夕闇に沈む丘の階段の坂で【掌編1話完結 5500字未満】

蒹垂 篤梓

夕闇に沈む丘の階段の坂で

 PCでの作業が一段落付いて、ほっと一息吐くと、同僚社員の軽薄な声が耳に入ってきた。別段聞きたいとも思わないが、耳を塞ぐでもない限り否応なく聞こえてしまう。よくぞ毎度下らない話ばかりできるものだと感心するのだが、当人は知的なユーモアだとでも思っているのだろうか。


 窓の外は曇天。いっそ降れよと思うほどの黒いうねり。空調が利いているとは言え、どよりと湿った感じがうっとおしい。区切りが付いたと言っても、作業自体はまだまだ続く。刻限まではまだ二時間からあり、やれやれ先の長いことよなどと思いながら即席の珈琲を淹れ直す。


    *

 丘沿いに結構な距離の階段があるらしい。黄昏時。薄暗い中に、その坂だけが夕陽の朱色に照らされる。住宅街の傍なのに、人の気配が少ないどころか、ほとんどない。声や物音すら聞こえないことを不思議に思いながらその階段を上がっていくと、一人の少女が降りてくる。それもぴょん、ぴょんと跳ねるように。


 ケンケン遊びか、懐かしいな。子供の頃によくやったもんだ。単純だけど難しい。それにこんな階段だと結構危険でもある。バランスを崩せばすぐに両足付けば良いのだけれど、鈍臭い子はそれができずに転んでしまう。だから小さい子は足を上げずに少し浮かす程度で……


 はたと気付く。

 今、上から降りてくるこの子。遠目に小さい子かと思ったら中学か高校生くらいか。そんな娘でもケンケン遊びするのかと訝しみながら、違和感はそこじゃない。

 この子の挙げた片足はどこにある?


 ……、ない。どこにも、ない。

 前に上げるでも、後ろに曲げるでもない。存在しない。正面から差す逆光。少女の姿は影になってよく見えない。そのせい……、いや、そんなわけがない。もう後数メートル、影の中からすぅと浮かび上がった少女の貌――


 ぼさぼさの髪に、血走った目、よく見れば上半身の動きもぎこちない、しかも何かをぶつぶつを呟いてる。

 シネ、クソ、コロス……

 ぺたんぺたんと片足で跳ねる足音が近付く。

 さっと血の気が引いた。背筋がぞっと冷え、手足が震え出す。駄目だ、これは駄目だ。叫ぶことも忘れて踵を返し……

「彼は一目散に逃げ出したんだってさ」と同僚君は話を締めくくった。


   *

 沈む夕陽の残照がぼんやり赤く、丘の樹々の黒々とした影が景観を呑みこんで、どこか陰鬱な雰囲気を醸す。丘に沿って曲がる長い坂の階段だけが、赤く紅く照らされていた。


 途中途中に何カ所か踊り場があって、三人ほど掛けられるベンチが据えられている。ファーストフード店で買ってきた珈琲をちびちびやりながら、スマホを弄る。

 暫くすると人通りの全くなかった坂に、一人分の足音が聞こえてきた。少しばかり特徴の有る足音。


「こんばんは」

 声を掛けると、露骨に厭な顔をされた。それはそうだろう。相手はうら若き乙女。こちらはじきに中年に差し掛かろうかという冴えないおっさん。警戒するなと言う方が無理な話だ。


「先週辺り、その義足を外してこの坂を降りなかったかい」

 足音の不自然さはそのため。といってもほんのわずかなものだったが。ほとんど変わらぬ足取り。彼女がショートパンツ姿でなければ気のせいだと思ったことだろう。


 思い当たったようで、

「ああ、あの時、急にびびりだして逃げてったおじさん」

 ショートヘアの快活そうな顔立ちに、にやにやと人の悪い笑顔を浮かべ、無遠慮な素振りでこちらを見てくる。


「違う、違う。先日、会社でね、同僚がそんな話をしていたんだ。僕じゃない」

「ふぅん」と疑わしげ。

 気持ちは分かる。僕とて、彼が知人の話として語ったことが、彼本人のことだろうと信じて疑っていないのだから。


「よかったら、どうだい」

 とファーストフード店の紙袋を差し出す。

「お詫びのつもり」

「そうじゃないよ」

 その証拠に飲み物は今飲んでいる珈琲しかない。袋の中は、ハンバーガーとポテトが一包みずつだ。

「何よ、気が利かないなぁ」

「想定外だからね。例の話の坂がここだとも知らなかったし。当人に出逢うなんて、思いもよらなかったよ」

「ふぅん」


 すっかり疑いが晴れるようなことはなさそうだが、それでも、

「片足がないだけでびびって逃げるような人でなしには、今のところ見えないかなぁ。これ見ても態度変わんなかったし」と義足を指す。いくらかは上方修正してくれたようだ。


「とはいえさ、わざわざ外して階段降りるなんてことするかい」

「まあね、普通はしないよ」

 早速、遠慮も何もなくハンバーガーをもごもご囓ってる。やると言ったのはこっちだからいいのだけど、それ、僕の夕飯だったんだけどな。

「あの日は、ちょっとあってさ」

 ちょっとが好ましいことでないことは、表情を見て察した。顔を顰めつつ、それでもハンバーガーとポテトは囓り続ける。


 何が……と聞こうとしたところで、下からゆっくり上がってくる人影に気付く。俯きっぱなしで覇気がなく、何かぶつぶつ言ってるのが聞こえる。アチラの方が、余程ヤバい。顔を伏せているようで、彼女の方をじっと見てる視線。そこに影が重なる。

 少女は未だ気付いていない。気になって、

「アレに関わることかい」

 と言った矢先、ソレが跳ねる。それまでの愚鈍な感じからは思いもよらぬ勢いで少女に向かって駆け上がる。


「危ない」

 物理の荒事は苦手なんだかなぁと思いつつ、腰を浮かせると、立ち上がるよりも遙かに速く、

「うらぁ」

 それはもう気合いの入った掛け声と共に、少女の義足が弧を描き、見事にたいの乗った回し蹴りが一閃。男を捕らえ、弾き飛ばした。ごろごろと転がり落ちる男。ふんすと鼻息荒い少女。中腰のまま、立ったものか座ったものか迷う僕。いやはや。


「何か言った」と問い掛ける少女に、

「いや、何でも」と自然を装って立ち上がりながら返す。

「しかし、見事なものだな」

 芸術的と言って惜しくない、美しい蹴りだった。威力も抜群で、彼女より確実に重い男が軽々吹っ飛んだ。


「大丈夫なの」と蹴った義足を指すと、

「これ、案外と軽くて丈夫なんだ。ちょっと蹴ったくらいじゃ何ともないよ」

 ちょっとで済んでるかどうか判断し難いところだが。

「ウチんち、そこそこお金持ちらしいから。特注なんだよ」

 悪びれもせず言われると、返す言葉もない。


 それはともあれ、男の方だ。一つ下の踊り場に倒れてぴくりともしない。派手に落ちたからな。まあ、アレならば、そう簡単に死にはすまい。


 当の少女は、俊敏な動きで倒れる男の所まで駆け下り、

「やっぱりこいつだ」

 さすがに殴りかかりはしなかったが、きっちり肩を押さえてマウントを取る。いつでも殴りかかれるように。本当に好戦的な娘だ。彼女曰く――、


 例の日――つまり同僚君が逃げ帰った日――、彼女は別に義足を外して家を出たわけではなかった。今日と似た格好で出掛け、この階段のこの踊り場まで来たそうだ。


 そこで、この男に会った。始めは気付かなかったが、どうにも視線を感じる。おどおどした態度でベンチの横に潜むようにいながら、じろじろと視線を向けて来る。目を向けると伏せるくせに、逸らすとまた見てくる。気味が悪い。怒鳴りつけてやろうかと一瞬思ったけども、こういうのに限って、一度恨まれると何をされるか分からない――そんなことをクラスの噂話で聞いていたから、腹は立つものの素通りしようと背を向けた途端――、


「義足を盗られただって?」

 そんなことがありえるのだろうか。

「普通はありえないよ」

 彼女は言う。それはそうだろう。そう簡単に外れたのでは、日常生活にも支障が出る。にも拘わらず、その時はほとんど気付かないくらいに簡単に外され、追いかける間もなく逃げられたのだそうだ。


「まぢ、悔しかった」

 と獰猛な顔付きで少女が唸る。

「バランスを崩して転んだから、全身砂まみれだし、髪はぼさぼさになるし、あちこち痛いし、まぢで最悪だった」

 なるほど、そのついでに怒りで眼を血走らせ、コロスとか呟いていたわけね。その場にいなくてよかったよ。


「じゃあ、それは」と今着けている義足を指すと、

「スペアだよ」

 高価な特注品のスペアね。どれくらいするんだろう。軽自動車くらいは買えるのだろうか。

「警察には言わなかったのかい」

「信じて貰えないよ。アタシだって、自分事じゃなかったら信じられない。出鱈目なことをいうなってキレてるかも。それにさ、変な誤解されても困るし。親にも言ってないし」


 なるほど。

「だから、自分で囮になったわけだ。やるねぇ。無謀というか、怖いもの知らずというか」

「アタシ、結構強いしね」

 確かに。それで済まない事もあるだろうけど、今はまあ、いい。


「今度は警察呼ぶだろ。暴行未遂の証言くらいするよ」

「そうだね。流石に鉄拳制裁はまずいよね」

「少年院入りがご希望なら、止めはしないけどね」

「けっこう、薄情なんだ」

「やらないでしょ、君は」

 ふぅんとか言いながら、人の顔をじろじろ見てくる。


「見惚れるほどの顔じゃないと思うけど」

「まあね」あっさり返される。

「でもまあ、見ていたくないほどじゃないし、アタシはけっこう好きな方かな。あ、別に変な意味じゃないからね」

 まあ、醜男認定されないなら、それで十分だ。

 彼女がポケットからスマホを取り出す。その瞬間――、


 がばっと男が上体を起こす。かなり急で、かなり強い力だったのだろう。彼女が咄嗟に飛び退いて、臨戦態勢を取る。

「なにこいつ」

 彼女が焦るのも頷ける。予備動作なく、足や腰に力を込めることなく、上体だけをあれだけの勢いで起き上がらせるなんて。


 ぱちぱちと白い光が頭上で閃く。蛍光灯が下から順に灯っていく。暮れなずんでいた夕焼けはいつの間にかすっかり夜の闇に呑まれようとしていた。

「こいつ、ヤバくない?」

 表情の抜け落ちていた顔が、ニタリと嗤う。


 それから全身を痙攣させ、ケタケタと声を挙げて哄笑する。次の瞬間には、口から大量の血を吐いて、そして、

「何か、出てくる」

 血のようでいて血ではない。赤黒く、どろどろと、ねばねばと、汚泥のようなモノが吐き出され、ぼたぼたと口から落ち、地面に叩き付けられ、それが集まり固まって、カタチになる。


「ね、ねえ。これって夢? アタシ夢を見てるの?」

 と今までの強気はどこへやら、涙目の少女が駆け寄ってくる。

「け、警察呼ぼう」

 一瞬忘れかけていたスマホを耳に当て話そうとした、その刹那、ソレが人のカタチを取って飛び掛かってくる。

「嘘、ヤだ」


 身を縮こまらせる少女。

 襲い掛かる汚泥のバケモノ。

 ひぅッと喉の奥に詰まった悲鳴にもならない音を漏らして、少女が身を固くする。その刹那、その瞬間はいかほどの時間だったか。少女にとっては随分長く感じられたことだろうが、実際には数秒にも満たない。

 そして、恐る恐る少女が目を上げる。


「さしもの勇敢な女拳士も、お化けは怖い?」と問えば、少女がぽかんとして僕を見る。唖然とした表情で、僕とソレを交互に見る。

「え、何? ボールペン?」

 僕の手にあるのは、どこにでもある、いかにも百均で五本一包で売っていそうな安物のボールペン。会社にあった物で誰の物かは知らない。いつの間にか持っていたし、いつの間にか背広のポケットに入っていた。窃盗ではない、不慮の事故だ。

 そのボールペンの先を、ソレの鼻先に突き付け、ソレはぴたりと動きを止めている。


「言っただろ。君を目当てにここに来たわけじゃないって。僕の本命はコイツだよ」

 ようやくこれで、みっともなく逃げたのが僕でないと理解して貰えただろうか。

「何なの、こいつ」

 腑に落ちないと顔に書きながら少女が尋ねる。何と言われても困るが……


「見覚えとかある?」

「分かんないよ、真っ黒だもの」

「なるほど、それもそうか」

 なので突き付けたボールペンをソレの額に付け、文字を書く。

【解】

 すると影のように纏わり付いた黒いノが融けて流れる。その下には、彼女と同じくらいの年頃の少女の姿があった。白すぎるほどに白い肌、痩せすぎの身体付き、強ばった顔に瞳ばかりが爛々と。

「この娘……」

 心当たりがありそうだ。


「アタシが事故した時と同じ頃に病院に来た娘。アタシは何とか快復して、一生懸命リハビリして退院できた。でもこの娘は、ずっと入院したまま。検査で病院に行った時も、帰りに病室の窓からアタシを見てた。すごく、羨ましそうに。恨めしそうに」

 なるほどねぇ。

「逆恨み?」

「多分」


 何をか語ろうというのか、強張った顔で口元だけをがたがた振るわせる。どうせ益体もない恨み言でもぶちまけようと言うのだろう。彼女に聞かせる益もない。

【封】

 同じく額にボールペンで書く。

 飛び散った黒いノを含めたソレが、小さく小さく縮んでいく。空いてる左手でポケットから小さなコルク栓の瓶を取り出して、ソレに向ける。するりと納まり、栓をする。


「これさ、百均に一袋五つ入りで売っててね。重宝するんだよ」

 聞かれてないけど、言ってみた。

 コルク栓に【封】と書く。

 一件落着。やっぱり彼女に声を掛けて正解だった。

「警察、電話しないの」

「う、うん」

 曖昧に頷きながら彼女はスマホで緊急のボタンを押した。


 さて――、

 後日聞いた話では、男は、彼女の義足に変態的な劣情をもよおし、それを強奪したのだと。持って帰って、自分を慰めるのに使ったと証言している。どうやって奪ったかは、まったく記憶にないのだとも。まあ、その辺は生霊ちゃんの何かしらチカラが働いたということだろうか。


 それを教えてくれたのは昔馴染みの警察官だ。プライバシーはいいのかと問いたいが、聞いたのはこちらなので黙っておく。

「先方さん、お前さんのことを知りたがってたぜ」と警官殿。

「まあ、教えるなと言うから教えてないけど。けっこうな資産家サマだぜ。逆玉も夢じゃないんじゃないか」

 警官が淫行を勧めるなよ。

「縁があれば、また逢えるだろうさ」

 僕はその時、呑気にも、そんなふうに思っていた。

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