第7話 ◇◆



 土曜午前の医院は子連れの来院が多く、忙しく、また賑やかでありました。もういくつ寝れば十二月で、院内もそこかしこクリスマスらしく飾り付けが施され、微笑ましいやら、苦々しいやら、胸を衝かれるやら。

 一方、点滴ルームは平常運転であり、明るい静寂に満ち、昨日の疲れを引きずった大人二人がどんより横たわっておりました。

 戸比氏の疲労は言うまでもなく、わたくしもまたぐったりとパイプベッドに身を沈めていたのです。

 昨日は帰宅後、病人でありながら家事に勤しんでいたところ、二度とかかってこないと高を括っていた番号から着信がありました。

 なんで謝罪してこないんだ──元恋人からの電話は、要約すれば、そんな内容でした。

 関係は打ち切りになったと思い込んでおりましたから、驚きました。そして今は余裕がなく貴方が望むような付き合いはできないと申し上げれば、他に男ができたのかと責め立てられました。なぜそのような思考となるのか、まったく不可解なことに。

 今までの情報伝達不足を反省し、言葉を尽くして説明しましたが、相手は復縁しなければ信じないと主張し、意味わかんない。わたくしは途方に暮れたのでございます。

 同時に、叔母から伝え聞いた〝母の心配〟も頭をかすめ、復縁したなら、ひとまず母を安心させられるのではと浅慮いたしました。つまりは、打算が働いたのです。

 ゆえに交渉は長引き、相手は〝また連絡する〟という最悪に面倒なカードを切り、まとまらないまま中断となったのでした。


 一方の戸比氏はユーイチロー氏と連絡をとろうと、方々に当たったけれど繋がらなかったとのことでした。赤く充血した目、無精ひげ、こけた頬・・・・・・普段とさして違いがあるわけではありませんが、そこそこ憔悴した顔は心中を物語っているようでした。

 そうして二人同時に、湿った溜息を吐いたのは、無理からぬことでしょう。

 診察の結果、わたくしの通院は本日で最後となり、あとは処方された薬を飲み切っておしまいです。この甘く気怠く長かった病院通いも終わり、月曜からは復職いたします。

 なるほど、身体は恢復しました。ですが、問題は膨れ上がり、仕事は山積み、気鬱はマリアナ海溝のごとく深まりました。

 この一週間で、点滴ルームの窓から覗く景色は少し変わりました。ジョウビタキが突いていた向かい家の柿はすっかり食べ尽くされ、あとには真っ赤を通り越して枯れた茶となった葉が数えるほどにぶら下がるのみ。

 なんとも、ものがなしく、わびしく、やるせなく・・・・・・


 ──いっそ、死んじまいたいな。


 数日前、隣りに横たわる人が漏らした言葉は、そっくりそのまま、今のわたくしの心の穴に当て嵌まりました。けれど病身の母を残して死ねるはずなく、なれど嘘偽りのない本音で。

 あの日は〝死にたいわりにご覧になるのですね、ふともも〟と返し、不機嫌の生け贄になっていただいたわけですが、今ではその意がなんとはなしに理解できていました。いえ、理解というよりも、染み込んできたというか。

 やまない雨はなくとも、二度と降らない雨もなく、緩んだ地盤に家を建てる気にはなれない。臆病者のいいわけでしょうか。

 蜜のようにとろりとした秋の陽射しをからめられて身動きできず、またする気もなく、空往く鳥の編隊を見送りながら、死んでしまいたいですねと呟けば、息子を残して死ねるはずない隣人もまた、ああ、死んじまいたいなと漏らしました。

 そしてこの奇妙な共感シンパシィにおかしみを感じ、二人してふふと密やかに笑ったのでした。

 ある種の救いであり、ごまかしでした。一週間後には覚えてもいない、でも、今夜、独りで食事する時に思い出し笑いができるような、明朝、冷気の中で着替えるのをぬくめてくれるような。

 なんとはなしに気安い心地で会話を始めました。〝秋くくり〟のゲームを再開するように。


「別れた殿方から浮気を疑われました。もう、別れたと思った後で」

「そりゃ、難儀だな。でも、息子に疑われるよりかはありがちだ」

「より厄介なのはこっちです、元彼のストーカー化はあれど、息子のはないでしょう」

「逆に縁が切れたら困る」

「戸比さんは本当にずっとひとりきりだったのですか、全然、まじで?」

「いたなら、死んじまいたいなんて思わないだろう。多分」

「では、まったく罵られ損ですね」

「その上、車までボコられた。しかも両側」


 わたくしも戸比氏も男女関係においては潔白のようでした。

 生来、もてない身の上であるのに、空腹のまま食べてもない料理の支払いを請求されているようなこの理不尽さよ──

 その時、ふっと妙案が浮かびました。奇策というか、裏技というか、逆転の発想というか。食べてないから理不尽を感じる。だったら。

 戸比氏の通院は、わたくしと同じく今日までとのこと。

 この医院の通院圏内に住むそこそこのご近所ではありましょうが、今後はそうそう会うこともないでしょう。


「お仕事は月曜からですか」

「そうだな。日曜は出社する必要ないだろう」

「では、明日、少しお付き合い願えませんか」


 どこへ、と問う察しの悪い戸比氏に端的に申し上げました。


「ホテルへ。いっそ、セックスしませんか」



 瀬名は先に点滴を終え、明日の11時、第二駐車場で待っていますとわざわざ腰を屈めて、耳元に落としていった。

 やけくそか、本気にしたらどうする、親子ほど歳が違うんだぞ、 ──その吐息は冗談にしようとした私の言葉を封じさせるに十二分な効力があった。追いかけようとしても腕に針が刺さった状態ではどうしようもない。

 耳が熱く、ほどなくやってきた看護師には「あれ、暑かった? 今年初めて暖房入れたから」と言われ、咄嗟〝聞かざる〟のポーズとなる。


 待合室へ戻るとすでに瀬名の姿はなく、安堵なのか、落胆なのか、詰めていた息を吐いた。

 真に受けるな、真に受けるな、真に受けるな、念仏さながらに唱えて医院を出る。駐車場にはやはり赤い軽自動車はない。からかわれたのだ。点滴隣人関係は解消され、きっともう、瀬名と会うことはない。

 だというのに、帰宅後、掃除だ洗濯だ買い物だを済ませ、月曜の朝に備えてスーツやらシャツやら鞄やら出社の準備を整え、日曜をまるっと自由にできるようはからった。本当は凹んだ車を修理に出そうかと考えていたがすっ飛ばした。

 土曜の夜は長風呂して、日曜の朝には軽くストレッチ運動をしてまた念入りにシャワーを浴び、長々と歯を磨いた。

 まったくもって馬鹿げていた。娘でもおかしくない年頃の女の冗談を真に受けて掌でころころ転がされている。やらしい、きもい、ヘンタイ。会社でも管理者としてこの手のハラスメント研修はさんざん受けており、その末路を知っている。そう、真に受けてなどいない、たんに無視できないだけ、逆に叱ってやらねば、年長者として。

 私は成すべきことを成しつつ、平行して優一郎へ連絡をとろうと試みた。それは救いを求めるようでも、出てくれるなよと祈るようでもあり、畢竟、息子は応答しない。時計は人の心中慮ることなく針を刻み、11時5分前となり、私はマンションを飛び出した。

 果たして、赤い軽自動車は医院の第二駐車場にちょこりと停まっていた。遠目に小鳥が羽根を休めているようにも見えたそれ。

 そのまま駐車場に入らず、通過しようかとも考えたが、こちらに気付いたのか、人影が出てきて手を振ってくる。

 ゆっくりと車を進めると、人影も歩み寄ってきて、解像度が上がる。

 今日の瀬名は、柔らかな色のニット地のワンピースにいつもの分厚いストールを羽織っていた。マスクも外して素顔をさらしている。そしてわざとなのか、無意識なのか、脚には黒いタイツを装着していた。歩くたびに、きゅっと締まった細い足首と仄白く照り映えるふくらはぎが交互に覗く。

 〝物語的な姿ね〟──亡妻の声が甦り、さらには晩秋の陽光が、瀬名をやたらときらきら見せた。すべては己の脳の処理、感情補正、単純思考極まれり。相手は瀬名だというのに。

 車窓を下ろせば、おはようございます、とはにかんだ笑顔を向けてくる。

 これはまずい。大変にまずかった。嘘でもフリでも、自分に好意を向けてくる相手を好きになってしまうのは、どうしようもないさがなのだ。くりかえすが、相手が私を準痴漢行為者呼ばわりした瀬名であっても。


「戸比さんの車は目立つし、ボコられてますし、わたしの車で行きましょう。よさげなホテルをピックアップしておきました」


 のろのろと車を降りると、腕をとられ、ふわりキンモクセイのごとき甘い香りに鼻腔をくすぐられる。ひじょうによろしくない。私はなけなしの理性を振り絞り、逆鱗であると承知の上で踏み込んだ。


「はしたない、親が泣く」

「心配無用です。そも、母に言われたのです。ちょっとは遊べと」


 いや、意味違うだろ。少なくとも十も二十も歳上の男やもめと真っ昼間から宿泊施設へしけこめという意味ではない、絶対に。


「仕事も看病もしていて、遊ぶ暇がないのは当然でしょう。なのに、娘がどんくさいみたく言うのです、親ってだけで言いたい放題、心配しているのはこっちだというのに、いつまでたっても子ども扱いしてそのくせ誰か見つけろなんて虫のいい」 

「いや、そりゃ、おまえ、」

「お望み通りにしてさしあげるのに、なんの文句がありましょうや」


 主張する瀬名は目論見とは裏腹、幼く感じられた。親を困らせるのに、露悪的なことをしてやろうという子ども。

 さ、参りましょうと瀬名は私の腕を引っ張る。その華奢でありながら柔らかい矛盾の感触におののき、私は硬直した。


「ご妻女に操を立てていらっしゃるのですか」

「そういうわけでは」

「ではよろしいですね。みんなの鼻を明かしてやりましょう」


 瀬名の言うことは支離滅裂だった。『みんな』の鼻を明かすため、『みんな』にふれまわるつもりなのか、『みんな』に私たち同衾しましたと。そも、『みんな』って誰だ。


「おい、ちょっと、落ち着け、」


 と。テッテレ、テッテレ、テッテーと某携帯電話の独特な着信音が閑散とした駐車場に響いた。優一郎からかと慌ててコートのポケットをまさぐろうとして、そこで初めてコートを着忘れてきたのだと気付く。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る