赤ワイン

凰太郎

赤ワイン

 山の手の人間が下々の生活に疎いとは言っても、こんな路地裏に在るようなうらびれた酒場の卓上へ大金袋を無造作に出すなんていうのは、あまりに軽率過ぎる行為だ。そうでなくても、この安酒提供場には臑に傷をもつような輩が平然と出入りしているのだから。人目に留まらぬ奥隅の席へ陣取っているとはいえ、気が気ではない。

 私は目の前に差し出された報酬を、そそくさと隠すように懐へと仕舞い込んだ。

「それで、御話を聞かせて頂けますかな?」

 正面に相席する穏和な老紳士が、目を細めて口髭を吊り上げる。

 線の細い男であった。

 身に纏った黒いスーツは少々年季にくたびれた感もあるが、品格の中できちんと着こなされている。こんな荒くれ者共が集う底辺には、完全に場違いな正装ではあったが。

 疲れ気味なのか少々顔色が優れないようにも見え、痩せ細った顔には縁起の悪い心象ではあった。

 しかしながら終始柔和な物腰と言葉遣いが、そうした負念を私から払拭させる。

「勿論、御話しますとも。こうして報酬の方は前金で払って頂けましたし……。ただ、私自身も知人からの又聞きでして、体験談というワケじゃない。その辺、御了承して頂ければ……」

「ええ、ええ……良うございますとも。私は、この話を聞く為に、茫々足を棒にしてまで探し歩いてきたのですからな。それが、アナタ、こうして詳細を御存知の方が遂にいらした。長年の苦労も報われるというものです。なあに、又聞きだって構やしませんともさ。さ、是非、その話を聞かせて下され」

 まるで御伽話をせがむ子供のようだ。

 私は変わった趣味だと思いつつも、同時に老後の隠遁生活に潜む寂しさというものを垣間見たような気がした。

 俗世には身分と資産による雲泥的格差というものが確実に存在する。

 だとしても、こうしたやるせなさは、歳月が経てば万人に等しく訪れるのだろう。

 正直言って、こんな与汰話を聞く為にわざわざ労力と金を疲弊するなんていう酔狂は、如何なものかとも思う。

 だからと言って、この物悲しい老人が唯一の楽しみにしている道楽に常識人ぶってケチを付ける道理など、私にあるはずもない。

 何よりも、前払いで報酬を受け取った身だ。その使命を果たさねばならない。

 エールの喉越しで潤した私は、ようやくにして静かに語り出した。

「では、御話しましょう。

 これは、とある村で数年前に起こった話です。



 その村は本当に小さな村で、豊かな緑に囲われながらも客引きとなるような名物が何ひとつ無いような質素な生活水準でした。それでも村人達が細々とやっていけたのは、先に述べた豊かな自然の恩恵に肖った最低限度の暮らしぶりも勿論ありますが、ワイン用葡萄の輸出によって大きな収益を補っていたからです。

 ところが、取引業者の殆どが大量生産を視野に入れた徹底的コストダウン化へと踏み切った為に、そちらの方もいよいよ安穏と構えているわけにはいかなくなってきます──こうした近代的商法の要点は『質より量』ですからね。

 さて、だからと言って手を拱いていては、村の財政はジリ貧確定ですから、何かしらの策を講じなければなりません。

 早速、村人達による会合が開かれ「それならば自分達で地産葡萄を使用した名産ワインを作って客寄せにしようじゃないか」という方向性で結論付いたのです(この着眼の遅さには笑えてしまえますがね、私としては)。

 そうなるとですね、各葡萄農家は当然、息巻いて競い合う姿勢を見せ始めました。

 そりゃそうでしょう。上手くすれば、自家製ワインが村の歴史に名を残すのですから。

 とはいえ、葡萄栽培には一日の長があっても、ワイン製造に対するノウハウは月並み程度の知識しかありません。

 果たして商品と呼べるレベルに達するかどうか……試行錯誤の日々が続く事となります。

 そうした悪戦苦闘の成果を公正的に甲乙着けるべく、遂には村を挙げての品評会が開催される運びとなりました。

 これは村の歴史上でも最大級のイベントであり、ともすれば、この祭自体が村興しと機能するかのような勢いだったのは間違いありません。

 村の住人は子供から猫に至るまで総出で参加し、テイスティング審査員として名高い美食家や、果てはこの地の領主までもが特別審査員として招待されている具合でした。

 その中に、その男はいたのです。

 猛禽類の如き鋭さに彩られた精悍な細面。蓄えられた口髭は天へと反り上がり、近寄り難い気性を暗に誇示しているかのようです。

 凍てつく氷のような心象は、誰もがゾッと目を惹くような存在感でした。

 しかし、きっと高名な批評家なのであろうと思い、特に気に留めない事としたのです。

 さて、いよいよテイスティング評論が始まりますと──人の味覚とは面白いものでして──美食家が高評価を出したとしても領主がそうとは限りませんし、その逆も然り。

 それでも村人達の苦心と期待を考慮すると、領主も美食家も自分達の嗜好に合わぬからといって無下にする事は出来ませんでした。

 ですが、例の男だけは違います。

 どのワインも一口含んで顔をしかめると「到底こんな物は飲めん」といった具合に首を振り、その場でペッと吐き捨てる非礼を平然とやってのけるのです。

 これには村人達も内心穏やかではありません。

 ですが、相手が相手だけに不満をグッと呑み込んでいました。

 そんなこんなで一向に優勝が決まらぬ中、不意に例の男が憤慨を吠えたのです。

「もういい! 何だ、この茶番は? こんな色水が〈ワイン〉だと? 笑わせてくれる。斯様な物、いくら飲んだところで評になど値せんわい。貴様達の味覚は、真の美味というものを知らんのだ!」

 この暴言には、さすがの村人達も堪忍袋の緒が切れ、暴動寸前の喧噪が湧き起こりました。慌てた領主や美食家達が何とか鎮めて回ります。

 それを後目に、高慢な男は更に声高に宣言しました。

「宜しい。ならば一ヶ月後、私が〈極上のワイン〉を諸君に授けようではないか。舌貧しき諸君に、その味が解るとは到底思えぬが、本物の味を知っておくのも悪くはなかろう。とはいえ、真の美味には時間と手間が掛かるもの……よって、諸君の中から一人、我が屋敷にてワイン製造の手助けをする者を選ばせて頂こう。悪い話ではなかろうよ。その方が、後々この村がワインの名産地として名を馳せる礎ともなろうしな。無論、その間の雇用代も支払ってやる。前払いで……だ」

 一方的な捲くし立てに村人達は怒気も忘れて呆気となりましたが、その間にも男はズカズカと群衆の中に歩を進めます。そして、値踏みするかのように顔を見渡し始めました。

 果たして眼鏡に叶った者がいたようで、男は村娘の前へ歩み寄ります。

 娘は突然の申し出に困惑を隠せず、相手の高圧的態度にも怯えきっている様子でした。

 それでも自分が独占的にノウハウを教示されるというのは魅力的でした。何よりも高額な前金が貧しさに中には、どうにも拒み難かったのです。

 結局は「一ヶ月程度ならば大丈夫だろう」と着いて行く事に決めました。

 ところが、娘が連れて行かれた後が一大事でした。

 例の男の素姓を確認しようとしたところ、実は誰一人として、それを知る者がいなかったのです。

 村人達は〝お偉いさんの顔見知り〟だと考えていましたし、領主や美食家達も互いに〝相手の知人〟だと思っていたのですが、実際に蓋を開けてると全く見知らぬ正体不明の人物だったわけです。

 これを受けて村では娘の安否が心配され、同時に悪い噂も流れ始めました。「あの男は人身売買の類で、娘は巧妙に拐かされたのだ」と。

 両親は年頃の娘を手放すには端金でしかない報酬を前に泣き伏せる日々を過ごし、やりきれない怒りが村全体に震えました。

 しかし、そんな村人達の憤りを余所に、事態はまたも一変する事になるのです。

 約束の一ヶ月後、村に一つの小包が届きました。

 その中に入っていたのは、一本の〈赤ワイン〉です。

 差出人は不明でしたが、例の男からだという事は疑う余地もありません。

 何よりもワインのラベルには、少女の名前がそのまま銘柄として記されているではありませんか。

 人々は「これはなかなか粋な計らいだ」と感嘆すると同時に「さては自分達の早合点であったか」と、それまでの邪推を恥じました。

 そして、長らく持て余していた不安に、ようやく決着を見出す事が出来たのです。

 さて、では、あれほど広言していた美味とは如何なるものであろうか?

 胸を躍らせて口々に吟味してみると──どうだろうか──到底飲めたものではありません。不味さに片っ端から気分を害し、寝込む者まで現れる始末。

 あんなにも酷評をしておきながら、これが〈極上のワイン〉だとでも言うのだろうか?

 この悪趣味な嘲りに鬱積は再燃し、人々は敵意を露わにしました──「やはり、あの男は人浚いなのだ」と。

 ただし、男は今回ヘマをやらかした……と、村人達は思いました。

 名前こそ無記入であったものの、その住所はしっかりと荷札に書かれていたのです。

 早速、何人かの男衆が集められ、可哀想に救いを待っているであろう娘の下へと旅立つ運びとなりました。

 目的地は丸三日も山道を歩かねば着かないような場所でしたが、有志は若い男達だったので然したる障害にはなりません。

 彼等は予定通り順調に進み、ようやく目的の館へと到着しました。

 鬱蒼たる山奥にて閑寂と建つ洋館です。

 まるで長年住人が居ないかのように静まり返っている不気味な佇まいに、さすがに血気盛んな若者達も息を呑みました。

 勇気を奮い起こして邸内へと侵入すると、そこは更に辛気臭く、朽ちた家具や装飾には蜘蛛の巣が張り巡らされています。

 どうにも、あの男が居る気配すら感じられません。

 誰もが「さては住所までが偽装で念入りに誑かされたか」と勘繰った直後、一人の若者が「あっ!」と驚いて硬直しました。何事かと思い驚愕に凍る視線を追ってみた仲間達は、そこに飾られている一枚の絵を見た瞬間に震え上がったのです。

 幅広い正面階段を昇った踊り場に飾られた大きな額──その中には、来客を見据える〝主の肖像画〟が描かれていました。

 鋭い眼力に、逆立った口髭……見間違うはずもない。

 あの男です!

 その胸に抱き寄せられて喘ぎ苦しんでいるのは、他ならぬ少女でした。

 恐ろしい事ですが──その苦悶は生々しい吐息に乗って聞こえ、首から下は毒々しい赤でキャンバスを染めていました。

 男の肖像画は口元に邪笑を浮かべ、牙から滴る処女の血に悦を愉しんでいたのです。



 私の知る話は、こんなところです」

 一頻り語り終えると、私は熱に乾いた喉を潤す為にジョッキのエールをグイッと飲み干した。

 紡いでおいて何だが、決して気味のいい話ではない。

 老紳士は云々と何度も頷いて余韻を味わうと、満足げに席を立った。

「良うございますよ。ええ、満足のいく話でございましたとも。これで長年、足を棒にして探し回った甲斐もあったというものです」

 挨拶も漫ろに立ち去る老紳士の背中を、私は一生忘れる事がないだろう。

 肩越しに覗けた彼の横顔は、柔和な笑みから一転した狂気の邪笑であったからだ。

 そして、地の底から掠れ漏れるような嗄れ声で、こう呟いていた。

「嗚呼、やはり御主人様は生きておられたのだ。早く御側へ行って、御仕えせねば……」



 あんな作り話をした事を、私は後悔している。

 キャンバスという物は想像以上に冷たく硬い。

 安酒目当ての端金では到底釣り会わぬ拷問である。

 この牢獄は、私を永劫に捕らえ続けるのであろう。

 虚偽の代償たる苦しみなのだ……。




[終]

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