さよならが言えてしまう
夏野けい/笹原千波
きみのせかい
水を蹴る。きわめて自然にしぶきが散った。
「来たね
個性のない声。いつのまにか璃湖がいる。東洋人の十七歳女性の平均から導かれた仮想身体に多少手を加えただけの姿だ。生物としての璃湖には似ていない。だいたい璃湖は二十三歳だ。若い、けれどこんなには若くない。
足を開いて椅子の背もたれを挟み、行儀わるく座っている。指が文字盤を操作するそぶりを見せる。思うだけでこと足りるはずだけど、璃湖は以前から、仮想空間においても肉体と同じようにふるまうことを好んだ。
「言いかた」
「耳はふざけないからさ。あの人も喉を休めたほうがいいって」
肩をすくめる仕草からは、深刻さなど感じない。軽やかな態度は璃湖らしい。でも、この状況では平然としすぎている。
「本当に、璃湖なんだよね」
「母さんも悠生も懲りないね。それを証明する手段はない。医者にも技術者にも、もちろん私にも」
今も璃湖の肉体は病院にある。人工呼吸器に頼り、まぶたは開くことがない。母親は娘の手を握り昼夜を問わず語りかけ続ける。
接続を切っていたら、璃湖はおそらく明確な死を迎えていた。呼吸が止まり心臓が止まり細胞は代謝をやめて体温が大気に散っていく、昔ながらの死を。
璃湖が倒れたのは自室での仕事中、微小体内装置を介して脳と機械を繋いでいたときだった。電子計算機は生体脳と協働してゆたかな創造をものにする。この世界のような、手の込んだ仮想環境をつくるのが璃湖の仕事だ。
機器類は使用者の異常を察して通報をおこなった。けれど、救助されたときにはすでに脳の機能の大部分が失われていた。それは各種検査からもあきらかだ。当初の見解では良くて植物状態、でなければ脳死。
何も知らない私が受けとった電子書簡が、すべてをくつがえした。
ただひとこと、たすけて、とひらがなで書かれていた。添付されていたのは作品だった。
なにかが起きている。疑う余裕もなく神経接続の権限を与え、読み込む。ひらいた世界にあったのは不完全な湖だった。のっぺりとした水面の反射は不自然で、色彩はこまやかさに欠ける。璃湖はいなかった。通話にも出ず、それからは何の反応も連絡もなく、彼女の母親からの電話で状況を知った。
「璃湖。いくつかきいてもいい」
「何だって何度だって答えてしんぜよう」
「電子書簡を送ったのは、いつ」
記録されていた送信時刻にはもう、昏睡していたはずだ。
「自動送信だよ。接続を切られる直前まで粘りたかったから。喋ってる暇なんてないと思ったんだ」
「だけどその時点で、演算装置は璃湖の神経活動を助けていた」
「気づいてなかった。単に必死で間に合わそうとしてた」
「なんで私に送ったの。客先じゃなくて」
「終わらなかったら悠生に行くようにしてた。継いでくれたらって思って」
「信頼は、嬉しいよ」
手放しに喜べないのは、意思決定が璃湖の好みによるものだと確信できないからだ。璃湖のまわりの同業者のなかで、もっとも付きあいが長いのが私だった。出会いは中学、親どうしも連絡できる。その単純な要素による機械的な選択を疑ってしまう。
「やっぱ偽者に見えるかな」
ゆるゆると首を振る璃湖は寂しげで、真に感情をもっているように思える。
「即時に対応ができるのも考えものだな。最初は疑う余裕もなかったもんね」
高度な仕事に使うものとはいえ、個人用電子計算機の演算速度で生体脳神経の複雑なやりとりを再現するのは難しい。はじめのうち、璃湖は自己の再現を最低限にして、事前に組んだ計画にしたがって作業を進めていた。搬送のさいに接続が切られ、電子書簡が自動送信された。
母親が私と連絡をとったことで、肉体が意識をうしなった後にも璃湖の自我が動いていた可能性が浮上する。
病室に持ち込んだ璃湖の電子計算機に接続がこころみられ、何かしらの動きがあることを確認した。作品が更新されているのがわかった。次に試すのは意思の疎通だ。
私たちは期待し、焦り、あきらめかけた。母親が打ち込んだ文字に返事がくるまでに一昼夜がかかった。
のちにわかったことだが、微小体内装置の記録を早回しにすると、脳の無事な部分に過去の作業中とそっくりな神経細胞の発火がみられる。
璃湖はきわめてゆっくりとした速度に生きていた。足りない能力を、時間をかけることで補って、ひとりで世界を構築しつづけていた。
外部からの接触があってはじめて璃湖は人間としての自分を思い出した。作業を止めて、私たちの呼びかけに応じた。言葉づかいは彼女そのものだった。
借りてきた大型電子計算機を繋ぐと璃湖は仮想空間に自分を再現した。愛用の
状況を解した璃湖が身体を感じようと試みたが、復帰できたのは聴覚だけだった。今の彼女には本来の肉体の感覚がない。
私は仮想空間上で会うことができる。母親のほうは、そうはいかなかった。娘とは明らかに異なる仮想身体も、平均的な声音も、母親にとっては耐えがたいものであったらしい。そもそも、彼女は微小体内装置を脳に導入していない。ひと昔前の視聴覚再生機では会っているという実感は得にくいだろう。
璃湖は母親の声を聞き、母親は璃湖の打った文字を読む。握った手の熱は伝わらず、情報の集積としての笑顔は見えない。
「私も、ほんとは自信ないんだ。私の人格は、私の端末と通信網上に保存されてた情報で再現されてるはずだよね。そのなかには確かにたくさんの反応と記憶の蓄積があったのかもしれない。でも、結局は不完全な複製なんだ。私の生まれながらの脳は、ほとんど死んでしまったから」
口を、ひらけなかった。どんな返答も嘘になる。私は何度も疑った。けれど、偽者だと断じることもできない。慰めることも切り捨てることも無理だ。
「たとえば私が機械に補われないまま、脳損傷によって前とは似ても似つかない人間になってしまったら。それでも悠生は私として受け入れようとしたんじゃないかな。つまりさ、私は生体ではないものによって支えられているからこそ、私であることを疑われるんだ。そうまでしてこの世界を作ろうとしたことは、正しかったのかな」
「私は、璃湖とまた話せてよかった。お母さんだってきっと。私がいくじなしだからいけないんだ。もっと、普通におしゃべりできたらよかったのに、璃湖の身体見てたら、璃湖が平気な顔してるの、どうしても腑に落ちなくて、混乱して」
「だよね、ごめん。ほんとはさ、一回くらい泣きたかった。泣けたらよかったのにって何度も思った。ばかだよね。泣き落としなんてしないからって機能、つけなかった。この
璃湖を抱きしめた。かりそめの、情報でしかない温かさに満たされる。仮の身体は嗚咽に震えたりしない。それでも、私は彼女に
璃湖が私を軽く押しやる。熱が離れる。
「ここね、もうほぼ完成してるんだ。つまり私は消える」
「どうして」
「都合が良すぎるとは思わないかな。機械=脳神経接続が生きたまま脳に障害を負った事例はほかにある。ではなぜ私だけが模倣の恩恵を受けたのか」
「使いすぎだから。ありったけ記憶突っ込んで素材にして、作業効率のために思考の傾向まで保存してた」
「多くの思い出を保持できているのはそのせいだろうね。でも人間は記憶で出来ているわけじゃないし、単純に神経の発火を再現しても、それは過去をなぞって再生するだけのこと。答えを言おうか。この空間は、死に
「じゃあ、自分の身体で」
「うん。あちこちの入力や出力を切って試してた。想像以上に成功してたみたいだね。けど、この機能はだめだ。世に出せない」
「救いには、なるよ。確実に」
「もともと悩んでたんだ。顧客は脳の補助まで望んではいなかった。おまけに今のところ、私のようなものを規定する法律もない。だからこの空間でしか機能が生きないようにした。厳重に鍵をかけてね。そしてお別れの期限は、最大七日。意識の延命は意図していない」
「璃湖の場合は、いつが期限になるの」
「私の空間は納品と同時に消滅することになってる」
「ならいつまでだって」
「悠生。人間ってさ、肉体とは本来切り離せないものなんだよ。わかるんだよ。私はもう、以前の璃湖じゃなくなってきてる」
「
「残念だけど、そこまで厳密な再現じゃなさそう。寄せ集めの意識が怪物に育たないとも限らない。せめて今のまま消えていきたいんだ、私」
私の仮想身体は涙を流す。ひどい話だ。璃湖は泣けもしないのに。埋め合わせのように笑顔をつくる。
「わかった。璃湖が選んだなら」
「ありがとう。じゃ、さ。母さんにお別れ、言ってくるから」
「うん。がんばって。あのさ、私しばらくここにいていいかな」
「いいよ。安全に出られるように設定しとく」
あとには光たゆたう水面が残った。限りない静寂に目をこらす。璃湖の感性を、神経に焼きつけるように。
さよならが言えてしまう 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます