第8節(その4)
悪鬼の姿はもうどこにもなかった。一連の成り行きの中で、ベオナードは自身が言った通り結局傍観を決め込んでいたばかりで、何の手出しをすることなく終わってしまった。彼はただ、静かに泣き崩れるユディスの背中を黙って見守るだけだった。
マティソン少尉はと言えば、悪鬼に突き飛ばされた瞬間こそ生きた心地がしなかったが、最終的には目立った怪我もなく無事だった。一時はどうなる事かと思ったが、あの化け物相手に毅然と立ち向かったユディスが今は泣いているのを見て、ただただ呆然とする。
「あの、ユディス……?」
声をかけようとしたマティソンだが、ベオナードがゆっくりと首を横に振って、それを遮った。
「そっとしておけ」
「でも」
「察してやれ。書類の上では叔母と姪、本来は血のつながりもないが、唯一無二の育ての親には違いないのだからな」
ベオナードはそういうが、そのうち嗚咽を漏らし始める彼女にやはり何か声をかけるべきではとマティソンが恐る恐るユディスの背に歩み寄る。そっと肩にかけようとした手を乱暴に振り払われると、それ以上何も手出しできなかった。
いつの間にか風は収まっていた。割れた窓ガラスの破片が散乱する部屋を、マディソンはまじまじと眺め回した。
その時、マティソンは暗がりに何者か人影ががあるのに気づいた。
今度は悪鬼や幽鬼のたぐいではない。確実に人間だとみて分かった。
「あなたは……もしかして、魔導士アドニス? アドニス・アンバーソン?」
彼女が身にまとっているのが魔導士の塔の魔導士の制服であるのは見て取れた。年の頃はマティソンよりもいくばくか上に見て取れた。どことなく面影がユディスに似ている気がしてとっさにそう呼び掛けてしまったのだが、考えてみれば両者にはそもそも血縁関係は無いはずで、どうしてそのように思ってしまったのかマティソンは一人首を傾げた。
ともあれ、魔導士の装束を身にまとったその女性は、マティソンの問いに何も答えずただ微笑んだだけだった。追い払われた彼に代わって、泣いてうずくまるユディスの背にそっと手を置く。
ユディスがはっとして顔を上げる。女性は何も告げず、そのまま部屋の戸口へと離れていく。付き従うのは正騎士ベオナードで、傍らにもう一人いるように見えたその背中……近衛騎士の軍装を着ているように見えたそれは、ここまで話ばかりに聞いていたもう一人の竜退治の英傑であっただろうか。
去り行く正騎士に、マティソン少尉が呼びかける。
「待ってください、ベオナード卿! ……いずれ時が来れば、あなたの身にもこういった事が起きるのですか?」
「少尉、言い忘れてたが、俺の番はとっくに終わっているんだ」
「え?」
ベオナードの隣でアドニスが苦笑いを浮かべる。そう……考えてみればあの悪鬼が悪鬼として滅した今、ここに立っているアドニスは一体何者だというのか。彼女や近衛騎士が在りし日の姿でここに立っていられるのであれば、そこに肩を並べるベオナードもまた同じではないと、誰が断言出来たか。
「僕が、生きていたんですね、と質問した時……」
「生きていたんですよ、とは誰も一言も言っていないだろう?」
「それじゃ、あなたは……あなたたちは、一体――」
僕の目の前に立っているあなたがたは一体何者だっていうんですか――マティソン少尉の口からさも当然の疑問が投げかけられるよりも前に、いつの間にかベオナードの姿はそこにはなく、すでに戸口の向こう側に去り行く背中がちらりと見えただけだった。えっ、と思った次の瞬間には、まるでそれまで誰もその部屋にはいなかったかのように、しんとした静寂だけが取り残されていた。
あとに残されたのは、いかにも間の抜けた表情で唖然としたまま立ち尽くすマティソンと、ひとしきり泣いてようやく落ち着きを取り戻したユディスの二人だけだった。
「少尉、あなたは今日見た事を誰かに話す?」
「……誰に、なんて話せばいいと思う? こんな話、誰も信じてくれそうにないと思うけど」
「では、上官とやらには足止めには失敗したと報告して。ユディス・アンバーソンは王都を出て行ってしまった、と」
「えっ」
「これから荷造りをして、夜明けまでには出ていくから」
そういいつつ、ユディスは床に放り投げられた緋色の剣を拾い上げる。同じく彼女自身が無造作に投げ捨てた鞘も拾い、そっと切っ先を収める。
「結局、この剣は無くても何とかなったわね」
「君自身が、この剣と同じ存在だった、ということ?」
「この剣は竜の流した血だまりから引き抜かれた。そして私も、竜の血だまりの中で見つけられた。私自身が竜なのか。それとも竜を滅する剣なのか、いずれにせよ私は、私が何者なのかを知る必要がある。……忌まわしき名に連なるものなのかどうかを。母がありったけの文献を調べ、幾度もあの廃墟をおとずれても、それでも得られなかった答えを」
「黒き竜……」
マティソンがその名を口にしたその一瞬、ユディスの目が赤く光った気がした。
彼女のアンバーソン家の跡取りとしての真贋など、そんな事はもはやどうでもいい話だったのかも知れない。彼女がその晩、真に受け継ごうとしていたのは、一介の子爵家などにとどまらない、あの忌まわしき竜の名なのではなかったか。
「ユディス・アンバーソン……黒竜バルバザード」
マティソンが、呆然とつぶやく。
「君の本当の名前は……ユディス・バルバザード……?」
「ちょ、ちょっと。やめてよ。そんな大げさな」
「大げさかな。少なくとも、そう名乗るだけの資格は君にはあるんじゃないのかな」
「資格、ねえ……」
「そもそも、元々はユディスじゃない名前があるんだよね?」
「名前は、なかったの」
「……?」
「竜が授けたかも知れない命に、自分が名前をつけてよいのかどうか、母には迷いがあった。村の長老に相談したら、どのような名前を付けたところで黒竜に連なるのであればそれは忌み名になる、と言われて、私にはずっと名前が無かったの。ユディスの名であればそもそもは他人からの借り物であるから、それがすなわち忌むべき名にはならないだろう、って……でも結果的に、それが母が私にくれた唯一の名前だった」
ユディスは苦笑いすると、こう答えた。
「ともあれ、あなたのいう竜の名を、名乗るにふさわしいかどうか、それは今度会う時までに確かめておくわ」
「……じゃあ、また会える?」
「さて、それはどうだか。それに次に会う時に、私がこの王国の敵ではない保証は、どこにもないわけだし」
「となると、僕は君を笑顔で送り出してもいいのかな」
マティソン少尉の言葉に、ユディスはもう一度肩をすくめながら笑みをこぼした。それは今までマティソンが知っているユディスとは、また違うユディスであるように思えたのだった。
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