第8節(その5)
「となると、僕は君を笑顔で送り出してもいいのかな」
マティソン少尉の言葉に、ユディスはもう一度肩をすくめながら笑みをこぼした。それは今までマティソンが知っているユディスとは、また違うユディスであるように思えたのだった。
彼女の下宿の部屋に憲兵隊がやってきたのは翌朝のことだった。
何者かが窓を破って侵入したという、大家である老婦人アンナマリーからの通報によるものだった。
窓ガラスが割れ、部屋中に物が散乱する様子は、誰かが物取りと組み合った痕跡なのだと言われば取り敢えずは誰しもが納得したに違いない。そんな部屋に、唯一人残されていたのがマティソン少尉であった。
上官から指示を受けてこの部屋に住むユディス・アンバーソンを訪問したのであるから彼がそこにいたのは良いとして、肝心のユディスはどこへ行ってしまったのか。上官は当然ながら部下であるマティソンに状況を説明せよと迫ったが、マティソンはとにかくしどろもどろで何を言っているのか分からない。何か隠しているのでは、と彼自身が尋問のため収監される運びとなったが、その日のうちに軍務省からやってきた係官の指示で、マティソンは即日釈放されることとなった。
一体どういうことかと少尉は不思議に思ったが、彼がそれ以上ユディスの事を誰かに訊かれたことは一度もなく、また釈放に至った理由も誰も説明はしてくれなかった。あくる日にいつも通り職場に出勤したが、上司などはむしろその話題を積極的に避けるような感じすらあった。まるで何事もなかったかのように、彼は書類仕事に追われる日常へと戻っていったのだった。
そのうちに噂話として伝わってきたところによれば、王宮の宝物庫に保管されていた竜の爪がいつの間にか忽然と消えてしまったのだという。何者かが無理に押し入った形跡もなく他の財物はすべてそのままで、ただ爪だけが消え失せてしまっていたとの事だった。担当の警備官が責任を問われ職を追われた他、関係各所は天地をひっくり返した騒ぎとなり、それで端々の噂話が漏れ聞こえてきた次第だが、この件に関して王宮から正式な表明がなされる事はなかった。
そんな噂を聞いてからさらに数日がたったのち、かつてアドニスたちが赴いた開拓地の荒野にて、竜をみた、という報告が寄せられた。爪の紛失の件もあったため、念のため王国軍による探索隊が差し向けられ、例の廃墟もくまなく捜索されたが、結局は何も発見されることはなかった。それ以降は竜をみたという者も現れず、最終的には何かの見間違いだったのだろうと結論付けるより他になかった。
ユディス・アンバーソンの行方に関しては、軍務省の介入もあり王都では大っぴらに捜索はされず、それは郊外のアーヴァリーでも同じだった。アーヴァリーの役場の方に後日確認すると、アドニス・アンバーソンの埋葬の届けとアンバーソン家の相続に関する手続きは、相続人により正しく行われた旨、後日記録によって確認がとれた。法的には、ユディスがアンバーソン家を正式に相続した上で、王国のどこかに居住している事にはなっているが、その詳細な行方を知る者は誰もいなかった。
あの晩のあの騒動を知るマティソン少尉としては、砂漠で目撃されたのはおそらく本当に黒き竜だったのだろう、とは思う。そんな彼の身に起きたささやかな事件というか、異変としては……彼がある日独り暮らしの官舎に戻ると、差出人の名前のない一抱えほどの小包が届けられていたのだった。黙って送りつけてくるにはそれなりに迷惑な大きさであり重さではあったが、中身を見れば誰がそれを送ってよこしたのかは、何となく察しはついた。
箱の中から出てきたのは――そう、竜の爪だったのだ。
驚きはしたが、それをどうするわけにも行かず、彼はそれを箱ごと自室のクローゼットの奥深くにどうにかして押し込んだのだった。しかるべき筋に届け出るべきなのは分かってはいたのだが……そうしてしまえばまたユディスを取り逃がした時以上にややこしい尋問攻めにあうのは目に見えていたので、時が来るまでは大事に取っておく事にしたのだった。
時が来るまで。……一体、どのような?
いつかだれか、この爪を取りに来ることはあるのだろうか?
「一体、この僕にどうしろと……」
マティソン少尉は一人苦笑いを浮かべると、そっとクローゼットの扉を閉じるのだった。
(「竜の爪あと」おわり)
竜の爪あと 芦田直人 @asdn4231
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます