第3話 転

 護岸と護岸の距離は遠くても、ほとんどが河原で水の流れている場所は少なく、大河という感じでもない大井川を右手に見ながら走る。この先に点在するキャンプ場までの距離が書かれた看板を見上げて橋を渡ると、左手に大きな吊り橋が見えた。川根温泉の道の駅のあたりで見かけたものより頼もしそうだったけど、スケスケなのは同じなので、あんまり渡りたくはない。橋の袂にはお茶屋さんがあり、大きな湯飲みのオブジェが置かれている。地方の幹線道路あるあるの謎オブジェ、と思っているけど、静岡以外にも似たようなものがあるのかは知らない。

 そして、覚悟はいいかと問いかけてくるような坂道を最後に、千頭の市街地が終わる。県道77号線は、長くて暗くて湿っぽいトンネルに入る。スロットルを緩めて、ヘッドライトをハイビームにした。

 風の強い冬と日差しの強い夏は、トンネルに入ると気持ちよくて気が緩んでしまう。でも、高速道路ならともかく、山岳路のトンネルは足下が悪いから油断は禁物。普段ならなんでもない段差でも、視界が悪いとひやっとする。

 トンネルを抜けると、空気が変わる。暑さは相変わらずだけど、鼻と喉と肺を洗われているかのよう。雑味のなくなった景色は、道すがらにかかるごく小さな鉄橋でさえも、めちゃくちゃ写真映えしそうなオーラを放っている。

 マップを見ると、川の蛇行があまりにも激しくて、いつの間にか右も左も同じ一本の川に囲まれている。そしてまたトンネル。それを抜けると、二股に分かれた真っ赤な鉄橋を渡る。前に来たとき、次はここで写真を撮ろうと考えていたことを思い出した。でも思い出したときにはもう車体は橋にさしかかっていた。幅が狭くて、バイクでも駐停車したら後続車が通れなくなるような橋なのだ。

 泣く泣く通り過ぎると、集落と茶畑が見えてくる。つまり、見えないけれど駅があるのだ。

 そして運命の分かれ道。左に行くと寸又峡、右に行くと接岨峡という分岐を、右に折れた。寸又峡の方は、花恋が紅葉の時期に彼氏と一緒に行った、と話していた。なんでも、もみじの葉より人の方が多かったとか。

 山に来ている、と実感するのはどんな時だろう。周りが木しかないとか、先行車も対向車もなくなるとか、道がガタガタになるとか。人によっていろいろあるのかもしれないけど、わたしの場合は、地面までものすごく距離のある、空の上に架かっているような峡谷の橋を渡っている時だ。バイクだと、空を飛んでいるような心地になる。

 わたしの前に、とうとうその、山の実感がやってきた。

 刺すような日差しと、心地よい横風と、ぞっとするほど深い谷。濁り水の大井川は、小指の先くらいにしか見えない。対岸の、緑の山肌に開いたトンネルの穴へと、わたしとYZF-R25は吸い込まれていく。

 トンネル、峡谷を縫うような山岳路。そしてまたトンネルの繰り返し。

 ダムが近い。

 連続する急カーブを抜けると、橋の上で景色が開けた。山々の谷間に差し込まれたコンクリートの壁。深い緑の水を湛える、長島ダムだ。耳慣れないエンジン音が聞こえると思ったら、ダムからの放水の音が混ざっていた。

 山は大きいはずなのに、その山々の隙間に、負けじと大きい人工物が聳えている。ダムにハマる人の気持ちは、ダムを一度目にすればわかる。街中の高層建築とはまったく別物の圧倒感が押し寄せてくる。それを作った人々や、底に沈んだ多くのものの情念が、しぶきと一緒に跳ね上がり、訪れる人を包み込む。

 頭上に大井川鐵道の錆びた高架線路が見えた。そもそもダム建設のために通して、今は観光化しているのが大井川鐵道なのだ。

 管理所の駐車場の横を通り過ぎると、トンネルと山岳路の連続になる。時折景色が開けると、ダム湖である接岨湖が望める。翡翠を溶かしたような、深いエメラルドグリーンの水が、太陽の光を乱反射している。現実味がなくなって、ふわふわしたような気分になってくるのは、日差しのせいだけじゃない。

 直線に入ったところで少しスピードを落として、ハンドルバーに固定しているスマホの画面を確認する。通知はない。

 さらにトンネルをいくつか抜けた先で、スマホの電波表示に×が点る。

 わたしは本当にひとりぼっちになる。

 そして、金谷駅からおおよそ一時間半。

 わたしは、たどり着いてしまった。

 県道388号、接岨峡線から、崖下に降りていく細くて急な脇道がある。深呼吸しつつ、シフトを落として慎重に下る。その先に一〇台ほどの駐車スペースがある。

 一番端っこに停めて、エンジンを切った。音が静けさに飲み込まれていった。すると、黙ったわたしのYZF-R25を囃し立てるかのように、蝉の声が聞こえた。

 ヘルメットを取って車体側面に固定し、グローブを中に入れておく。プロテクター入りのジャケットを脱いで、メーターを覆うように被せておく。スマホを外してキーを抜いて、ライディングシューズの固定を緩める。

 背伸びをした。最後のひと踏ん張りだ。

 崖みたいな、ハイキングコースのような、駐車場と駅を繋いでいるとは思えない道を上る。木々が濃く、日差しが差さないせいか、足下は所々ぬかるんでいる。

 そして階段を上ると、生い茂る夏の葉が作る自然のトンネルの向こうに、赤い鉄橋の上の線路が見えた。

 降りて、その線路の横に通っている、人がやっとすれ違えるくらいの狭い通路を歩く。

 川の大きな蛇行を切り取るように赤い鉄橋が架けられていて、その中心の、岬のようになっている場所に、駅がある。利用者は、鉄橋の上を歩いて渡る。下を向けば、鉄橋のフェンス越しに、翡翠の緑に染まった接岨湖の水だけが見える。あまりの高さに目眩がしてくる。

 列車を待っているのだろう、他の利用者の姿が見えたので、わたしはマスクを着ける。

「着いた」と独りごちた。

 大井川鐵道井川線、奥大井湖上駅。

 湖上にぽつんと佇む駅舎。エメラルドグリーンの上を一直線に伸びる線路と鉄橋の赤。まだ熱いスマホで写真を撮る。撮りまくる。でも、ここは圏外なので、どこにもアップロードできない。

 ホームの端には小さな鐘。駅名表示のすぐ隣に、ハート型の椅子と、南京錠をかける台がある。『恋がかなう場所』と書かれている。約束がなければ、秘境駅も頑張ってるなあ、と思って終わりだろう。実際、前に来た時、わたしはこの恋愛成就スポットを見逃していた。

 時計を見ると、まだ約束まで時間があった。

 来た道を引き返して、橋の袂へ戻る。そこから崖の上へ繋がる階段を、息を切らしながら登る。五段。一〇段。一五段。額を汗が伝った。そして登り切ったところに、ごくささやかな広場がある。

 思わず手すりから身を乗り出す。奥大井湖上駅とその周辺の景色が目の前に一望できる、展望広場なのだ。

 真っ直ぐに左右に伸びる赤い鉄橋は、実は、奥大井レインボーブリッジという名前がついている。碧の湖と、ぽつんと浮かぶ島のような駅舎。実際は南側から突き出した岬のようなもので、川の蛇行によってできた地形なのだけど、現実離れした風景だった。静かで、穏やかで、でも異様で不思議。スマホが圏外のせいだろうか、まるで自分が異世界に迷い込んでしまったかのようだった。ちょうどジブリのアニメのように。そういえば、陽太も「ジブリっぽい」と言っていたっけ。

 急に、身体が疲れを訴える。デニムだしいいか、と自分に言い聞かせて、アスファルトの上に腰を下ろした。

 川根で買ったペットボトルを取り出して飲む。乾いた喉に温くなった水がどんどん吸い込まれていき、あっという間に空になった。

 届かないとわかっているのに、連絡が来ていないか、ついスマホを確認してしまう。トーク履歴は、変わらずわたしの「帰省どうすんの」で止まっている。

 景色の写真を何枚か撮影して、フィルターを調整する。そして、手持ち無沙汰になって、昔の写真を遡る。

 楽しいようで楽しくなかった東京旅行の写真を見ていて、ふと気づいた。

 お台場にふたりで行って、レインボーブリッジをバックに一緒に撮った写真だ。わたしは、「大井川にもあるし」と言った。今、わたしの目の前にある奥大井レインボーブリッジの歴史は、お台場のものより古いのだ。そしてわたしの説明を聞いた陽太は、「地元にそんなところあったんだ。行ってみてえ」と言った。

 陽太が急に奥大井湖上駅へ行きたがったのは、あの時の会話がきっかけだったのだ。

 でも、どうして急に。

 思い出を作りたいから? 愛の証拠固めのため?

 大森夏希の、気取らなさが憎たらしいコーデ自撮りを思い出した。

 嫌な女になっているな、と思う。名前と顔しか知らない、言葉を交わしたこともない人の悪口を、今なら無限に言える気がする。こんなんじゃ、陽太も愛想を尽かして当然かもしれない。

 文化祭のバックステージから見た後ろ姿に恋をした。ずっと一方通行のつもりだった。陽太が受験組、わたしが就職組になって、疎遠になるかと思ったら、勉強の息抜きがしたいと誘われて、静岡まで出て映画を観たこともあった。受験直前には、一緒に縁起物の硬券を買いに行った。

 あ、と間抜けな声が出た。

 好きでもないのに、受験勉強の隙間を縫って遊びに誘うわけがない。

 大事な試験の前に、一緒に縁起物を買うわけがない。

 好きでもないのに、卒業式で一世一代の告白をするわけがない。

 一週間前の陽太との通話が、途端に頭の中によみがえった。

 自分のことしか考えてなかったのは、わたしの方だ。マイペースで、相手の気持ちなんか少しも考えていないのは、わたしの方だ。一方的に焦って、嫉妬して、陽太だって大変なことが沢山あるはずなのに、それを想像しようとしなかった。

 大森夏希っていうわかりやすい敵を見つけて、自分の選択してきた現在と向き合うことから逃げた。将来への漠然とした不安に、何かするわけでもなく、ただ陽太に八つ当たりして不安から目を背けた。八つ当たりする理由を、SNSの隅々まで探してしまっていた。

 好きだと言ってくれたことに甘えて、遠距離恋愛の大変さを全部押しつけて、好きだと言ったことすらなかった。

 スマホには陽太のスーツ姿の写真。コロナで入学式が中止になったからと、部屋でスーツだけ着て写真を送ってきたものだった。

 ごめんね、と言った。涙が落ちそうになるのを堪えた。

 遠くから、がたんごとん、というおもちゃのような音が聞こえた気がした。顔を上げた。聞き違いではなかった。レインボーブリッジの端に、列車の姿が見えた。

 わたしは慌てて立ち上がって、階段を駆け下りた。

 陽太はきっと、あの列車に乗っている。来てくれる。話したいことがたくさんある。謝りたいことも。会えない間にわたしが見たもの、感じたものの全部を陽太に伝えたかった。言わなきゃいけない言葉もあった。

 幻想を破るような警笛の音に急かされる。

 息を切らして線路の横を走り、ホームに駆け上がる。降りてきた乗客は数人。皆、駅がお目当てのようだった。

 仲が良さそうな初老の夫婦。なぜかアニメ柄のTシャツを着た若者たち。アウトドア風の服装をした若い女性のふたり組。おれはお前らとは違うぜ、という雰囲気を出してる筋金入りの鉄道ファンっぽい男性。

 陽太の姿はなかった。

 皆マスクをしているから、見落としたのかと思って、もう一度全員の顔を見た。

 陽太はいなかった。そのうち列車の扉は締まって、次の駅へと発車していく。警笛の音が湖に響いて、消える。

 ずっと遠距離とか無理。都会の絵の具に染まったのかも。好きって言ってくれたこと、ないよな。いくつもの言葉が頭の中で響いて、涙になった。

 もう、駄目なんだ。

 もう、終わっちゃったんだ。

 わたしが責められるのはわたしだけで、でも時間は戻らない。ごめんなさい、とLINEに入力しようとして、エラーが返ってくる。別れの言葉くらい言わせてくれてもいいのに。スマホの画面に、どんどん涙が落ちてしまう。泣いたってしょうがないのに、全部わたしのせいなのに、止まらない。

 こんなところまでひとりで、誰も待っていないのに走ってきて、ひとりで帰る。それはいつも通りなはずなのに。

 帰りたくない。この、世界から取り残された場所から、戻りたくない。

 ぐしゃぐしゃになってしまったマスクを外した。無理矢理涙を拭って、鉄橋の狭い通路を駐車場の方へと歩く。片手にスマホを持ったままだった。

 それがいけなかった。

 ライディングシューズの足元が段差に躓いた。慌てて手すりに掴まる。スマホを取り落とす。気づいたときにはもう遅かった。わたしのスマホは、鉄の橋の上から幻の湖の底へと、真っ逆さまに落ちていった。

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