第6話 ◆◇

 ◆


 できた妻だと思っていた。

 私は次男であったが、妻は両親によく仕えてくれていた。仕事をしていた兄嫁代わって、母を看取ったのは妻と言って良いだろう。

 そうして義家族に尽くし、一人息子を国公立大学に入学させた後、妻はささやかな願いを口にした。隣県にある実家に戻って実母の面倒をみたい、と。

 妻にも私と同じく兄がいたが、年が離れた兄夫婦にはすでに孫があり、孫守に忙しい。一方、K県の旧家である妻の実家は広く、部屋も余っている。義兄夫婦にとっては願ってもみない申し出だったろう。加えて息子も春から大学進学でK県に移住していた。

 そうなると、問題は残される私の身の回りの世話のみだった。こちらのマンションで義母と同居しても良かったのだが、兄夫婦がそれは体裁悪いと嫌がるし、義母も居を移したがらなかった。やっぱり無理かしらと言う妻に、独身時代は一人暮らしをしていたんだ、気にせず親孝行してくるといい、と胸を叩いた。

 できた妻だった。できすぎていた妻だった。

 だから、嘘を吐かれたと気付いた時に湧き上がったのは、罵りでも恨みでもなく、やりやがったという快哉と納得に近い感情だったのだと思う。

 けれど、その脇に追いやった気持ちが、時を経て弱った身体と心を燻らすだなんて、当時は想像もしなかったのだ。


 ◇


 赤い軽自動車からいつもの医院──総合市民病院ではなく、町医者──の第二駐車場に降りると、頑健な体躯の中年男性が壁のごとく立ちはだかっておりました。

 もっともトクラベごときなので、痛くも痒くも怖くもありませんでしたが。ただ、鬱陶しく暑苦しく犯罪臭くありました。本日も金色帯びた良き日和でしたが、台無しにするような。

 もちろん、用があって、病を得ているというのに秋風にさらされて突っ立っているのでしょう。それを承知の上で、ふんと鼻息ふかして、なれど黙したまま横を通り過ぎようとすれば、まて、まて、まてまてい! と無遠慮に二の腕を掴まれました。


「なんですか。鬱陶しいし、暑苦しいし、犯罪臭いですよ、存在」 


 一瞬、氏はうっと怯みましたが、


「だからといって、これはなかろう、むしろこっちが犯罪だ!」


 と、多少、力をゆるめつつも、こちらを引っ張っていきます。そして、氏の空色の車の横に連れてこられた時には、昨日の出来事をすっかり思い出しておりました。


「謝ってください」


 ぴかぴかの車体の凹みを前に、ああ? と実にヤカラっぽい声をあげる戸比氏に、わたくしは身の潔白を主張しました。


「だから、私ではありません。ユーイチローです」


 はああああ? と、氏の人相はヤカラからレベルアップしてヤクザみを増してゆきます。ですが、私は事実を申し上げているだけのこと。


「ですから、おたくのムスコ氏がボコしたのです。目元そっくり」


 氏の頭上にクエスチョンマークが乱舞しているのが感じられました。


「はあああ? ああ? あ、え、なんで」


 しらんがな。

 エセ方言が飛び出しそうになりましたが、考え直して口を閉じました。さっさと受診を終えて帰宅して家事をすべく、戸比氏の腕を振りほどき小走りで駐車場の出口へ向かいます。氏より早く受付に辿り着き、診察券を出そうという小さきたくらみでした。

 戸比氏は、あっ、と我に返り、こちらの意図を察したのかばたばたと追ってきます。しゃらくさい。

 必死に足を動かしますが、身長が高い氏の方が脚も長く、分があります。

 わたくしは氏の腕に飛び付いてぶら下がり、自ら錨となり、動きを止めようと試みました。そしてその反動をもってして前へ出ようとしたその時。

 勢いよく第二駐車場へ乗り込んできた漆黒のSUVが、わたくしたちの眼前で急ブレーキを踏みました。間一髪。あやうく、病人から怪我人二人へとジョブチェンジあるいはダブルワークするところでございました。

 その乱暴な運転に、本来、こちらが抗議を申し立てるべきだったのでしょう、しかし。


「親父!」


 車から降りてきた人影に、怒鳴る前に怒鳴られました。


「・・・・・ユウイチロウ?」


 戸比氏はまさに鳩が豆鉄砲を喰らったような面相となられました。もちろん半分はマスクで隠れていたのですが。

 

「いい年して往来でいちゃついてみっともない。恥を知れ、恥を!」


 立ちはだかったユーイチロー氏は、やはり戸比氏そっくりで、ワンサイズ下。だのにブルゾンの襟を立てた姿には妙に迫力というか凄みがありました。格が違うといいますか。戸比氏はヤクザの三下風情、ユーイチロー氏は幹部並の風格が滲み出ておりました。はて、普通、親子関係では逆じゃないかしらんと思わなくもなかったのですが、客観的な個人の感想なのだからしようがありません。

 ユーイチロー氏は、戸比氏の腕にぶら下がったままのわたくし──見ようによっては腕を組んでいるように見えなくもない──を一瞥して、ハッと嘲るような息を放ちました。


「やっぱりあんたにも女がいたんだな。どおりでろくに見舞いにも来ようとしないはずだ。それにしたってこんなカッパ頭!」


「この方はふともも視姦の準痴漢行為者で、あえていうなら点滴隣人です、カッパではありませんボブカットです!」


「いや、ちょっ、なんでここに、オヤジ呼び初めてだろ、いや、うん、だから、浮気していたのは俺じゃなく母さんだ!」


 ヒッ、ヒッ、ヒッ、と啼くジョウビタキの声をBGMに、澄み切った空に向かって、三者三様言いたいことを盛大に撃ち放ち。


 ・・・・・・え、と。三人が顔を見合わせのは、なんとも気まずいことでありました。


 一体、次の挙動をどうすれば良いのか。

 燦々たる秋の陽射しの下、途方に暮れかけた大人たちを救ってくれたのはやはり時間でした。病院の午前診療受付は午前11時30分まで。

 ほぼ真上に来た太陽に、わたくしは同じく立ち竦んでいた戸比氏に、ウケツケ! と馬の尻を叩かんがごとく叫び、走り出したのでございます。


 ◆

 

 妻が母親の世話をするために実家へ帰り、半年。

 彼女は体調を崩して実家近くの病院を受診した。すると総合病院を紹介され、再検査に再検査を重ねた。そして一か月後、私も呼ばれ、夫婦揃って新しく主治医となった医師の話を聞かされる。

 予想よりもずっと、深刻な病状だった。

 仕事を抱えながらK県に通い続けるのは難しい。離れて暮らしている場合ではない、病いには夫婦で立ち向かうもの、自宅に戻ろうと言ったが、妻は息子の大学も近く、実家の方が都合が良いと言ってきかなかった。

 義兄夫婦にも迷惑がかかると主張したが、しかし、義兄らは、別にかまわんよ、こっちいてくれた方がばあちゃんも安心するからと返してくる。

 この時に気付くべきだったのだろう。

 義兄夫婦は孫に夢中で、身内といえど病人に割く時間は惜しかったはず。

 他にいたのだ。妻に寄り添う誰かが。

 主治医の話を聞いた時、狼狽える私を尻目に、妻は至極落ち着き払い、冴え冴えと美しく見えた。


「つまり、ご妻女は最期の時を夫以外の誰か──〝想い人〟──と過ごしたく、お母様の世話にかこつけてご実家にお帰りになられたという見解でオケ?」


 薄い布張りのパーテーションを挟み、並んで点滴を受ける瀬名が身内話を、雑に、だが的確にまとめてくる。


「ユーイチロー氏はその〝想い人〟をご存じで、その存在を──つまりは母親の浮気を──隠そうと、あなたをご妻女から遠ざけようとしていた。ご妻女の死後も。

 けれど、このたび父親にも若い愛人がいたと勘違いし、長年、家族の調整弁をつとめていたストレスから、かよう、おぶちまけになられた」 


 瀬名のまとめを聞きながら、ぽつ、ぽつ、と落ちる点滴を眺める。

 ぽつ、ぽつ。ぽつ、ぽつ。いつまでも続くようでも、そのうちに空になる。理屈ではわかっているのに、目の当たりにしないと実感できない。

  

「・・・・・・優一郎が知っているとは、知らなかった」


 考えてみれば、当然だった。週に一度、いや月に二三度通うのが精一杯だった私よりも、ずっと妻の近くにいたのだから。思い至らなかったは己の怠慢だ。

 妻には想い人がいた。同郷の幼なじみである〝初恋の君〟。

 実のところ、私は彼と面識がある。妻の生前、彼──秋月氏は挨拶をしにきたのだ。ひとりで。


 ──貴方の妻の最期を、共に過ごすことを許してほしい。


 彼は私の自宅までやってきて、和菓子屋の紙袋を差し出しながら頭を下げてきた。ありえない、馬鹿げた話だ、いい年してなに考えているんだか。そう追い返すこともできたが、逆に納得してしまったのだ、そういうことかと。

 海外生活、彼自身の持病、家の事情、様々な事情が絡み合い、秋月氏は妻とは結婚できなかった。妻の実家──つまりは義父の反対もあったらしい。もしかしたら、義兄の黙認はその負い目もあったのかもしれない。

 正面から頭を下げてお願いされ、どうして無下にできよう。あと手土産のきんつばが文句なく美味だった。

 一応、身辺調査を依頼したが妻が騙されているような事実はあがらなかった。なによりたまに見舞えば妻は痩せたものの、若い頃のように顔色華やいでいたのだ。

 また、秋月氏は私が見舞えない平日の妻の様子をメールにしたためてくれたり、時には電話してくれたり、まめだった。そのまめさは、妻の死後も、折々の葉書となってあらわれる。

 認めないわけにはいなかった。

 私は秋月氏に条件を一つ出した。私と氏のやりとりを妻と息子に知らせないことだ。

 妻に余計な心労をかけず、穏やかな日々を過ごしてほしかったというのは嘘ではない。だが、それ以上に自身のプライドを保つのに必死であり、少しの波風も立てたくなかったのだ。

 だというのに、知られていた。

 私は呻くように言った。


「面と向かって〝親父おやじ〟と呼ばれたのは初めてだ」

「良かったですね」

「別に良かあない」

「良かったじゃないですか」


 私より先に受付の箱に診察券を投げ入れた瀬名はすでに点滴を終え、ストールを纏いながら言う。身支度が整うとパーテーション越しにこちらを見下ろし、


「守られていたのでしょう、ずっと」


 と、落としてきた。

 そして、また明日、と小さく、ついぞない別れの挨拶をしてくるり背を向けたのだった。

 一方の私は看護師に点滴の針を抜かれた後もぼうっとして、さっさと精算してきてくださいと叱られた。

 医院を出ると風が強く、箒で掃いたような筋雲が浮かぶ空の青さが目に染みた。

 第二駐車場には、瀬名の赤い軽自動車も、優一郎の黒いSUVもすでにない。すわ受付と医院に駆け込んだ後、息子は自分を追って来なかった。

 優一郎は傷付いただろうか。秘密を暴露し、あまつさえ、隠していた本人は知っていたのだから。


 優しい子だ。そもそもK県からこちらを訪れたのも、さきの定期連絡で私の具合が悪そうだから、仕事を休んで様子を見にきてくれたのだろう。もしかしたら、私が気付かなかっただけで、今までもそういうことがあったのかもしれない。

 『雄一郎』ではなく、『優一郎』と名付けた妻は正しかったのだと二十八年越しに思い知る。瀬名の言う通りだ。

 私はずっと守られていた。優しくされていた。他でもない息子に。

 私たち親子は話をする必要があった。電話──いや、文字通り、膝を交えて話すべきだった。

 もしかしたら優一郎は実家たる私のマンションに帰ったのかもしれない。

 車に乗り込もうとして、凹んだままのドアに手を掛けた時、直感が走った。その第六感に従い、助手席側のドアに回る。

 そこには真新しい凹みができていた。運転先側のそれとちょうど対になるような。

 私はもう一度空を仰ぎ見て、目尻を拭ったのだった。

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