。あのままいけば角で突かれていたのは俺だった」

 瓉明は彼と距離を置くように川から上がった。乾いた岩に座り込む。

「殿下はあの場に獬豸が連れて来られる前から、真実を述べられていたではないですか」

「――いいや?」

 弾かれたように顔を上げたのに水音を立てて近づいた。隣に腰を下ろす。

「たしかに、央軍と東軍は連繋して俺を潰そうとしていた。膂兒も加担してこちらの動きを知らせていた。裏付ける報告は上がっているし、それは確かだろう。だが、あれの直筆の伝書は見つけられなかった。当たり前だ、読んだらすぐ燃やす類の密書だからな」

「では……では、見つけたという書簡や文は」

「贋物だ」

 瓉明は表情を複雑に歪ませて見返し、それから何も言うことなく項垂うなだれた。


「…………怒ったのか?」

 問うとただ黙って首を振る。括った髪が風にそよいだ。うなじで後れ毛が揺れる。そこだけ陽に当たるからよく灼けて健康的に褐色で滑らかで、暑さで少しだけ金砂の汗が浮いていた。それに目を細める。


「五泉主は、殿下の虚言もすべてご存知だったのでしょうか」

「……おそらくは。しかし後宮で謁見できた時点で兄と弟の重大な協定違反をかんがみ俺を後継者にするというのは腹に決めていただろうし、禍根の残らない形で後宮内の造反者を排除したいと思っていたのは利害の一致をみた。小寛美人は姉である俺の母を長年ねたんで毒を盛っていた。だが泉主も証拠がなく断罪出来ずにいた。仮にも寵妃と同じ一族ゆえ、無闇に処断すれば母の立場にも傷がつく」

 瓉明は口を押さえた。

「毒……を」

「婕妤はもう身体からだがうまく動かない。まあ、おかげで命拾いした」

 泛仁はごろりと寝転がり岩の上で仰向いた。顎がじんじんとする。

「…………朔将軍。お前といると多くを語らねばならん。とても、疲れる」

 目を閉じた。ようやく、わずらわしいことがすべて終わった、とやっと安堵した。


 ふいに影が射す。次いで額にひんやりと指の感触があり、軽く傷に滑る。

あとが残らなければ良いのですが……」

 ふ、と笑んで薄目を開けると眉を下げた顔が視界に映る。

「――――やはり、どうしても帰るのか。四泉に」

「ええ。仮にも私は禁軍中将軍ですから。国を置いて逃げられる立場にはありません。……私の殿下も。お若いとはいえ、もう幼子ではありませんから」

「……乱になるか」

 おそらくは、と悲しげにした。離れようとするので、冷えた指に追いすがり掴む。


「…………死ぬなよ」


 少しかすれた。瓉明は驚き、予想通り微笑んで頷く。泛仁は手を握ったまま起き上がった。

「また五泉に来い。今度は是非に手合わせしてくれ。父も見たいと言っていた」

「それは……宮城へ来いとおっしゃられているのですか。それはあまりにおそれ多い」

「俺はお前を気に入っている。否は無しだ。それにもうそう遠くないうちに王になる。泉主の誘いを断るのか?」

 しばし瞬くと瓉明は噴き出した。

「それは……おありがたいことで」

「冗談だと思うのか」

 似合わない少し拗ねたような口調がまた笑いを誘い、頬をゆるませながら首を振った。居住まいを正して向き直る。

「泛仁様」

あざなでいい」

「……大尊様。ご厚情、まことにありがとう存じます。五泉に来たおかげで、迷って揺れていた地面が固まったように思います」

「地面?」

「ええ。私の地面です」

 瓉明は一度目を伏せた。


「やはり、私の主は私の殿下においてほかならないのです」


 泛仁は息をついた。彼女とて少なからず泉主の子であることには変わらず、それは紛れもなく泉根ということだ。その気になれば人民の頂点にも昇れる血を受け継いでいる。四泉の王になれる可能性が十分にあるのだ。


「自らが四泉主になるという気は毛頭ないと?」

「はい。まったく」

 照れて笑い、続ける。

「そんなことは私には不要です。ただ私は四泉の公子殿下たちに五泉のように争って欲しくはないと願うばかりです。とはいえ、二人の主に仕えることは出来ず、私の行動如何によって公子の誰かがもしかしたら失われてしまうのやもしれません。私には、その選択をする勇気がなかった。けれど、今回篩別の儀に巻き込まれて、やはり避けては通れない道なのだとまざまざと感じさせられたのです」

 薄い色の瞳がこちらを見据えて動かず、次の言葉を待つ。

「誰しも、己の主が高みへ昇ることを望むもの。しかし広清殿のように、時には近しい者から主を裏切るようそそのかされ、圧力をかけられ……それは、臣下に限ったことではないのだと思います。私の殿下は四番め。後継争いには重要な立ち位置ではないとしても、きっと良からぬことを企み、利用しようとする者が群がってきます。絶対にお守りする者が必要です。それは片手間に出来ることではなく、まして誰にも彼にもいい顔をして尾を振っていては今度は主の信を得られない。絶対の忠誠が必要なのです。殿下の命を自分とはかりに架けることは出来ません。殿下が生き延びられるなら、他の公子を見捨ててでも守り抜く。その決意が、私には足りませんでした」

 ですが、と晴れやかに笑う。

「もう大丈夫です」


 泛仁は笑顔を眩しく見た後で、そうか、と呟いた。彼女が想いを捧げる者に、微かな羨望を込めて。自覚して口の端を歪めた心中など知りもせずに、瓉明はそれにしても、としみじみと見遣ってくる。

「大尊様、出会った頃よりかなりお話しになるようになられましたね」

「……お前が俺を喋らせる」

「そのくらいのほうが、田鼓殿はお喜びになるのでは?」

 知るか、と立ち上がった。

「そろそろ行かねば、日が暮れる」


 そうして狴犴に飛び乗り、上から手を差し出した。無警戒に伸ばす腕を力強く引き揚げ、気がつかれない刹那、一瞬だけ、抱きとめる。鈍感な女はこの数日で慣れたもので何の感慨もなく腰に手を回し、口をつぐんだこちらの横顔を首を傾げて窺ってきた。無垢なさまは純真な少女のよう、しかしその内には清濁を飲み込み乗り越え、迫り来る試練に覚悟を新たにした熱い激情が秘められているのだ。


「瓉明。これからも安心して五泉へ来い。ここはお前の第二の故郷だ。俺はいつでも待っている」

 返答はない。気になって振り返れば、感極まって涙を滲ませる瞳があり、ゆっくりと唇が弧を描いた。


「――――ええ。きっと、また」




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