〈五〉



 それから半月ほど、戦況は膠着状態だった。小規模な衝突は繰り返したが決定打にはならず、西軍は徐々に北上し、央軍はそれをいたく警戒してか宿営を遠巻きに見張る斥候の姿が何度も目撃された。


 瓉明と信宜はというと流されるままに西軍と行動を共にしていた。五泉全土はすでに戦乱状態であり行き場もなく、また自分たちのことも五泉朝廷に伝わっており、このまま四泉に帰ってはあまりに不敬だろうというわけで応答を待っているという頃合いだった。


 田鼓が気を回して付近の郷里から下女を雇いあてがってくれた。おかげで洗沐ゆあみが心ゆくまで出来る。五泉の夏は四泉ほど湿り気がなくからりとしているもののやはり暑い。正直手持ち無沙汰なので兵たちと手合わせをし、兵練の真似事などしていればなおさら汚れる。田鼓は瓉明の行動に賞賛と感謝こそすれ批判などしなかったし、軍長たる泛仁もときおり瓉明の指導の様子を黙って見ているだけで何も言うことはなかった。


 広清は泛仁に泉畿へ行けと命ぜられたのにもかかわらず引き続きとどまって毎日天幕を訪ねては助命嘆願の口添えを頼みに来ていた。断らない泛仁も泛仁だ。瓉明は彼が広清のことをよほど可愛がっているのかと思っていたが、田鼓に「殿下の酒量がますます増えた」と愚痴を洩らされ特にそうではないのかもしれないと結論した。



 ときおり、空に鳥が行き交っているのを多く見た。おそらく伝鳩れんらくだ。泛仁はしきりに飛ばして各方面の情報を集めているようだった。そして今日も、天幕近くの小枝に一羽鳴いている。主人はいないのだろうか、あしに伝書が括り付けられたままだ。このままでは不憫だろうと手を伸べて鳩を捕まえた。


 公子の寝起きする幕営の前まで来て声をかける。

「殿下、淕朔でございます。いらっしゃられますか?」

 返事はない。

「鳩が来ております。おせっかいかと思いましたがいつまでも枝に止まっておりましたので」

 返事はやはりない。どうしようかとつぶらな瞳で小首を傾げる鳥と見交わした。文を勝手に外すわけにはいかないし。


 そっと、ほんの少しだけ入口の帷帳とばりをめくってみる。光が入るか入らないかくらい、少しだけ。すると奇妙な音が微かに聞こえ、瓉明はその場に根が生えたように棒立ちになった。

 密やかな、押し殺した嬌声だ。苦しげに我慢し高く甘く響くのは若い女の声。合間にとぎれとぎれに、獣が吐き出す咆哮のような荒い息が被って聞こえる。


 しまった、と我に返り慌てて離れた。場を読まないことをしてしまった。新兵の頃以来の失態に額を押さえる。おそらく覗いたのに気がついたろう、申し訳ない。


 公子の天幕がなんとか見える遠くまで退き鳩を撫でながらいたたまれなくなった。よく晴れた昼下がり、側近は指導、兵は訓練、見張りは天幕群の外周にしかおらず、人払い。――――予想できたことだ。

 こんな時こそ信宜にいて欲しかった。彼なら早々に悟ってすっぱり止めてくれたろうに。いまは兵たちと付近の川に水浴びに行っているからしばらく戻らない。

 こういうことがあるとぎくしゃくするのだよな、と嘆息する。これが男同士ならまだ……しかし、あいにく自分は女である。気まずい。それも相手は公子だ。肩を叩いて冗談で取り繕うことも出来ない。


 もやとした気持ちを抱えたまま夕暮れになり、さて鳩をいい加減楽にさせてやりたいがと思いつつも自分の天幕へ戻れば、当人が入口の前で待っていた。

「殿下」

 慌てて跪くと泛仁は夜目にも泰然とした表情で瓉明を見下ろした。

「――――昼間、鳩を持ってきたと言ったろう」

「ああ……はい、ここに」

 目を合わせるのが気まずく、俯いて差し出す。少女ではあるまいし、と自嘲したがやはり屈託なく接するのははばかられ思わず顔を逸らしてしまう。


 泛仁は差し出された鳥を受け取る。わずかに瓉明の指に自分のものが触れたが、昼の慰藉を引きずって浮泛ふはんする様子は一切無く、頭を垂れる女に再び目を移した。


「……お前は……大きいな」

「…………えっ⁉」


 つい呟いた泛仁は内心、しまった、と思ったがそんなことはおくびにも出さず軽く頷いた。

「ご苦労」

 それだけ言うと歩き出す。しかし背に、あの、とおずおずと呼びかけられてやおら足が止まった。

「昼間はその……申し訳ございませんでした。水を差してしまい大変ご無礼を」

 瞬いて肩越しに振り返ればすでに暗く、あちらがどんな表情をしているのかは見えない。

「……いや」

 それだけ言うので十分だ。特に見られても羞恥などないのだから。しかし彼女は当事者よりもそれを感じているようだった。背が縮こまっているのは分かる。

「……文を見たか?」

 そんなことはどうでもいいのに、訊けば黙って首を振られた。そうか、と呟いて、なんだか妙な気持ちでその場を後にした。







 西軍と行動を共にしてひと月近く、ようやく朝廷から下命があったらしく瓉明は朝から信宜と連れ立ち大天幕へと向かった。


 正面に座すのは寡黙な主と横にはべるは重臣たち。向かい合った真正面で震える広清を見つけ、二人は場の空気を乱さないよう静かに隅へ座った。


「……泉主から勅命ちょくめいが下った」


 やがて泛仁が静かに言った。


「広清膂兒を協定違反による斬刑に処す」


 広清は伏せた顔を上げない。肩をいからせて荒く息をした。

「処刑は西軍に一任、しるしは使者を立てて泉宮へ持ち帰ること。刑に伴い、当該人は姓氏、爵位共に剥奪、無爵士伍しごに降格とする」

 読み上げられた命文にいきなり立ち上がった。

「私は……それほどのことをしましたでしょうか」

 こぶしを震わせ、涙目で泛仁を見た。

「ただ兄上に勝って頂きたい一心で……これまで身を尽くして来ましたのに、あんまりです‼」

「控えよ。すでに泉主のめいは下った。殿下のお心をわずらわすでない」

「兄上!泉主に嘆願してくださいましたか⁉私が今までどれほど兄上に、国に貢献してきたか‼母上と伯母上にも知らせてくださいましたか⁉」

 叫びながら涙を散らした様子に泛仁は微かに目を伏せた。

「膂兒。……泉主の命には、逆らえぬ」

 重い言葉を広清は力の抜けたようにぽかんとして聞き、それからくつくつと笑い出した。

「所詮は……兄上もその程度だったというわけですか。どうせ妾腹めかけばらの公子ですものね」

「不敬だ広清!口を閉じよ!」

「こんなことなら……初めから王太子殿下にお仕えすべきでした」

 ゆらりと揺れて立ち上がり胡乱うろんな目で睨むと、がばりと付近の侍臣に覆いかぶさって剣を奪った。


「――――広清‼」


 男たちの悲鳴に乗って素早く主へ駆け寄る。大きく構えて振りかぶった。ように見えた。


「殿下‼」


 瞬きの間に五体が破裂した。青年だったものが飛び散り赤い水がぶちまけられる。まともに浴びた泛仁はしかし目を閉じず最初から最後まで光景を見届けた。


 長い尾が盛大に血飛沫を撒く。凪いでいた毛は白豪やまあらしのように総毛立ち、鉄棘の棍棒となり敵を打ち壊した。使い手を失い飛んでいった剣が回転して天幕の骨組みに突き刺さり、遅れて周囲が悲鳴をあげる。

 狴犴は濡れた体毛を犬が身震いするのと同じように乾かし悠々と目を閉じて、まるで何事もなく寝かせた尾の毛先で労わるごとく主の汚れた顔に触れた。

 どこまでも感情のない泛仁はようやく、ひとつ息をついた。


「…………頭は辛うじて、あるか…………」


 錯綜した場でゆっくりと立ち上がり、血溜まりに沈む残骸を抱え上げる。自失した臣下たちを見、それから前方を見た。

「……実は膂兒の首を運ぶのに指名を受けていてな」

 崩れかけて水の滴る塊を差し出す。


「朔将軍、お前が泉畿まで運ぶんだ」


 瓉明はしばらく慄然として硬直したままだった。




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