〈六〉



 瓉明は眠れない夜を過ごした。まだ鼻に生々しい血糊の濃い臭いがこびりついている気がして休まらない。昨晩のことが頭から離れない。


『泉主は是非に四泉からの手練てだれ相見あいまみえたいと』

『帰国はそれからになる。くれぐれも、粗相のないように』


 泛仁の言葉がもう何周も巡る。なぜ私が、という気持ちが拭えない。

 そもそも、広清への断罪はあまりに苛烈に過ぎたのではなかろうか。なにも斬刑でなくとも……自分も信宜も、こうして無事なのだし。そう考えずにはおれない。





 下女に起こされてのろのろとしとねから這いで、寝不足で痛む目頭をつまむ。ようやっと着替え、髪を括って天幕から出ると信宜が控えていた。

「将軍、本当にお独りで平気なのですか」

「四泉人としては独りだけれど、もう一人従者が付いてきてくれるらしいし、大丈夫だろう」

 使者の旗を立てて央軍の陣地を横断することになる。絶対に安全とは言えないがな、と欠伸あくびした。

「それに、信宜は人質でもあるんだよ。私が五泉宮で良からぬことをしないためのね」

「そんなことするわけがないでしょう。他国のことなんて、何の益にもならないのに」

「念には念を、ということじゃないか」

 はあ、と信宜は肩を落とした。瓉明はそんな彼を軽く叩く。

「危機が迫ったら、君だけでも逃げてくれ。由歩ゆうほなら着の身着のままで霧の中へ逃げられるからな」

 こっそり言った主に顔をしかめてみせた。

「そんなこともするはずありません。お待ち申し上げておりますから、さっさと終わらせて帰ってきて下さい」

 わかった、と力なく笑んだ。





 天幕群から少し離れた森の中で付き添いのもう一人の使者が待っていた。首桶を包んだ荷を狴犴の鞍に括りつけている。

「なぜ……狴犴が?」

「俺も共に行くからだ」

 振り返ったのは泛仁。瓉明は仰天して慌てて地に片膝をついた。

「殿下は軍の指揮が」

「……田鼓には言ってきた。俺も泉主に伝えるべきことがある。書面でなく、直接会う」

「とはいえ侍臣もつけずに……それに、狴犴に乗って?」

 敵軍の中を通るのに目立ちすぎやしまいかと逡巡を口にすれば首を振られた。

「由霧の中を行く。さすれば四日で泉畿に辿り着く。――朔将軍も飲め」

 差し出された薬水を混乱覚めやらないうちに飲み、乗れ、と命ぜられるままに後ろにまたがった。直後、経験したことのない激しい浮遊感に思わず前へ鼻面をぶつける。

「も、申し訳ありません」

「……狴犴に乗るのは初めてか。……よい、振り落とされぬよう掴まっていろ。急がせるゆえ顔を俺の背から出すな」



 風鳴りが耳膜に響くが、頬に当たる気流は相反して緩やかだ。

 少しばかり余裕の出てきた瓉明はもはや空中に浮いているかのような獣の跳躍に感嘆の声をあげた。


「すごい……‼」


 霧が、森が目にも止まらない速さで過ぎていく。馬とは比べ物にならないその走り方に驚愕し、思わず空を見上げた。霧間から覗く晴天に浮かぶ雲も瞬きの間に背後に追いやられる。もしかすれば幻の馬、絶地ぜっちとはこういう乗り心地なのでは。風を駆けるような走りにただすごいとしか言えず興奮しっぱなしの瓉明に泛仁は何も言うことはなく、都度小休止を挟みながら奇岩と灌木の蔓延はびこる霧の迷宮を進んで行った。


 一日めが終わる頃には最初の感動は薄らぎ、激しく腰としりが痛んでどうしようもない。さすりながらふらふらと岩棚に腰を降ろすと、飄々とした顔をして同乗者がさっさと火をおこしにかかる。

「ああ、殿下、私が……うっ!ったあ……」

 立ち上がろうとして腰を押さえた瓉明に、自分は馴れてしまっている泛仁は慰めるでもなく、夜に備えて黙々と動く。

「たくましく、いらっしゃいますね。五泉の泉根の方々は皆そうなのでしょうか」

 微笑した顔は額に汗をかいていた。よほど痛むのか、と小袋に手を突っ込み、中のものを彼女の足許に放った。

「これは?」

「……薬草を潰して乾燥させたものだ。湿らせて上から布を巻け。少しは痛みがましだ」

「なんと。ありがとうございます、殿下」

 なおも笑ってきたのになんとなく目を逸らした。しかし、瓉明はそれを懐に仕舞ったまま食事の用意を始める。ああ、と察してまわりを見回した。ひらけた湿地に面した岩窟は隠れるところが無いのだ。

「……朔将軍。獬豸の影で巻けばいい。夕餉ゆうげの準備は俺がする」

「いえ。でも」

 手のものを取り上げて顎をしゃくれば、すごすごと前屈みになって従った。衣擦れを背後に聞きながら、首桶からまだ垂れている水音までをも耳に入れてしまい目をつむる。


「殿下。大事ございませんか」

 はっと我に返ると心配そうな顔が見下ろしていた。こちらがじっと見据えたのにまた微笑んだ。

「殿下もお疲れのようですね。今日は早く休みましょう」

「…………」


 それから瓉明がなんのかのと話題を振ってきたが、それらには一切こたえず、火を弱めて寝入りの準備をしたところでようやく口を開いた。


「……朔将軍」「なんでしょう」

 熾火おきびの向こうですでに眠そうな声がした。


「……お前は、なぜいつも笑っている?」


 問うてから、後悔した。膂兒が目の前で死んだのになぜ平気な顔をして笑っているのかとなじった意味に捉えられたかと思ったが、言い直すのに慣れていない。息をつめて返答を待った。

 ややあって唸り声がした。「なんで、でしょうね。気づけば笑っていますね。決していつも心底楽しいから笑っているわけではないのですが。――ああ、きっと」

 夜陰に再度笑んだ気配がした。「私の殿下のせいですね」

「……お前の?」

「はい。私の敬愛する四泉の殿下がおりまして。私がふくれつらをしているとたいそうご心配なさるのです。怪我をしたのかとか、いじめられたのかとか。だから私は殿下をご安心させたくて、お会いする時はいつも笑っています」

 でも、とさらに笑む。「とてもさとい御方で、無理に笑っているとばれてしまうのですけれど」

「……それは、義弟だろう?」

 しばらくの沈黙があり、ご存知でしたか、と少し頭を浮かせた音がした。

「特に隠しているわけではないので、いいのですが……隣国の王族のお耳にまで入っているとは思いませんでした」

「いや、俺が詳しい者に聞いた。四泉にも公子と公主こうしゅがいるとな」

「ああ、そのことで私、少し悩んでおりまして…………」

 しかし続きは待てども聞こえて来ず、ただ静かな寝息が夜闇に微かに漂い、泛仁もまた白毛の獣に身を預けて目を閉じた。







 泉畿に近づくにつれ、敵の斥候が増えた。三日め、ついに襲撃を受け二人は由霧の中で交戦した。


 まさか第二公子だとは思っていないのか、しかし狴犴を見て只者ではないと悟ったか、遠慮なしにあちらも異形の乗りものに跨り俊敏に攻撃してくる。敵の騎馬は竦斯鳥しょうしちょうめす野鶏きじのような大ぶりの体躯に人の顔と見紛みまがう頭がついている。飛ばないが跳ぶ。急峻な岩場をものともせず、瓉明と泛仁を見つけ奇声を上げながら跳躍してくる。


「速い……!」


 滑空する間は狴犴のほうが長いとはいえ、こちらも飛翔は出来ない獣、降下地点を狙われたら大変危ない。瓉明は剣を抜いた。走りを並べてきた人の女の顔を斜めに斬り伏せる。

「使者の旗が見えないのか!」

 叫べば冷静な声が前から聞こえる。

「おそらく俺が公子だとばれている」

「しかし、我らは斥候ではなく使者ですよ⁉」

「……兄と弟あのふたりは、俺が泉宮へ行って欲しくないのだ」

 瓉明は新たに射られた矢を叩き落とした。「殿下!あまり跳ばないほうがよろしいかと存じます。私も揺れないほうが戦いやすい」

 普段とは違い芯の強い厳しい声が背後で聞こえ、泛仁は意外に思って目を瞬かせた。


 望みに応えて狴犴は地を這うように、しかし瞬速で移動する。霧の木立に身を隠しながらときおり現れる伏兵を斬り捨てつつ、遠回りしながら北へと移動した。


 追手をなんとかまき、用心しつつ進む。途中ずしりと重くなり、眉をひそめながら振り返ると瓉明が血濡れた竦斯鳥の片羽を掲げている。

「殿下!本日はこれを食しましょう!」

 少女のように弾んだ宣言に顔を前に戻して思わず小さく噴いた。

「……⁉殿下、いま、お笑い……にっ!」

 跳躍についていけずにがくりと顎が鳴ってそれ以上言えなくなる。

「…………妖の肉など、食えたものではないぞ」

「分かりませんよ、案外いけるかも」

 どうだか、と口角だけを上げて最後の宿泊地を探し始めた。







一昨日おととい、悩んでいると言っていたのは何だったか?」

 案の定、人面鳥の肉など生臭くて食べられたものではなく、早々にくさむらに放り棄ててほしいいかじりながら、ふと思い出して問うた。瓉明のほうは、もったいない、と涙目になりながら肉を埋めている。


「ああ、殿下…たちのことですね」

 戻ってきて瓉明は迷いながら目を泳がせた。

「このようなこと、他国の公子殿下のお耳に入れることではないのですが……」

 さらに少し悩み、それから視線の圧に諦めたのか溜息をついた。

「四泉でも、五泉と同じようなことが起きるかもしれないのです」

篩別しべつが?」

「もちろん、現四泉主は子供同士で殺し合えなどと言うような御方ではないのですが。……あ、いえ、決して五泉主を非難しているわけではなく」

 慌てて否定し、深く嘆息してぼんやりと揺らぐ火を見た。


「…………私の母は、もともと現四泉四妃――淕容華りくようか様の家人でして」

 容華とは、妃の位号の名称だ。

「私が生まれてからも、母と私をお側に置いてくださり、私にとってはもう一人の母……いえ、母より随分お若いので姉でしょうか。ともかくとても親しくして頂き、実の家族のように育ったのです」

 そして彼女もまた、泉主に見出だされて妃となった。

「その淕妃様にお生まれになったのが私の殿下、四泉第四公子殿下です。とても聡明で繊細で、お優しい御方なのです」

「しかし、四子であれば王にはなれぬだろう」

 もちろん、と瓉明は頷いた。「当人もそんなことは望んではおられないでしょう。ただ……少々、雲行きが怪しくなってまいりました。最近、泉主がとみにしがちで。そして第二公子殿下……沙溢様から、お誘いがかかってしまったのです」

「軍門に入れと?」

 訊くと憂鬱そうに俯いた。

「沙溢様は武に抜きん出た御方。それゆえおそらく……王太子に対して、謀叛むほんを画策しているのではと、私はそう思うのです」

「長子は拮抗しえない、か」

「王太子殿下はどちらかというと文筆に優れておられる温厚な御方ですので。なので沙溢様に私がけば、どうしたって力で押しきって乱を起こしてしまうのでは、と。それに、私の殿下に火の粉が振りかからないか心配で」


 豊かで美しい銀の髪の第四公子。瓉明にとって澄んだ泉そのものの清い彼には、火も血のにおいも鉄の粉も、どれも全てが似合わない。


 泛仁は鼻を鳴らした。「それなら、やはり五泉ここのように戦い合わせ、潔く決着をつけたほうが簡単だ。王位継承は泉主に最も早く生まれた男子と決まっている。憂いがあるなら、取り除くしかない」

 瓉明は深く息を吐いた。

「やり方に賛成は決して出来ませんが、民をしいたげる痴鈍おろかな泉主を生み出さないという点で、この篩別の儀というのは一理あること……なのかもしれません。認めたくは、ありませんが。王の初子ういごが必ず有能なわけではない。それなのに継承は揺らがないので、泉根の中で最も秀でた者を人が選び、他の選択肢を除く……」


 継承者のしるしとは黎泉てんからくだされる。だれも偽の王を据えることなど不可能だ。

 瓉明の苦悩の呟きを聞いていた泛仁はしばらく黙り込むと顔を上げた。


「……もう一つ手がある。泉根の男子全てをお前が殺して、王位にく」


 すぐには理解できず、穴の空くほど凝視した。


「な……にを言っておられるのです?」

「もしくは第四公子以外をお前が殺す」

「お待ちください」

 手を挙げる。「私はたしかに現四泉主の血が入っておりますけれども、泉根には数えられておりませんし、王統譜おうとうふに載せられてもおりません」

 泛仁は瓉明に指を突きつけた。

「隔てられているというのは人が決めたこと。理論としては可能だ。男子に優先されて徴が示されるのであれば、継承資格のある公子を抹殺すれば天命は自ずと泉根の女子にくだろう」

「突拍子もない。無理に泉根を絶やして女王を生み出すなど聞いたこともありません。泉が腐らないかどうかも分からないではないですか」

 本来は男子に与えられた権利なのだ。しかし泛仁はどうかな、とあらぬほうを見た。

「黎泉にそんな人の意思や情状が伝わっているのか、疑わしい。現に父王は継承権上位の兄を殺して泉主になったが、水は腐ってはいない」

「それはみな公子殿下たちだったからで」

簒奪さんだつと言っても過言ではない。やったことは同じだ」

 話し疲れたのか、泛仁はひとつ息を吐くと、では、と別の案を提示した。

「それほど第四公子が気がかりであれば、五泉こちらに連れてくれば良い」

「え……」

「少なくとも国外におれば騒乱は免れる」

「いえ、でも五泉も」

「この戦いは、明日終わる」

「……どういうことです?」

「俺が泉宮に辿り着きさえすれば、篩別の儀は終わると言っている」

「ですから、どういう……っ!」

 さらに問おうとした瓉明はひとつくしゃみをした。由霧の夜は夏でも肌寒い。泛仁はもたれていた場所をひとつぶん移動する。

「朔将軍、獬豸の傍に寄れ。少しは暖まる」

「いえ」「いいから来い」

 不承不承、瓉明ははなを啜りながら従う。立った彼女は自分と同じくらい背が高い。肩幅も広くてしっかりしている。


「……やはり、お前は大きいな」

「ああ。体格のことでしたか」


 遠慮がちに隣に腰を降ろし、小首を傾げた。

「幼い頃から武官を志しておりましたので、自然と体躯からだも大きくなったのです。可愛げがございませんでしょう?おかげでいまだに連れ添う者もおらず」

「……不自由はしていないように思うが」

 ええ、と首肯した。

「今の私に伴侶は必要ありません」

「……体の丈夫な女は好きだ。枯れ木のように細くて骨の折れそうなのは危なっかしくて見ておれぬ」

 言いおき、自分は何を言っているのかと珍しく慌てた。

「すまない、言が過ぎた」

 それを聞いても瓉明はおおらかに笑った。

「私の殿下も背の高い私に抱き上げられるのがお好きでした。兄上様たちには気安く近づけず、父王様ともあまりお触れ合いになれないので、私ばかりに肩車をせがまれて」

 そうしてふと、首桶を見つめた。

「広清殿とは、仲がよろしかったのですか」

「そうでもない。あれが勝手にくっついて来ただけだ。……しかし、乾児こぶんが死んで心が痛まないほど冷酷なつもりはない」

「そうですか……お母上様のご親類なのでしょう?さぞ胸を痛めていることでしょう」

 そうだな、と気のない返事をした。やはり少し疲れた。随分と饒舌じょうぜつしゃべった気がする。瓉明はそれを感じ取ったか、寝ましょうと言って獣の毛並みに頭を預けた。

「……不思議だ。こんな妖獣と寝るなんて。柔らかくて温かい……」

 目を閉じ呟いた寝顔を見ながら、泛仁は何気なくその頬に垂れかかる髪に触れそうになり、しかし思い直して手を引っ込めた。




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