マリアの指弾

志村麦穂

マリアの指弾

 あのひとがいなくなってちょうど一年。

 この島にはあのひと、江上カノンの影も形も残っていない。だというのに、ぼくの中には、真っ黒いシルエットが焦げ付いて消えない。ちょうど、今日みたいな真夏の太陽の下にできる影と同じ。気味が悪いほど黒々として、髪の毛の一本に至るまでへばりついている。

 右手には柄杓とホウキと線香を突っ込んだ桶を抱え、左手で乱暴に水筒のお茶をあおる。口の端から麦茶がこぼれるけれど、すぐに乾くから気にならない。

 墓掃除のために昼間から、舗装もされていないでこぼこした山道をのぼっていく。盆休みにわざわざ苦労を買ってでることもないのだが、他人の墓の世話など誰もやらないだろう。本来は島唯一の住職である洋おじさんの仕事のはずだ。

 目的地がみえはじめ、あごに伝う汗をぬぐう。

 道の脇に無数に積み重ねられた、墓石の山。無縁塚といわれるもの。苔むしていたり、落ち葉に埋もれていたり。ながらく草払いもされていないことが見て取れる。あることすら忘れ去られた墓。ぼくもあのひとに教えてもらわなければ、知りもしなかった。

 カノンさんは、数年前にこの小さな島に突然やってきた。

 高校生ぐらいの少女が、いきなり越してくれば誰だって驚くし警戒する。いかにも訳ありで、島の大人は彼女と関わろうとしなかった。彼女は特に気にした風でもなく、ひとり飄々と、飽きもせず海を眺めている姿は印象的だった。

 ただ二日もすれば、好奇心が警戒心を打ち破る。娯楽の少ない島のこと、こどもたちが彼女を放っておくもはずなく。ぼくも含めた、数人の島のこどもたちがカノンさんを取り囲んでいた。

「こどもってホント無神経……馬鹿だし、うるさい。ねえ、手に持っている虫近づけたらぶん殴るよ」

 カノンさんはこども相手だろうが、平気で泣かしてくる危ない女だった。小学生だったぼくも、何度かぶん殴られたことがある。そんな彼女だから、いつの間にかぼくらのガキ大将になっていたのも頷ける。

 この無縁塚を訪れたのは、ふたりきりで探検していたときだった。

 いつもの思い付きかと思っていたけれど、その日はぼくをここに連れてきたかったようだった。薄く化粧をした彼女の横顔はいつにも増して透き通り、気恥ずかしくてまっすぐみることができなかった。

「半太はおかしいと思わない? こんな小さな島に、身寄りのないひとを供養するための墓がたくさんあるなんて。あんたたち島民の墓は、寺の敷地内にちゃんとあるでしょう」

 彼女は積み重なった墓石のうちのひとつを指さして、ぼくに苔を払わせる。自分でやらないあたりがカノンさんらしかった。

「見て、このしるし。削れて、いや、削られて薄くなっているけど、十字架らしきものが彫られている。この島はね、江戸時代にキリシタンのひとたちが他所の島からたくさん逃げ込んできた。だから、これはそのひとたちの墓」

「そのぐらい誰でも知ってるよ。かくれキリシタンってやつ。よそもんのカノンさんより詳しいって」

 頬がくっつくほど近づいた彼女に鼓動がはやくなった。嗅いだこともない甘い匂いに、のどがカラカラに干上がったことを覚えている。

「ふぅん……なら、私の疑問にも答えられる? 隣の島にも、キリシタン遺跡はたくさんある。マリア観音とか、祈りの洞窟とか。でも、この島には不思議なほどなにもないよね。調査しても出てこない、信仰しているひともいない。打ち捨てられた墓石ぐらいしか見つからなかった。たぶん、よそ者には隠しているのよ。どうしてだと……いいえ、どこに隠しているんだと思う?」

「知るわけないよ」

 ぼくの答えを聞くと、彼女は鼻を鳴らして、ぱっと離れる。

「それじゃ、夏休みの宿題ね」

 それが江上カノンの姿をみた最後だった。家を引き払うこともなく、荷物もそのままで、彼女は行方をくらました。元々訳ありらしかったこともあり、夜逃げでもしたのではないかとぼくなどは思った。しかし、大人たちは彼女が死んだと決めつけていた。別にどこかで死体が見つかったわけでもないのに。

 一年過ぎた夏。彼女が死んだとすれば、今日が初盆だ。

 まさか彼女が帰ってくるはずもないが、彼女のお墓はこの無縁塚になるのだろう。わざわざ忘れられた墓の掃除を進み出たのは、彼女を思い出したいからだった。

 中学生になったぼくは、少し背も伸びた。いつもカノンさんにいじられていたぼくよりは、少しだけ大人に近づいた。いまなら、彼女が残した宿題も解けるのだろうか。

 そんなことを考えながら、無縁塚の掃除を始めようとしたときだった。

 折り重なった墓石の隙間に、なにやら薄ら白くひかるものがある。ぼうっと、水底に沈んだガラスのように発光している。気になったぼくは、枯葉と雑草を掻き分け、そのひかるものを引っ張り出した。

 指だ。生白い人差し指。

 誰の指なのか。ひと目でわかった。江上カノンの指先だ。

 青い海色のネイルに見覚えがある。こんな派手な爪先をしている人間など、この島にはひとりしかいなかった。

 第三関節の根元から、つい今しがた切り落としてきたかのように、瑞々しい指。ひんやりとして、しっとりと固まった肉。指先はピンと伸びて、なにかを指さしている。ぼくにはそう思えた。

 指があった位置、墓石の隙間を覗き見る。根元から爪先の置かれていた方向を視線でなぞる。指示されていたのは、紙で作られた十字架だった。雨風に晒されないよう石に挟まれた白い紙。すこし黄ばんでしまっているが、どこか見覚えのある形。

『どこに隠しているんだと思う?』

 ぼくはいま、出し忘れていた宿題の提出期限を迫られていた。


 鋭利な刃物で切り取られたような綺麗な断面の指。赤い肉をみても、精肉をみているようで気持ち悪さはない。むしろなまめかしく、衝動的に口に含みたくなる奇妙な魅力すら感じられた。

 指をよくよく観察すると、ネイルのすき間になにか詰まっている。土でも石でもない、灰色の乾いた粘土のようなもの。

 見覚えのある紙の十字架。爪に挟まった灰色のなにか。キリシタンの痕跡。

 頭の中に記憶が浮かび上がってくる。

 木を隠すなら森の中。信仰を隠すなら宗教の中。

 思い出した。ぼくは指先を握り締め、山を駆け下りて行った。


 島唯一の寺、その裏手にある小さな社。社は樹齢千年以上といわれる大楠の袂に建てられている。大楠はご神木であり、ぐるりとしめ縄が幹にまわされている。しめ縄からは白い和紙の紙垂がぶらさがっている。長方形じゃない、十字が連なった紙垂だ。無縁塚で指が示していたものと同じ形のものだ。

 大楠には大きな虚が開いており、樹を保護する為に灰色の保護材で穴が塞がれている。この保護材がカノンさんの爪に挟まっていたものと一致する。

「この場所になにかあるはず」

 大楠の虚を調べていると、わずかばかりの隙間をみつける。ちょうど、ひとの指が一本入るぐらいの幅だ。

 寺にあった補修用の角材を拾ってきて差し込む。てこの原理を利用して、角材に体重をかけていく。好奇心に導かれるまま、力任せにこじ開けようとする。保護材が樹脂製ならば剥そうとしても、力をかけた部分が崩れるだけだろう。しかし、保護材は扉を開けるように全体が動いていく。

「まさか、ほんとに」

 時間と力をかけてこじ開けた隙間から現れたのは、地下へと続く階段だった。虚を塞いでいたはずの保護材は表面だけで、その下には分厚い石造りの扉があった。

 ひんやりとして湿っぽく、かび臭い空気が肌をなでる。

 カノンさんの指をお守りのように胸に抱き寄せ、一歩ずつ階段をくだっていく。地下はそれほど広い空間でもないらしく、呼吸さえ反響して聞こえる。地下の穴倉は寒いぐらいなのに、背中を汗が滑り落ちていった。

 やっとくだりきった地の底で、ぼくは彼女と再会する。

「カノンさん?」

 ほの白くひかる、人差し指のない女体。壁にもたれて、まるで眠っているみたいだ。彼女の体は彫像のごとく静かにぼくを威圧する。息を呑ませる。

 彼女は前よりもずっと透明になって、きれいだと思った。

 ぼくはおそるおそる指を伸ばす。彼女はうごかない。頬にふれる、髪に触れる、胸に、お腹に指を這わせる。むかしは触ることなど考えられなかった場所を、憑りつかれたように撫で回した。恍惚として頬ずりして、舐めまわすように視線を移動させる。

 そして、指だ。指をみた。

 物静かになってしまった彼女が、唯一意志を示し続けている指先。

 残された彼女の、もう一方の人差し指が、地下の壁を指し示す。

 壁面には円柱状のくぼみがあり、1mほどの石像が安置されていた。柔和な笑みを浮かべ、赤子を抱いた女性像。しかし、彼女は聖母マリアではない。その手足は、病んだ樹々のようにねじくれ、体は傾いで歪む。シルエットを人の形に収めたまま、その内側に歪みを彫り現した、異形の像。カノンさんと瓜二つの顔をした像。

 像にはべったりと黒い雨だれが染みついている。血だと直感した。途端、腐った臭いが鼻を塞ぐ。はっとして振り返ると、すべらかな肉体を保っていたはずのカノンさんは、肉がこけ落ちた骸骨になっている。口や鼻の穴に虫が這い回り、ぐずぐずになった皮と内臓が緑色に変色して――。

 死体だった。無慈悲な死があった。足はあらぬ方向に折れ曲がり、壁には逃げ出そうとしたのか爪でひっかきまわった痕がある。絶叫が、痛みが、苦しみが充満している。

 ぼくが入ったとき、この地下はどうなっていた?

 この場所は閉ざされていた。

 カノンさんは殺されたんだ。

 ぼくは恐ろしくなって、半狂乱で叫びながら地下を飛び出した。寺の洋おじさんの元へ駆け込み、ぐちゃぐちゃに叫んで助けを求めた。

 突如、後頭部につよい衝撃を受け、立っていられなくなる。ぐらぐらと視界が揺れて、目が回ったような酔いがせり上がってきた。地面に転がると瞼がふさがった。洋おじさんの声が耳鳴りとなって突き刺さり、脳には意味不明な図像がちかちかと瞬いては消えていった。

「あぁ、きっと悪い夢をみたんだね」

 ぼくは暗転する。


 ぼくが目を覚ましたのは、一週間後のことだった。

 話によると、あのあと警察やら役所の人やらがきて大騒ぎだったらしい。ぼくはというと、蚊を媒介とするデング熱にかかったようで、意識不明で寝込んでいたと医者に説明された。山のやぶ蚊によくない奴が混じっていたのだとか。蚊に刺された覚えなどないが、色々ありすぎてわからなかったのだろう。

「丸屋くんが見つけたんだって? すごいね、地下礼拝堂。潜伏キリシタンの史跡として文化財になるってさ。ずっとこの島で暮らしていたのに、まるで気付かなかったよ。しめ縄の紙、あれオマブリっていうらしいね。キリシタンのお守りでさ――」

 死体発見の事情を聞きにきたはずの、島の駐在さんは聞いてもいないことを喋り続ける。その話のなかには、ぼくが地下でみた女性像の話はでてこなかった。あの場所はただの潜伏キリシタンの史跡として処理されるようだ。

「あの、カノンさんのことは?」

「うん……それがねぇ」

 駐在さんはぼくの質問に歯切れ悪くなる。

「あの人ね、江上カノンなんて名前じゃなかったよ」

「どういうことですか?」

「偽名だよ。身分証も、経歴も、なにもかも偽物だったらしくてね。どこのだれともわからないんだ。戸籍での確認も、それらしい失踪者も見当たらない。彼女が何者か、だれもしらない。あっ、忘れるところだった。これを渡しておかないと」

 駐在さんがぼくの手に細長いものを握らせる。

 指だ。カノンさんだっただれかの指。すこしの劣化もなく、きれいな。きれいすぎて、歪な、なにかがゆがめられた指先。

「マリア様の指だ。大事にしなさい。きみを呪詛から救ってくださったのだから」

「呪詛?」

「うん、一週間も呪詛で寝込むなんてね。きっと、おかしな夢をみたはずだ。そう、夢だよ。きみは夢をみていたんだ、丸屋半太くん」

 駐在さんは仮面をつけているように、にこやかな笑顔を張り付ける。

 潜伏キリシタンは、迫害から逃れるために仏教徒を装った。ならば、潜伏キリシタンとしての皮を被っているこの島は、祀られたは、なんだったのか。

 ぼくがみつけたとき、秘密への扉は閉じられていた。あのひとを、だれかが閉じ込めたのだ。ぼくにはそれを追求する勇気はない。

 秘密は閉ざされ、奥深くで続けられていく。

 彼女の指はいまも、なにかを指し示して、虚空へと伸びている。

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マリアの指弾 志村麦穂 @baku-shimura

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