第4話 結
帰りはどこかの吊り橋に寄ろう、と思っていた。ここにしかない景色だし、きっと陽太も喜んでくれる。地元のすごい思い出話を、東京に持っていってほしかった。
でも、それももう叶わない。
スマホがなくても、二回目でなんとなく道を覚えていたのが幸いだった。来た道を戻れば、家まで帰り着ける。
県道338号を走り、長島ダムを背中に見る。トンネルを抜け、山岳路を抜け、二股に分かれた鉄橋もスルーする。速度とシフトがいまいち一致しなくて、YZF-R25は不満げな音を立てている。シフトチェンジを繰り返しながら、ヘルメットの中で、何度も何度もため息をつく。逃げていく幸せはもうない。
行きはあんなに遠かった道が、あっという間に過ぎ去っていく。
千頭駅の市街が見えた。喫茶店やお土産の店。せっかく来たし、何か買っていこうかな、とふと思い、シフトを落とす。その時、急に思ったより強いエンジンブレーキがかかった。一速に入ってしまっていたのだ。
バランスを失いそうになる車体を支えて、どうにか一時停止する。クラッチが切れてエンストしてしまっていた。
しょうがないじゃん。全部わたしが悪いんだもん。
ロータリーが目の前だった。
エンジンをかけ直そうとするけど、なぜかかからない。
落ち着きなよ、とバイクに言われた気がした。
深呼吸して、バイクの状態を確認する。キルスイッチが入ってしまっていた。バランスを崩して、ハンドルにしがみつくようになった時に、うっかり押してしまっていたようだった。
そしてエンジンをかけ直そうと、キーに触れた時だった。
誰かがロータリーの方から走ってくる。手を振り、叫んでいる。
「千佳! 待って! 千佳!」
わたしはヘルメットのバイザーを上げた。
いないはずの人がそこにいた。
「陽太?」
走ってきて、肩で息をしているのは、他でもない陽太だった。
なんで。どうして。いろんな疑問が頭を埋め尽くそうとしたけど、そんなことより、着ている服が面白かった。ゆったりしたシルエットが、なんだかめちゃくちゃバンドマンっぽかったのだ。オリジナル曲音源のひとつもないくせに。
「よかった。ごめん。今朝、新幹線に乗り遅れて、それで、大井川鐵道への乗り換え、間に合わなくてさ。ここで待ってれば、通るかなって思って、張ってた」
「えっ? 何? 普通に連絡してよ」
「いや、だって、なんか気まずい感じだったし。言いづらかったっていうか……」
「陽太さ、頭いいのに馬鹿だよね。向こうの道通ってたらどうすんの?」
「馬鹿ってなんだよ。連絡はしたって。さっき。ここなら電波入るじゃん。見てないのかよ。結構ハズかったんだけど」
「あ、ごめん。スマホ落とした」
「落とした?」
「うん。湖に落としたから、たぶんもう駄目」
わたしはサイドスタンドを立てて、ヘルメットを取ってバイクを降りた。
陽太は、あー、とか言いながら、何か挙動不審になる。
「じゃあ、見てないのか。そっか」
「……もしかして、別れ話とか」
「は? んなわけねーだろ。なんでそうなるんだよ」
「だって、会えなかったし」
「それはマジでごめん」
そう言って、陽太はポケットの中から何かを取り出した。
「そこで売ってた」と言いつつ、目が泳いでいる。
恋錠こと、ハート型の南京錠だった。
「そこって、千頭駅で?」
「うん。なんか売ってたから買った」
普通に知らなかった。わたしはてっきり、金谷で買うものだと思い込んでいたのだ。
「じゃあ、それ着けに行く? 陽太さえよければ」
「よければって……駄目なわけねーだろ」
「でもわたし、酷いこと言ったし。陽太の気持ちとか、全然考えてなかったし。今日だって、陽太が来てくれるって自信なくて、信じられなくて、そのハートのやつも買わなかったし。全部、陽太の言う通りだから、彼女の資格ないし」
言ってしまってから、横目でバイクのサイドミラーを見た。酷い目をしていた。
陽太は応じなかった。代わりに、バイクの後ろの固定を外して、ヘルメットを被った。
陽太、とわたしが訊くと、素っ気ない言葉が返ってくる。
「そういうのいいから。行こうぜ」
でも、と応じても、陽太は「そういうのいいから」と繰り返して、早くもパッセンジャーシートに跨がる。
わたしの疑念。わたしの嫉妬。わたしの冷たさ。わたしの愚かさ。
陽太は全部わかっていて、それでも、そういうのいいから、と言ってくれている。
わたしも、言わなきゃいけないことがあった。
言い訳や謝罪じゃなくて、何よりも伝えなきゃいけないこと。
陽太が送ったというLINEは、どんな言葉だったのだろう。わたしに見られなかったとわかったら安心した感じで、本人いわく、結構ハズい。
気になるけど、湖の底に沈めてしまおう。そういうのはいいから、もっと大事なことを話したい。三ヶ月ぶりに会えたんだから。
バイクに跨がると、サスペンションがぐっと沈む。陽太が後ろからわたしの腰に腕を回す。いや、これ普通逆じゃないの、と思う。男として気にならないのだろうか。まあ、でも、マイペースなやつだし。そういうところも。
「陽太、大好き」
エンジンスタート。心が弾むアイドリング音が、快晴の空に響く。
恋錠の駅で待ち合わせ 下村智恵理 @hisago_a
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