第10話 ◆
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子曰く、四十にして惑わず、五十にして天命を知る──五十歳はすなわち〝知命〟だ。だが、本当のところ〝致命〟なのではなかろうか。五十にして致命的な過ちを犯す。
私はいつも言葉が足りない。妻や息子との関係がこじれたのも、それが原因の一つだったのだろう。
花束の横からうんとこ顔を出してだんまりの瀬名の様子を伺えば、案の定、意味がわからないという表情を浮かべていた。
いたたまれなくなり、頭を引っ込ませて言う。
「いや、違う、セクハラではない、そんなつもりはない、やった側の〝そんなつもりはなかった〟は十割嘘だが、今回だけは適用外だ、私なりに考えた結果だ、説明するから聴いてくれ、頼む!」
瀬名からの反応はない。けれど、去ってしまう気配もなく、祈る心地で続ける。
「瀬名は
瀬名は一所懸命、真面目に生きて、でも、どうにもならない事態に陥った。なのに周りは努力が足りないふうに責め立ててくる、少なくともそう感じられる。
だから、少しばかり憂さ晴らしというか、やんちゃというか、雑にしたくなったんじゃないのか? だが、おまえはその対象を自分に向けた。言ってみりゃ自傷行為だ。だから五十路相手にセッ・・・・・・しようなんて」
怒っているだろうか。ままよと続ける。
「ゆえに、花だ。花はそう食べるものでもなく、何かを作る素材にもなりにくい、衣食住に必須ではなく、花屋でもなけりゃ、無くても生きていける。これは似てないか、生殖活動を伴わない場合のセッ・・・・・・に。ぱっと明るく、愛でられる、そういう刹那的な快楽と同じだろう。でも、もらう花なら傷つかないで済むだろうし、見舞品としても適切というか有用というか無駄にならず、つまりは
言葉は尻すぼみになり、途切れ、次に盛大なくしゃみが出た。はずみで抱いていた花束を前に突き出してしまう。がさッという音と、軽い衝撃を感じて瀬名にぶつけてしまったとわかる。悪い、すまん、ごめん、焦って謝るが、彼女は別のことを訊いてきた。
「いつからここでお待ちになられていたのですか?」
花束越しに、いくぶんくぐもった声が響く。聞こえるというより振動が伝わってくるという心地だった。
「・・・・・・二時間ぐらい前か。病院向かいの花屋で作ってもらって初めの一時間くらいは中で待たせてもらっていたが、どうにも居心地悪くて」
瀬名の表情を確認したく、花束の横から顔を出す。しかし、やはり彼女の喜怒哀楽は計りきれない。花束に顔を押しつけるように俯いていたから。見ようによっては花を挟んで抱擁を交わしているふうでもあり、泣いているふうでもあり。はっとして私は声を上げた。
「お袋さんは、」
「大丈夫です。頭を打ったようですが、今のところ異常ありません。骨折もしていません」
そうか、と安堵の息を吐く。
瀬名は面を伏せたまま身動きしない。
一人馬鹿でかい花束を抱えて待ち続けていた時もだったが、なかなかに周囲の視線が痛い構図だった。ぽつぽつとやってくる見舞い帰りの人々が興味津々に我々を見る。
この花束は、花屋に秋花メインでオーダーしたのだが、相場がわからず、財布に入っていた日本銀行券を一枚だけ残して差し出したところ、想像以上に大きくなって出来上がってしまった。
「ともかく、これ、お袋さんの見舞いだ。その、セッ・・・・・・のくだりは忘れてくれ」
しばし無言の後。馬鹿ですね、くぐもった声が聴こえてくる。瀬名は俯いたままのため、つむじが物言ったようでもあった。
「総合市民病院では、細菌による感染症のリスクを避けるため生花の持ち込みは禁止されています」
へ、と間の抜けた声が漏れた。ほんとう、ばか。つむじが揺れる。私は反論を持たない。呆然と突っ立っているしかできない。では、この絢爛たる花束の行く末は。
刹那、それは柿の木の枝に留まっていたジョウビタキが飛び立つような仕草だった。瀬名が唐突に身を翻し、その背に飴色の陽が射す。数歩後ろでくるりと
カシャシャシャシャシャシャシャシャシャシャ──
えげつない連写の音が響き、突然のことで私は対応できず、固まる。あろうことか、瀬名は花束を抱きかかえる中年男を天辺から爪先まで舐めるように撮影してきたのだ。なんたる辱めか。
花束と中年、なかなかにウケる構図かもしれない。SNSにあげられてバズるだろうか。明朝の定例会議で追求されたなら、どう弁明すればいいのか。
「おい瀬名、やめろ、インターネットにはあげてくれるな!」
「〝
虚を突かれた。別にいいんですが、と瀬名は携帯端末を構えたまま言う。だってだって病院で瀬名と呼ばれていたじゃないかとしどろもどろに返せば、昔から母娘でお世話になっているので混同しないように名前で呼ばれているのです、と至極真っ当な理由を突き返される。
瀬名、瀬名、と出会って数日の若い女の名前を連呼していたなんて。耳が熱くなるのを感じた。これもまたここ数日で知ったのだが、私は感情が昂ぶると耳が熱を帯びる性質らしい。振り返って十数年、恥ずかしいなどという感情とは無縁だったというのに、この一週間で何度でも。
撮影を止めた瀬名は再びこちらに背を向け、病院の時間外出入り口へと走る。
「瀬名!」
またうっかり名前を呼んでしまう。彼女はきびきびとした動きで振り返り、母に写真を見せてきます、と叫び返してきた。
「すぐ戻るので待っていてください、すぐ!」
晩秋の気の早い黄昏時、薄暗くはあったが、瀬名の表情はわずかに明るかった。呆れ半分かもしれないが、確かに笑っていたのだ。分厚い鈍色曇天から光射すように。
なにかあったかいもの食べに行きましょう──そう末尾に言添え、疾風のごとき勢いで病院へと突入する。金色銀杏ふるふる病院の遊歩道に、巨大な花束を抱えた中年男を残して。
そういえば、昼を食べそこねていた。思い出すと猛烈に腹がすいてくる。秋風にふかれて鼻水をすすりつつ、かきたまうどんを出してくれる店がどこかあっただろうかと考えた。
絢爛たる花束を錦秋の良き日、君 坂水 @sakamizu
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