第8話 ◆◇◆
◆
瀬名は手を離して、赤い軽自動車の運転席側に回り込む。鳴ったのは私の携帯電話ではなかった。
はい、お世話になっております、瀬名が応答する。
声は高すぎず、低すぎずで、若い女のそれにしては心地良い。
どうやら私は聴覚もおかしくなっているらしかった。強いバイアスがかかっている。その別名に心当たりがあったが内心であっても言葉にはできなかった。
──はい、・・・・・・はい、はい。
仕事の電話だろうか。近くにいるとつい聞くともなしに聞いてしまう。私は並んで停めた車から少し離れた。
風は清く冷たく、身震いするほどだった。今秋一の寒さだ。週明けにはもう冬がやってくるのかもしれない。瀬名の頭も冷えるだろう。残念なような、安堵するような、間違いなく両方の気持ちがあった。
寒さにぐるぐると駐車場を回り歩く。しばらくして気付けば、瀬名の姿が無くなっていた。
まさかの置き去りかと慌てて周囲を見回す。いやいや、愛車を置きっぱなしなのだからと車の方へと行けば、瀬名は運転席の横でしゃがみこんでいた。膝と膝の間に顔を押し込んで、小さく蹲っている。通話はすでに切れているようだったが、携帯電話は手に握られたまま。
「おい、どうした。腹でも痛いのか」
うっかり忘れそうになるが、私たちは病み上がりだ。まだ本調子ではないのに動き過ぎたのかもしれない。
大丈夫かと肩をさすろうとして、許可なく触れるのはまずいと手を引っ込め、いやいやいやハラスメント怖がっている場合か、でもしかしと、葛藤の狭間で手は宙に浮いたまま留め置かれる。
瀬名がのろのろと蒼い顔を上げた。
「・・・・・・母が、病院で転倒して。骨折したかもしれないと」
◇
総合市民病院からの連絡に、情けなくも、わたくしは震えておりました。
母の癌は骨転移しており、前々から骨折の危険性は説かれていたのです。もしも折れてしまったのなら退院するのは難しい、主治医にはそう言われておりました。
もしかしたら、他愛のない日常が二度と戻らないという決定が下された瞬間なのかもしれない。
そう思えば、生まれたての子鹿じみて止まらなくなり、その一方、恐怖のあまり震えるとか本当にあるのだなあ、ウケる、などと考えておりました。
早く病院へ向かわねば、でも震えを身の内に押さえ込もうとすれば身動きとれず、何からすれば踏み出せるのかわからない。速く速くと気ばかり焦り、視界まで滲んできました。お先まっくら、行かなくちゃ、でも行ったところで──
唐突に、ひょっと、身体が浮きました。わずかに振り向けば戸比氏が背後から脇に腕を差し入れ、立たせたのです。そして肩を押され、押し込まれたのは、凹みも真新しい、空色の輸入車の、その助手席でした。
総合市民病院だな、と問われ、運転席に乗り込んだ戸比氏に頷きました。
シートベルトを、と言い差した氏は、なぜか氏もぷるぷるしながらわたくしの膝を越境して、シートベルトを引っ張り金具をカチャリと押し込んでくださいました。そしてご自身もベルトを締めて、空色の車を発進させました。
長いのか、短いのかわからない十分ほどのドライブを経て総合市民病院に着いた頃には、震えは収まっておりました。
戸比氏の運転は意外にも終始丁寧で、病院の正面玄関横の、時間外出入り口へと車をつけてくださいました。
後続車が来るので、長くは停められません。降車し、中へと駆け込もうとした足を止めて、運転席の戸比氏を振り返りました。彼は早く行けといわんばかりに窓から顎をしゃくります。無体な誘いをかけておきながら、反故にするわたくしを責めるでもなく、刹那、頼もしく感じられました。トクラベのくせに。
わたくしは氏へ向かって深く腰を折り、鞄からマスクを取り出しつつ、能う限りの早足で母の病室へ向かったのです。
◆
瀬名は病院に着いた頃には幾分落ち着きを取り戻したようで、自分の足で母親の元へ向かった。顔色は相変わらずの蒼白だったが。
夜間・休日診療用の小さな時間外出入り口に吸い込まれた背は小さく、子どもを一人遠くへ行かせる不憫さがあった。私も付き添うべきだったか、いや、何ができるわけでもなし、病人を驚かせるだけだろう。
車を病院裏手の広い駐車場に移動させ、ぼんやりと空を眺めた。今日の空模様は、青と灰が入り交じった層積雲が連なっている。秋を通り越し、冬の様相だ。
瀬名はもう病室に着いたろうか。
病院からの電話は心臓に悪い。亡妻の入院中に私も経験していた。だが、優一郎や秋月氏、義母、義兄夫婦と良くも悪くも気持ちを共有し、折半していたのだろ。
瀬名はどうだろうか。老医者は、〝あの親子には頼れる身内が少ない。優しくしろよ〟と私に言い含めていた。
実際、老医師の言葉通りなのだろう。でなけりゃ、〝いっそ、セックスしませんか〟などと絶対ゆわない。
彼女の望みを叶えるべきだったのだろうか。私にとって悪い話ではなく、役得であり、真実、瀬名が満たされるのならば協力するにやぶさかでない。老医師の言うところの〝優しく〟があてはまるのかはよくわからないが、そうできなくもない。いや、気持ちの悪い発想だとは十二分に承知している。
だが、瀬名が真に欲するところは違うのだろう、言葉通りのはずがない、多分。
私は大きな溜息を吐いた。
せめて、帰りもタクシーやらバスをつかわせるのでなく、送ってやりたかった。駐車場からでは、夜間・時間外出入り口は死角になって瀬名が出てくるのが見えない。
私は財布と鍵だけを持って車を降りた。
病院の本館をぐるり回り、名物の銀杏並木を抜けて正面玄関が見える場所に移動し、近くにあった植え込みのブロックに座り込む。
植え込みにはとおに季節も終わったコスモスがちらほら咲いており、彩りというよりも、うらさびしさを感じさせた。そこかしこに生えている銀杏にはまだ黄色い葉が残っており、それなりに秋の風情が残ってはいたが。
コスモス、曼珠沙華、リンドウ、ワレモコウ、菊──〝秋くくり〟ゲームは面白かったし、瀬名も愉しんでいたと思う。できるならば、そうやって単純に楽しませたかった。
〝いっそ、セックスしませんか〟──〝いっそ〟なんて張り詰めた、捨て身の、一か八かの行為なんておかしいのだ。相手が私だということも含めて。
もっと、そうではなく、──
ぴうっと吹き付けた風に、身震いした。外で待ち続けるには厳しい気候だ。
どうして、こんな日に限ってコートを忘れたかといえば、きっと浮かれていたのだろう。自業自得だ。
車に戻って待ちたくはあったが、瀬名と入れ違ってしまうかもしれない。私は医院の駐車場でしていたように、寒さを紛らわせるために病院前をうろうろ歩き始めた。じっとしていては、肺炎がぶり返ってしまいかねない。
夜間・時間外出入り口を見張れる──ストーカーじみているが──、喫茶店でもないものか。辺りにあるのは、コンビニ、調剤薬局、調剤薬局(二軒並んでいる)、コインランドリー・・・・・・それから。
その店は、一見、小洒落たカフェに見えて、私は歓喜した。飛び込んで勘違いに気付き、慌てて回れ右して、けれどその噎せ返るほどの色と香りと明るさに、もう一度店内に向き直った。
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