深沢くんとわたし
いとうあさ
深沢くんとわたし
もう八月も終わりだというのに、ばかに暑い日で、深沢くんが買ってきてくれたプラスチックカップ入りのジュースがぬるくなっている。
わたしたちはプールのそばの白いテーブル席で一休みしている。安っぽいパンのホットドッグ、オレンジ色の包装紙につつまれた唐揚げ、角切りのパイナップル。時々、深沢くんの白くて無駄な肉のついていない肩から、塩素を含んだプールの水がしたたり落ちる。深沢くんは、この夏さいごのおでかけだからと昼間から生ビールを飲んでいる。楽しそうに大学の友達の話をしてくれて、わたしはそれを楽しそうに聞いている。
きびしい陽ざしにきらめく長方形の巨大なプールには、たくさんの人の頭や浮き輪、カラフルなボールが所狭しと並んで、奥のウォータースライダーには長蛇の列が出来ている。
「似合ってるね」
わたしはフリンジのついたマーブル柄の水着に、白い薄手のニットパーカーを羽織っている。脱衣所から出るとすぐ、深沢くんがいつもの笑顔でわたしの服装をほめてくれた。
「かわいい」
わたしたちが付き合い出した高校生の頃から、何度この言葉を言ってもらったか分からない。これからのわたしの人生でお付き合いするだろう全ての男の人に言ってもらう「かわいい」の回数を足し合わせても、深沢くんの方がずっと多いとわたしは確信している。
深沢くんはピアニストのように細い指をした背の高い男の子で、笑ったときに目の下にできる皺がとてもかわいらしい。高校生の頃はハンドボール部で、そのときわたしは帰宅部で読書委員をしていた。
本校舎から渡り廊下で隔てられた図書室で、週二回放課後の四時から六時まで、受付カウンターに座っているのがわたしの仕事だった。だだっぴろい閲覧席にはしずかに勉強しているカップルが一組と、たしか同じ学年で成績の良い男の子ひとりしかいなかった。わたしは洋書コーナーの棚に毎週置かれるアメリカのニュース雑誌を手に取って、パラパラ写真や広告をながめていた。
「野中さん?」
とつぜん暗い影が、ページを覆った。顔をあげると、部活用の白いジャージとハーフパンツ姿の深沢くんがかわいい笑顔を浮かべて立っている。わたしは同じクラスの深沢くんと、ほとんど話したことがなかった。
「よかった。いつもここにいるって聞いて。」
深沢くんはまた目の下に皺をよせて、微笑んだ。
「どうしたの。借りたい本があったらもってきてね」
わたしは何を話していいか分からなかったから、それだけ答えた。
「いや、すぐ部活もどらなきゃ。コーチ怖いから。」
人差し指を口もとにあてた深沢くんに、今度はわたしも微笑んでみせた。
「野中さんさ、今付き合ってる人いるの。いなかったら、おれどうかな。」
その日深沢くんは部活をそのままサボって、コーチに叱られたらしい。次の日から、わたしたちは付き合い出した。
深沢くんは唐揚げを摘むと、上から口のなかに落とした。それから白いチェアの肘あてに腕をおいて、満足そうにわらった。今日はこれから東京に帰って、疲れていなかったらいつもの回転寿司に、疲れていたらわたしの家でゆっくりする計画らしい。わたしたちのいつもの休日の過ごし方で、深沢くんは明日から大学が始まるらしい。
深沢くんと付き合ってから驚いたのは、深沢くんは思ったよりもわたしのことが好きそうだいうことだ。部活のない日は一緒に帰ったりした。休み時間になるといつも深沢くんは、友達に誘われて購買部に行く。紙パックのココアを買うのだ。知り合いの多い深沢くんが、後輩の女の子に話しかけられたりするところを見ることになるから、わたしは購買部にあまり立ち寄らなくなった。わたしが教室で次の授業の準備をしていると、深沢くんがやってきて、購買部で買った中にクリームの入ったおまんじゅうをくれた。
わたしたちは高校を卒業して、深沢くんは私立大学に、わたしは専門学校に入った。ふたりとも一人暮らしで、わたしの部屋のほうが少し広いから、いつもそこに泊まっていくのだ。
わたしが専門学校を卒業して、好きな書店でアルバイトをする生活を送るようになってからも、わたしたちは変わらず付き合い続けた。
深沢くんはたぶんずっとわたしのことが好きで、いつも初めて会ったときの笑顔で、わたしのことを褒めた。
大きな雲が太陽を覆い隠して、辺りがサッと薄暗くなった。もしかした一雨来るのかもしれない。深沢くんの体についていた水滴は、いつの間にか乾いている。自分の湿った水着がわたしの肌に当っているのが、すこし気持ち悪かった。
「もう一泳ぎしようか。」
深沢くんが言った。
何の屈託もない笑顔。今日のプールが終わってもふたりは一緒にいて、この夏が終わってもまた来年の夏がやってくることを疑っていない、やさしい笑顔。
わたしのことが好きか、深沢くんに聞いてみたくなった。深沢くんは食べがらの入ったトレーを返しにフードコートのゴミ捨て場に行っている。わたしはそんなことを聞いたことは一度もないし、これからもないと思っていた。わたしのこと、好き? 聞けば深沢くんならこう答えるだろう。うん、好き。そうしてまた、あの目の下に皺ができる笑顔をするはずだ。
騒がしいプールの様子を見ながら歩いてくる深沢くんの姿に、わたしはやっぱりそんなことを聞くのは止めようと思った。
もうきめたのだ。
今日で深沢くんとはさようならをすることにしたのだ。わたしたちは今までずっと仲良しで、そして、それぞれの世界に、旅立つ時がやってきたのだと思う。季節が変わるように、わたしたちも少しずつ変わっていく。それだけなのだ。
深沢くんがわたしの顔をのぞいている。わたしはなぜだか涙がこぼれそうになる。
「おいしかったね、行こう」
わたしはまだ立ちあがらない。言うのだ。
あの日、高校2年生の冬に深沢くんが初めて話かけてくれた時のように、優しく微笑んで言うのだ。
わたしは今日、深沢くんとお別れする。
雨がぱらつき出したのか、プールのほうではきゃあきゃあ騒ぎがおこっている。
わたしはあの日とちっとも変わらない深沢くんの方を向いて、口を開いた。
深沢くんとわたし いとうあさ @ito_asa
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