第9話 ◇◆
◇
結論から言えば、母は骨折を免れました。
個室の便座に座ろうとして目測を誤り、倒れてしまい、そのまま三十分ほど意識を喪っていたとのこと。心配すべきはむしろ頭部打撲でしたが、こちらも大きな異常は認められませんでした。もちろん、遅れて症状が出ることもあるので注意が必要でしたが。
今回の件で、やはり一人にしておくのは危険であり、退院ではなく、緩和ケア病棟への入院を勧められました。
病院の最上階にあり、全部屋個室、二十四時間面会可能、共同のキッチンがあり、付き添いがあれば屋上庭園にも出られるそうです。
ただ、長期の入院は認められておらず、その後について考えねばなりません。叔母は退院したなら付き添ってくれると申し出てくれましたが、叔母のご家族に迷惑をかけましょう。とにもかくにも、週明けに緩和ケア病棟の面談を受ける運びとなったのです。
肺炎により見舞いを控え、久しぶりに会った母は、小さな頭をピンクの毛糸帽子に収めて、顔映り良く見えました。息せき切って駆けつけたわたくしにベッドの中からなんとも気楽にひらひら手を振ってみせて。
来ちゃったの、別に来るほどじゃないのに、痩せたんじゃない、風邪の具合はどうなの、不摂生してるから・・・・・・
ゆっくりではありますが、そう途切れずに言ってくるのでした。そして、冷蔵庫にゼリーあるから食べなさい、と勧めてきます。
どっと力が抜けて、また久しぶりに顔を会わせたばつの悪さもあり、ぶっきらぼうに返答しました。
そりゃ来るでしょ、病院から連絡あったから無視できないし、風邪はもう治ったから、不摂生してません、三食きちんと食べて寝ています──
しばらく喋っておりますと昼食の時間となり、母の食事が運ばれてきました。母が食べる横で、わたくしも先日わたくし自身が叔母に頼んで差し入れたゼリーをゆっくりといただきました。母は量はさほどではありませんが、全品に箸をつけており、食欲はあるようで多少安堵いたしました。
食事が済み、退屈になってテレビを点ければ、去年放送されていた連続ドラマの再放送が流れてきました。年明けに新作スペシャルドラマがやるらしく、なんとはなしに二人して観入ってしまいます。筋を知っているので、いとも気楽に、茶々を入れながら。
終わった後にザッピングすると、フィギュアスケートの試合に行き当たり、百花繚乱、花のような衣装を纏った女子選手たちの活躍を眺めました。
観ながら、緩和ケア病棟についてぽつぽつと話しました。本人が嫌がるようならば、いくら周りが言ったところで無理強いできるものではありません。
最上階なら届くかしら、と母は尋ねてきました。病棟は確かに最上階ですが届くって何が、まさか天国にとかじゃないでしょうね、もしや頭部をぶつけた影響か・・・・・・と危ぶんでいると、ラジオ深夜便が聴けなくて困っていたのよ、ちょうど良かったわ、そんなことを言うのです。
ああ、ラジオの電波。わたくしは得心しました。今いる病棟は、病棟と病棟に挟まれた四階、電波が届きにくい位置にあることは察せられます。
スマホのアプリで聴けるようにしようかと申し出れば、そういうのは面倒だからいいの、電波がいいの、音がいいの、とわからないようなわかるような理屈をこねるのでした。
結局、だらだらと四時間ほど過ごしたでしょうか。散漫な空気は散漫ゆえに断ち切りがたく、長居してしまいました。
いよいよ帰ろうとストールを羽織って身支度すると、母はエレベーターまで送ると言って、起き上がります。
いやいや、転倒して気を喪ったばかりの人が何ゆってんの、自重して、寝ていて! と叫びますが、聞く耳もたず。寝たきりになったら困るでしょう、と言われてしまえばぐぅの音も出ません。それでも一応、エレベーターまでは来ないで、せめてナースステーションの前まで! と言えば、わかりました、わかりましたよ、となぜかこちらがいなされたのは納得しがたいことでございました。
点滴を引き連れる母の歩調に合わせて、ゆっくり進みます。
あら、かわいい服着て、どっかに行くの?──今更に母が訊いてきます。その表情はなんとも嬉しそうでした。
瞬間、名状しがたい感情におそわれました。もう夕方近く、今から出掛けるわけがない、明日から仕事だし、病み上がりだし、それに──
・・・・・・行かないよ、どこにも。
溢れ出そうになった諸々に蓋をして、中学生のようにつっけんどんに返しました。
ナースステーションの前までやって来て、じゃあね、と手を振り合います。日曜の午後は静かで、照明がしらじらと明るく、看護師の方はまばらでした。
手を振り合うものの、母はなかなか部屋に戻ろうとしません。早く戻ってといえば、瀬名がエレベーター乗ったらね、と返してきます。こちらはこちらで母が部屋に戻るのを見届けねば安心して帰れません。
しばらく押し問答して、じゃあ、一斉ので回れ右しよう振り返るの禁止ね、と提案すれば、はいはいと軽く応えます。
いっせいのーで、と背を向けて数歩。振り返れば、案の定、母は背を向けず、わたくしの方を向いてにこにこ笑っているのでした。
もう、夕飯まで寝てなよ、疲れたでしょう、また倒れるよ、言いながら小走りで母の元まで戻り、病室まで付き添って、ベッドに押し込めました。
母は布団の中から手を振り、わたくしは半ばぐったりしながら手を振り返しました。
そうして病室を出て、ナースステーションから病室の出入り口を眺めて一分待機。さすがにもう見送りに来る気配なく、看護師の方々に挨拶をして折れ曲がった廊下の先にあるエレベーターに乗ったのでした。
呼び出した箱には、誰も乗っておらず、操作ボタンを押して奥まで進みました。奥はガラス張りになっており、早々と暮れゆく町並みが一望できます。
溜息まじりにわたくしは、突き当たり角のガラス壁に額を押しつけ、目蓋を下ろし、そのまましばし、身じろぎしませんでした。いえ、できなかったというのが、正解でしょう。
──遠からず、わたしは母を喪う。
その事実がひしひしと迫り、ぐっと息を止めなければ叫び出してしまいそうだったのです。
闘病している本人にはなんとも失礼な話でしょう、一番身近な家族が諦めているのだから。でも一か月後か、半年後か、一年二年、あるいは五年先なのかわからねど、確実に。そう己に言い聞かさねば、来たるべきその日に立っていられない。
〝・・・・・・行かないよ、どこにも〟
母へ向けた台詞は、本音と少し違いました。
行きたくない、どこにも。ただ貴女のそばにいたい。
日がな一日、ベッドの足下に置いた椅子に腰掛け、頭を布団に預けていたいと希っているのです。
だけれど、もうすぐ三十路を迎える、なんの資格もツテもない独身女に、そんなわがまま許されるはずなく。
エレベーターが一階に着き、頭をガラス壁から引き離し、現実に戻れば帰りの足がないことを思い出しました。
動揺して戸比氏に総合市民病院まで送迎してもらったのは昼前のこと。バスはあるかしら、タクシーはお高いので避けたいけれど。それとも来週はお弁当を作って昼食代を浮かせて、タクシーを使ってしまおうか。山ほどの仕事に出迎えられるであろう明日から、そんな芸当できっこない・・・・・・
母の傍にいたいと思いながら、同時に小金のやりくりを考える自分は根っからの吝嗇家なのか、リアリストなのか。
目元を拭い、時間外出入り口へ向かいます。横切った総合受付は、内側からブラインドが下ろされ、照明も消されており、寒々しく感じられました。
けれど、もっと寒々しかったのは外気でした。
時間外出入り口から顔を出せば、まともに風に吹きつけられ、身をすくめました。空は青鈍の雲が連なり、その隙間から夕日の帯が放射状に伸びております。風に舞う銀杏はさながら黄金蝶の群れ、近くの公園からは家族連れの声が聞こえてきます。
それは美しい、
夕日に紛れ、正面から人影がやってくるのがかろうじて見てとれました。わたくしは目元を押さえながら右に逸れて道を譲ろうとしましたが、どういうわけか相手も同調して右に逸れてきます。
むっとしつつ、ではやり過ごそうと足を止めました。
近付いてくるその人は銀杏の葉が降り頻る中、何かを抱きかかえていました。胸から、体幹からはみ出るほどのそれ。
大きな、ふわふわ、ふくふくした・・・・・・猫? 巨大な三毛猫っぽい。
病院に、なぜ、猫? 訝んだその時。
「瀬名!」
聞き覚えのある声に、わたくしは目をしばたたかせました。戸比氏です。抱きかかえたそれでご面相は見えねど、洒落者らしい足元──スウェードのローファー──から察せられました。
これ、と戸比氏は巨大な猫を差し出してきます。
受け取るのをためらうほど大きなそれ。いえ、目元をこすり、よくよく見ればそれは猫ではありませんでした。どうして見間違えたのか我ながら謎ですが。色合いとずっしりとした肉感が、昔、家にいた猫に似ていたからかもしれません。
花──
コスモス、ダリア、ピンポンマム、ケイトウ、ワレモコウ、トルコキキョウ、リンドウ、ネリネ、アスチルベ、アキイロアジサイ、オータムローズ・・・・・・ぱっと見ただけでも十は超える秋花をふんだんに使った豪華なそれ。
「どうして、」
二つの意味を込めた〝どうして〟でした。
なぜまだいるのか、なぜ巨大な花束なぞ抱えているのか。対して戸比氏が叫んだ解答はわたくしの想像を絶するものでした。
「だから、つまり・・・・・・これが私のセックスだ!」
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