〈三〉



 おぬしは甘いのう、と男は口を歪めた。


『人は一人にしか仕えることは出来ぬ。たとえ生長くとも、一度に二人の主に仕えることは忠にもとる』


 言ったのは第二公子の沙溢さいつだった。


『おぬしの腕を買っている。我と共に来い、瓉明』


 しかしそう言われて差し出された扇を受けることが出来なかった。


『なぜそうもかたくなにあのに付き従う?おぬしの母があれの母に仕えているからか?』


 嘲笑う。


『おぬしには不足よ、あのように弱々しく愚昧であるのに。王家の血を受け継いだのは容姿みためだけ。あれは今もこの先も我々の毒にも薬にもならぬ添物こものぞ』


 次いで溜息を落とした。


『……父上のお具合が良くない』


 はっとして思わず見上げたこちらに一瞥し、沙溢は格心まどの玻璃に透ける園林を憂いを含んだ目で眺めた。彼がそのように弱気なかおをするのは大変珍しく、しばし言葉を失った。


『……四泉には、強い王が必要なのだ。その為には強い兵がどうしても要る。瓉明、返事はすぐでなくとも良い。ただ、その答え如何でおぬしの命運も変わることを肝に銘じよ』


 何をするおつもりなのです、と問いたかった。しかし言えなかった。絞り出すような低い声だけで、さすがの自分にも、彼がいったい、何を考えているのかがうっすらと感ぜられたから。それは決してあってはならないことだと分かったから。







 瓉明と信宜は西軍に随伴して北上した。撫軍将の広清の軍は西軍の後方を守っていて、主軍に従い兵を移動させている。


 国境沿いに市街地を迂回するように行軍しているので近くに都城はなく、左端を見渡せば紫雲の漂う深い森がじっとりと繁っている。


 五泉の西部は起伏の激しい土地柄で急な坂道を登り降りする移動は兵も馬も疲弊する。ひるを過ぎ、小川の流れる林に囲まれた閑地に辿り着いた一行は束の間の休息のために停止した。


 五泉の泉は遠目には四泉のものとそれほど差異はない。しかし陽光を浴びて反射する水面はしのぎを削ったときに飛び散る火花のように、赤やだいだい、黄味の多い五彩の輝きを放っていた。眩しさに目を細めてすくい上げると光の粒はちかちかと瞬きすぐに消失し、あとには水色のない清水が残る。


「俺たちはこのきらきらしてるのを金水熙きんすいきと呼んでます。ほんとうに金粉を散らしたようでございましょう?」

 隣で水桶を担いできた兵が言い、瓉明は頷く。

「いつ見ても美しい泉水だ。泉主の御業のお陰ですね」

「四泉のように薬泉ではありませんけど、浸かれば戦傷いくさきずにはよく効きますよ。節々の痛みもとれますし」

「さすがは五泉。有難く頂きます」

 丁重に言った瓉明に兵卒は笑って手を振った。

「そんな、長寿の国である四泉の御方に褒められたんじゃあ肩身が狭いです。減るもんじゃあなし、どんどん飲んでください」

 それに笑い返して見送り、隣で浮かない顔をしているほうへ向いた。

「なあ、それほど気にかかるか?」

「少なくとも将軍のように陽気ではいられません」

 信宜につられて空を見る。丘の向こう、前方に黒煙が上がっている。

「たしかに怪しい雰囲気ではあるが……」


 兵たちは特に緊張もないが、人よりも気配に敏感な馬は違う。耳が忙しなく動いて、鼻息も荒い。

「馬が落ち着かないのはあの煙のせいでは?戦線に近づいているように感じますが」

「そう、私にもみえるけれど……こちらは後方だそうだぞ」

 信じられますか、とまだ不満そうだ。そこへ広清が馬を駆ってやってきた。

「瓉明どの。先の様子を見てきます。兵は置いていきますゆえ、進軍指揮をお願いできますか?」

 息を弾ませ何か焦るように周囲を見渡している。そんな彼に信宜が待ったをかけた。

「将軍はあくまで軍事顧問ですよ。指揮官は別で残して頂きたい」

「何かあったので?」

 問うた瓉明には愛想笑いを寄越した。

「問題ございません。しかし少しばかり敵と位置が近いようでありますので、斥候と共に偵察に出ます。すぐ戻ります」

 苦言は無視して再び駆けて行ってしまう。信宜は瓉明を振り返った。

「どうします」

「……まあ、頼まれてしまったら進めるしかないだろう。目的地は立てているのだし」

「しかし、危険では」

「どのみち状況が分からないからね。斥候ということはそのうち帰ってきてくれるだろう」

 腰を上げた。「どうしたものかな。煙のほうには行きたくないが」

「このままここで駐屯なさっては?」

 首を振った。後方を指差され、信宜は目を見開く。後方にも微かに煙がたなびいている。

「挟まれた……?」

「まだ分からないけれど、広清殿のあの焦りよう、とどまって良いことはなさそうだと思わないか?」

「しかし、前方にも煙が」

「追っ手が来ているなら進んだほうが良いな」

 東に出よう、と森の右手を差した。「地図によれば東は開けていて見晴らしがきき、都城がある。市中を巻き込まないという約定ならたとえ敵であっても無闇に攻めては来ない」


 それで兵を連れて東の簇生そうせいに入る。木々の緑が光を透かし青々とさざめくなかを慎重に進む。もう少しで森を抜けようかという先に、灰色の壁で囲われた郷里まちが見えた。なんとはなしにほっとしてさらに手綱たづなを振った。広清はまだ戻って来ない。


 瓉明は今回、本来なら旗を振る立場ではないから総指揮を務める彼にことわらず軍を動かすのは本意ではない。郷里があるのなら近くに駐留し、申し訳ないが盾にさせてもらおう、と心を定めた。――――その時だった。



 鋭い風切り音がして脇に控えていた護衛が短く呻く。振り返った瓉明はその喉元に突き刺さる矢を見て瞠目どうもくした。一瞬後には抜剣しどこからか飛んできた次矢を叩き落とす。


「皆、駆けろ!森から出ろ!」


 掛け声で兵が我先にと森の外を目指しだす。すでに付近は火矢が放たれ木々に燃え移っている。


「罠です!油を撒かれてる!」


 焦げたにおいに腕で鼻を押さえながら信宜が言った。馬の下でさらに悲鳴があがる。


「第三公子の軍だ!」


 二人は耳を疑った。


「公子⁉どういうことだ⁉」


 怒号に包まれた森は今やあちこちで火の手が上がり煙で道を遮られている。瓉明は逃げ惑う兵らの注意を自分に向けさせた。

「皆、東へ走れ。森を抜けて都城へ駆け込め‼」

 がなったのに、ひとりが叫び返した。


「四泉の御方々!黙っていて申し訳ございませんでした!」


 火玉になった兵たちが四方八方に散る。


「これは模擬戦などではありません!戦でございます!五泉わがくにの三人の泉根による継承戦争です‼」


 叩きつけられた事実に二人は一拍、呆気に取られる。

「継承――戦争?」

「演習でもございません!無関係なあなた方を巻き込むのは本意ではありません!どうかお逃げ下さい!」

 そう言うと絶叫して火の中に消えていった。瓉明は馬首を返す。

「とにかく、市街地へ逃げ込もう」

「門が開いているかどうか」

「近くまで走ろう。森を抜ければ敵の姿もおのずと見えるはず」


 それで声を上げながら兵たちを先導して森を突っ切る。信宜が横でやぶいだ。

「森を抜けたら待ち伏せされていませんか⁉」

「矢は後方左から来た。森から追い立てようとするなら挟み撃ちにするはず。敵兵は包囲を完成させていない」

 まだ間に合う、と願望半分で言った。もちろんただの憶測にすぎず、木々を抜けた先には弓弩きゅうどが待っているやも。そう思い覚悟して駆け抜けた先、郷里の壁へと続くひらけた荒地には敵兵の姿はなかった。


「将軍、門が開いています‼」

「よし、ひとまず避難するぞ!」


 進め、という号令についてきた兵が声を上げる。守備の門卒もんばんが突如として現れた軍兵に慌てて扉をせばめようとするも、半ば蹴破って城内へなだれ込み、直ちに閭門りょもん全てを閉めさせた。


 興奮収まらずいななく馬をなだめてなんとか停止させ、瓉明は後ろを振り返る。残った兵は半数ほどだ。荒い呼吸を整え部隊長に数を確認するよう命じ、腰を抜かしている門卒に近づいた。


「すまない、ご迷惑であるのは承知している。失礼ながら、この郷は」

「は、はあ。子兎しと郡の、郡郷です」

「貴国は継承戦争のただなかと聞いたが、街が攻められないというのはまことだろうか?」

 門卒は目を白黒させて頷いた。

「市中の攻撃を禁止することは宣旨が出されております。民が戦に加わるのも。あくまで軍兵どうしの小競り合いである、と……」

 そうか、と安堵して汗を拭った。「しかし、街に入り込むのは法度に触れたろうか」

「そんなことを言っている場合ではないでしょう。無関係なのに殺されかけたんですよ、こちらは」

 信宜が怒り冷めやらぬという面持ちで一緒に逃げてきて座り込んでいた兵のひとりを掴み上げた。

「皆、知っていて黙っていたな‼なぜこのようなことをした‼」

「……広清様の、ご指示です」

「軍内で口止めしていたか。この内乱は五泉主もご存知なのか⁉」

 肯定の頷きを見てとって二人は呆れた。

「泉主主導というのは嘘ではないのか……」

「では朝廷も容認の内乱だと?」

 信宜は有り得ない、と首を振った。瓉明は兵たちに休むように言い置き、急いで隔壁を登る。

「将軍、国が主導する内乱なぞ、そんなことまかり通るのですか。継承戦争ということは、次代の泉主を決定する戦ということですよね?」

「……そういうこと、なんだろうな」

 では、と信宜はほつれた髪を掻き上げた。

「西軍は誰をたてまつっているのでしょう。あの広清とかいう小童こわっぱは何者に仕えているんですかね、顔を拝みたいものです」

 それに瓉明は指を差して答えた。

「おそらく――あれだ」


 壁上から見下ろした先、塵埃ほこりの煙を巻き上げ左右から兵馬が恐ろしい勢いで交点へと近づいていく。北側の斜面から駆け下りる白い群れ、そこから少し遅れて騎馬の集団が見える。馬上に撫軍の旗をみとめて信宜が鼻を鳴らした。

「兵を置いて己だけ主軍にすがりましたか。情けない」


 瓉明は上の空でふたつの軍団が交差し、撃ち合うのを瞬きもなく見つめていた。耳を貫く剣戟の音は訓練で聞く生ぬるい鈍足の間延びしたものではなく、折れそうなほど鋭く甲高い殺伐とした悲鳴のような響きだった。加えて、むっとして息もできない、ただならぬ殺気。吹き上がってきて瓉明たちを取り巻いた。その風に、心の内で震える。共鳴する。己のうちでくすぶる火種が。


「――――将軍?」


 信宜は怪訝に隣を見る。


(……笑って、いる?)


 もう一度よく見ようとすれば、すでに上官はいつもの穏やかな顔で自分を見返していた。


「争いが収まり次第、門を開けよう。詳しく仔細を聞かないと」

「ああ……ええ、そうですね」

 信宜は生返事をしてもう一度城外を見た。白い群れ――彼らの乗っているのが馬ではないということに、今更ながら気がついた。

 主に従って慌てて階下へ降りる。瓉明もおそらく把握したはずだ。門前の小競り合いがすぐ終わると。あの白い獣は、他国にまで高名な無敗の常勝軍が乗りこなすというくだんの。




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