第118話 おまけ(2)訳の分からない嚥下障害

 夏のある日、私の外来に「最近、食事や飲み物が飲み込めない」との主訴で60代の女性が受診された。


 お話を伺うが、言葉も明瞭で、嗄れたような声もされていない。この1ヶ月ほど前から、食事や水分を飲み込めなくなってきた、とのことであった。むせることはあまりなく、喉に違和感も感じない、とのことだった。お酒も飲まず、タバコも吸わないとのこと。嗄声がなく、言葉も明瞭、ということは、咽頭、喉頭の動きに深刻なトラブルは起きていないことを意味している。


 年齢や生活習慣を聞く限りでは咽頭、喉頭などの悪性腫瘍や、食道がんなどは考えにくいが、まず上部消化管内視鏡と、「反回神経麻痺」の存在を考え、胸部レントゲン、耳鼻咽喉科への対診を行ない、その日は診察終了とした。


 2週間後に再診されたが、上部消化管内視鏡では明らかな悪性の所見はない、との診断だった。胸部レントゲン写真でも、反回神経麻痺を誘発するような縦隔腫瘍は認めなかった。身体診察で甲状腺を触診したが、明らかな甲状腺腫を触れず。耳鼻咽喉科からの返信でも、ファイバースコープで明らかな異常を認めず、声帯の運動についても特記すべき異常を認めず、とのことであった。


 ご本人にお話を伺うが、やはり、うまく飲食物を飲み込めない、状態は少し悪くなっているとおっしゃられる。自覚症状は強いが、他覚的な所見には乏しい。


 私は「どうしたものか」と少し困ってしまった。しかし、患者さんは現に嚥下困難で困っておられ、2回も私の外来に来ているのである。


 Dr. Tiernyの”clinical pearl"だったか、私の白衣のポケットにいつも入れている「医学の格言集」からだったのか、出典は忘れたが、「嚥下障害は精神疾患の症状としては起こらない」という言葉が思い出された。その言葉に従えば、患者さんの「飲み込めない」という訴えは、精神的なものではなく、やはり器質的疾患を考えるべきものだ、と私は考えた。

 「どの診療科にお願いすれば、適切に問題が解決するだろう??」と、とても困った。想定される鑑別診断が浮かばない(浮かんでいた鑑別診断はすべて否定された)ので、どの診療科にお願いすればよいのか、途方に暮れた。

 「苦肉の策」とでもいうか、「神頼み」というか、「脳神経内科」以外に診療科が浮かんでこなかった。


 なので、「脳神経内科」に、これまでの経過、検査結果などを紹介状に記載し、対診をお願いした。


 その後、私の外来にその患者さんはお見えにならなくなった。


 それから半年ほどが経ち、その患者さんのことはすっかり忘れてしまっていた。


 ある日、医局秘書さんから私に、「ALSの患者さんの書類の依頼が来ています」と、書類を渡された。


 「えっ?僕、ALSの患者さんって診ていないですよ」と秘書さんにお話ししながら、渡された書類のID番号を電子カルテに入力した。表示された患者さんのカルテ記載を見て大変驚いた。

 というのは、その嚥下障害を訴えていた方だったからである。


 脳神経内科の先生が対診で診察してくださり、ALSの中でも咽頭、喉頭の症状から始まるタイプのものがあるようで、ALSについて精査を行なってくださり、やはり診断は「ALS」だったようである。診断確定後は大学病院に紹介となっており、当院での通院は終了していたが、私が診察したときには、鑑別診断に「ALS」は全く浮かんでいなかった。「何かきっかけがつかめれば」と思って脳神経内科に対診を依頼したのが、結果的には正しかったのである。さらに、今考えれば、「球麻痺」を考えるべきであったのである。自らの不勉強も恥ずかしく思う。


 ケガの功名、というか何というか、自分の力不足を痛感するとともに、偶然ではあったが適切な診療科に紹介し、診断をつけることができて本当にラッキーだったと思った次第である。あとは"Clinical Pearl"の「嚥下困難は精神的疾患では起こらない」という言葉に助けられたなぁ、としみじみ思いながら、書類を作成した。




 

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やっぱりがむしゃら。内科後期研修医。 川線・山線 @Toh-yan

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