波の音
はる
波の音
僕はその頃病んでいた。
真っ青な空の下、体に鉛の塊をつけてずるずると足を引きずりながら、辛うじて家と職場を往復していた。
生きることが面倒くさくて、早く死んでしまいたいと思っていた。誰と喋るのも億劫だった。
好きなものはなかった。命をかけて守りたい人もいなかった。
僕は愛することや愛されることに対する感度を過去、ある人に麻痺されてしまっていて、それ以来、どうやっても人を愛せない質(たち)になってしまっていたのだ。
礼儀正しくはする。敬意も忘れない。でも、それだけ。行き交う人々はバーチャルな風景で、例え手を伸ばしても、触れることができない。そのことに対する絶望には慣れっこだった。
たいがい昼は仕事をして、夜に家に帰ると、電池の切れた人形のようにベッドに横たわり、呼吸だけをする。すー、はー、すー、はー。単調なリズム。その音を聞いている人は誰もいない。いつ死ねるのか、とか、死ぬときってどんな感じなのかな、ということが頭を巡り、答えがでないままずるりと去っていく。
苦しかった。ほんとのことを言うと。一刻も早く楽になりたかった。でも楽になるための方法が分からなくて、パソコンでなんども「鬱 回復法」などと調べて試してみたけれど、気力がなくて続かなかった。
精神科は家から遠い。カウンセリングはいくのがめんどくさい。
メンタルを病んでいると、判断基準がめんどくさいか否かになってしまう。それが怖いところだ。
幸いだったのは、そこまで人恋しいわけではなかったから、あてどもなく行きずりの人に肌を任せたり、風俗に途方もない金を使ったりしなかったことだ。物やゴミに依存したりすることもなかった。部屋は整頓されて綺麗というより、ほとんど何も置いてなかった。
なんでもいい、早く命の糸がふっと切れて、何も認識できないような混沌の中に沈み込んでいけたなら。
同僚とは上手くやっていた。愛嬌のある奴、元気が取り柄の奴、生真面目だが誠実な奴。みんな個性的だった。個性のない奴なんていなかった。後輩は可愛かった。よく働いて、間違えたら一生懸命修正して。よく懐いてくれた。先輩は寛大で温かかった。
それなりに楽しくやっていた。会社では。それだけに、苦しみを打ち明けることができなかった。どうして。そんなに問題がなさそうに見えるのに。そう言われるのが怖かった。
休日に適当に電車を乗り継いで、海に向かった。ベタだが跡が残らないから。小高い崖の上に座り、足を投げ出して波を眺めていると、後ろから誰かに抱きつかれた。
「早まっちゃだめ」
切羽詰まった子どもの声。少し驚いたが、努めて楽天的な声を出す。
「おじさんは死なないよ。海を眺めてるだけ」
「嘘だよね」
鋭い子だな。僕は振り返ってその子の顔を見た。
短髪の、中学生くらいの少年。眉根をぎゅっと寄せて、何が何でも死なせるかというようにこちらを見つめ、少し息を呑んだようだった。
僕は彼に視線を走らせ、立ち上がった。
「分かった。君が心配だと言うのなら、ここから離れるよ。それでいい?」
「うん」
真正直な声が返ってくる。僕は平地に向かって歩き出した。背後では、飲み込めなかったことを惜しむように波の音がこだましていた。
「お兄さんは海が好き?」
「好きだよ。繰り返しが単調で落ち着くからね」
「ふうん」
「君はどうなの?」
「嫌いだよ。……あそこで死ぬ人がいる限り」
「君は死が嫌いなの?」
「死のうとする人が嫌いなんだ」
「どうして?」
僕は意地悪く彼の手首にそっと触れて、そっと囁いた。
少年は少し身を強張らせ、それからひと呼吸置いて、呆れたように僕を見た。
「それでほんとに死んじゃうからさ。間抜けにもほどがある」
「なるほどね」
波の音が遠ざかっていく。
「……悪かったよ」
少年は少し口を尖らせて、瞳の色を柔らかくさせた。
「……お兄さんはさ、きっと色々あると思う。“秘密を持ちにくい立場”だろうし。でもね、」
彼は僕に囁き返してきた。
「今日のことはお兄さんと僕だけの秘密」
「……ありがとう」
「お兄さんの独りの姿なんてレアなものが見れたからいいんだよ」
「意地悪だなぁ」
「お兄さんほどでは」
僕は駅に向かって歩いていった。少年は、僕が構内に入るまで踏切の近くに立って僕を見守ってくれていた。
少年の手首の傷。すぐに僕のことに気づいて、それでも何も言わなかった気遣い。数年前に、僕に執拗に付きまとっていたファンによって殺された恋人のことも、それから影の多い役ばかり回ってきた悲しい喜劇ぶりも知っていたはずなのに。
波の音が聞こえる。少年に染みついているはずの単調なリズムは、僕の心を静かに癒やしていった。
波の音 はる @mahunna
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