第5話 ルカルディオ陛下の訪問
剣術の修練と食事を終えて、ルカルディオ陛下の執務室に戻ってからは夕方まで事務作業を続けた。
その間に陛下は侍従の青年、ジルにあれこれと指示を出して、陛下の寝室の近くに私の一人部屋を用意させた。というか、ジルが用意してくれた。
近衛騎士の宿舎だと、基本二人部屋らしいので、一人部屋はすっごくありがたい。
いくら弟のサーシャに見える幻覚の魔法がかかっているとは言っても、初対面の男の人と二人部屋はつらい。サーシャは家にいるときは、結構上半身裸でうろついていた。男とはそういうものらしい。でもサーシャくらいならともかく、ほかの男の人の裸はあまり見たくないし、私だって絶対にそんなの出来ない。
与えられた部屋にひとりきりになり、私は深いため息をつく。今日は緊張の連続で疲れた。
さっさとお風呂に入って眠ろうと、部屋に備え付けの浴槽に魔法でお湯を溜め始める。このくらいの生活用の魔法なら私でも使える。
でも水や火、それから明かりをつける程度の生活魔法と、人の心身を苦しめる呪い――黒魔術は全然違う。日中、ルカルディオ陛下に解呪してもらった近衛騎士の制服を脱ぐと、ため息が出た。
どうしてこんな、ひどいことをするんだろう。呪いに生気を吸われるというのはすごく苦しかった。陛下が早く気付いてくれなければ、動けなくなるくらい弱ってしまったかもしれない。
「サーシャは今頃どうしてるのかしら?」
今もフォレスティ家で寝込んでいるサーシャがすごく心配になった。あれよりも苦しいのがしれない。一刻も早く、どこかにあるという呪いの魔法陣を壊さなきゃいけない。
でも、初日から手がかりが見つかるとは思っていなかったけど、私が得た情報は、皇宮騎士が怪しいとかそのくらいだ。皇宮騎士は約900人、その中でサーシャと関わりがある人物に搾っても、そう簡単に罪を告白するとは思えない。
「サーシャが死んじゃったらどうしよう……」
鼻の奥がつんとして、視界が歪んだ。考えないようにしていた不安に押し潰されそうで、涙が流れてしまう。感情に溺れて泣いたってどうしようもないのに。サーシャを守る役には立たないのに。
不意に扉をノックする音がして、身を竦める。
「夜にすまない。私だ」
「陛下?」
慌てて涙を拭き、近衛騎士の制服を羽織り直す。ルカルディオ陛下が、私の部屋を訪問されるなんて聞いてない。深呼吸して扉を開けた。
「サーシャ? 泣いていたのか?」
「いえ、目にゴミが入っただけです」
「……少し中で話をしても?」
「はい。何もありませんが、どうぞ」
与えられた部屋には、ソファがひとつあるので陛下にかけてもらう。私は見下ろすのもどうかと膝をつこうとした。
「サーシャ、隣に座ってくれ」
「まさかそんな」
「今は私的な時間だし、ここはお前の部屋だ」
私的な時間と言っても、ルカルディオ陛下はルカルディオ陛下だ。陛下が隣に座れと言うのなら従うしかない。私はなるべく静かに腰かけた。
あまり大きくないソファで隣に座ってみると、ルカルディオ陛下の体から発する僅かな熱が感じられた。朝からわかってはいたけど、もう全然私の記憶の中の少年ではない。その厚い胸にすがってみたくなるような、頼れる雰囲気があった。どうやら今の私は、気弱になってしまっている。
「その……近衛騎士の制服以外に、サーシャの私物に呪いをかけられていないだろうかと思ってな、見に来たんだが、ないようだな」
陛下の『聖顕』の瞳は、悪しき魔法を見破るという。陛下は自分の両腿に拳を置き、ぐるっと部屋を見回した。あまり多くない私物はまだトランクに入ったままで、元々の家具と調度品しかない。とはいえこんな簡単に調べられるなんて、やはりすごい能力だと思う。
「お休みの時間だというのに、ありがとうございます。陛下はどうしてそんなに、私に優しくして下さるのですか? 近衛騎士ひとりひとりにここまでされるのですか?」
固く私の方を向かない、陛下の横顔に質問をする。横顔も叙事詩の挿し絵みたいに綺麗で、目が合わないのをいいことについ見入ってしまう。
「ち、違う。この私の身の回りに、呪いなど絶対に許せないからだ。それより」
「はい」
勢い良くこちらを向かれて、私は身を後ろに引く。気付けば陛下に身を乗り出していて、近くなりすぎていた。
「どうして泣いていたんだ?」
「泣いてないです」
「泣いていただろう、その服につけられていた呪いのせいか?」
「……そうです」
正確にはサーシャの呪いについて、途方に暮れて泣いてしまったのだけど陛下にそこまでは言えない。
でも陛下がここまで優しい人だと知っていたら、最初から正直に、全て話して協力してもらえば良かったと今更思う。
私はすっかり取り返しがつかない状態に陥っている。魔女に騙されたのかもしれない。
「また涙ぐんでいるではないか。体ばかり大きくなって、サーシャはまだ子供の頃の泣き虫のままか」
「……っ」
目尻の涙を拭われて私は顔を上げる。陛下の指先は温かくて、慈愛のようなものが感じられた。
「困ったな。あの勇敢な半ズボンの少年だと思って、近衛騎士希望者名簿にあったサーシャを推したのに」
「ご、ごめんなさい。私を解任されますか?」
陛下の中のサーシャ像がただの泣き虫になっていて、私は焦りの余り自分でも困るようなことを口走った。陛下が眉根を一瞬寄せる。
「サーシャが希望するのなら、皇宮騎士に戻っても良い。私の周りにいてはまた被害を被るかもしれないからな」
「嫌です!私は、陛下のお傍を離れたくありませ……あ、いえ、陛下をお守りしたくてずっと努力してきましたから」
また訳わかんないことを言って、私は顔が熱くなる。でも、サーシャの呪いを早く解かなきゃと思っているのに、陛下の傍にいられることに魅力を感じている自分を認めた。
「どうしたものか……」
「私の処遇についてですか?」
陛下が本当に、困ったように笑った。
「いや、サーシャといると、心が少年の頃に戻ってしまうようだ。お前の言葉ひとつ、態度ひとつで動揺するし、胸が高鳴る」
「私も陛下にはずっと憧れてましたから、胸がドキドキします」
「……」
「……」
お互いに、何を言ってるんだろという沈黙が場を支配した。もう夜だし、疲れているのかもしれない。私たちは子供の頃一度会っただけで、今は皇帝陛下と近衛騎士の立場だ。陛下が小さく咳払いをする。
「明日は少し時間があるから、サーシャの近衛騎士の制服に細工をした人物を当たろう」
「もう見つけられたのですか?」
「ああ、ジルに調べさせた」
「ジルに……」
私は目の大きな、侍従の青年の顔を思い浮かべた。陛下が信用してる人なんだから、信じていいはずだ。
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