第2話 承

 うねる山道をひたすら進む。スマホナビの地図上ではすぐ隣に線路が走っているはずなのに、木立が濃くて全然見えない。だが、春は桜の名所になる変な分岐(名前はそのまんま、桜トンネル)を抜けると次第に景色は開け、川根のささやかな市街地に出る。そこで国道473号から右折し、県道63号に入った。

 大井川にかかる橋を渡り、東岸に移ってまた北上。丘を登ると、左手に景色が開けた。

 遠くに見える、川を渡る赤い鉄橋。大井川鐵道の線路だ。路肩の小さな公園や歩道に、バズーカみたいなカメラを三脚に載せ、線路の方へと狙いを定める人がぽつぽつと見える。前にこの道を通った時にも、似たような人たちの姿があった。鉄道写真が好きな人たちにとっては、狙い目のスポットらしい。

 彼らが撮ろうとしている車両に、約束通りなら、陽太が乗っているかもしれない。

 乗っていないかもしれない。

 線路沿いの施設にバイクを入れた。道の駅川根温泉。温浴施設とホテル、川根温泉笹間渡駅が一体となっている施設だ。温泉からは、鉄橋を渡る列車が見えるのだという。ここまで三〇分と少しの走行。まだ体力は大丈夫だけど、出発前に飲み物を買うのを忘れていた。

 バイクを降りると、うだるような暑さが襲いかかってくる。すぐさま着けたマスクが苦しい。日陰に入って、自販機でペットボトルの水を買った。さすが川根、自販機に並ぶ飲み物も、川根のお茶が一番多い。でも、水分補給にカフェインは大敵だから、今回は我慢する。

 冷たい水でひと心地ついて、家から持ってきた飴を舐めて、さっきまでナビになっていたスマホを手に取る。日光でかなり熱くなっていて、動作が怪しかった。

 トーク履歴を確認する。三日前、勇気を出して送った「帰省どうすんの」というLINEは、既読スルーのままだった。

 花恋が言っていたことに、わたしは心当たりがあった。

 大学でも軽音サークルに所属しているらしい陽太は、練習風景やライブの様子をよくSNSに上げていた。そこになぜか決まって映り込んでいる、バンドメンバーの女の子がいた。担当はベース。名前は大森夏希。陽太と同じ大学の文学部で、バイト先は同じレコード店。わたしと同じ短い黒髪なのに、あっちの方が一〇〇倍垢抜けている。こんなに詳しいのは、花恋が言う、『遠距離恋愛の禁』を犯したからだった。

 わたしが陽太と付き合い始めた直後、花恋はこう言っていた。


「ひとつ、彼氏のInstagramを見るな。ひとつ、彼氏のTwitterを見るな。ひとつ、彼氏のFacebookを見るな。これ、遠距離恋愛が長続きするコツね」


 まったく、その通りだ。

 陽太のSNSには、東京が満ち満ちていた。

 有名なラーメン店。再開発された見上げるほど大きなビル。街角の何気ない風景。名前を聞いたこともないインディーズバンドのレア音源。経営が苦しいライブハウスでやっと開催されたイベントのフライヤー。おしゃれな並木道。オンラインの講義や山のような課題への愚痴。人懐こい野良猫。バイト先の工夫を凝らした新譜棚。何もかもが東京だった。

 見れば見るほど、陽太のことが遠ざかっていく。合格駅で一緒に縁起物の硬券を買った時の、わたしが「頑張れよ」と言うと少し残念そうにはにかんでいた彼が、どんどんいなくなってしまう気がした。わたしは、制服を着て、名もない田舎道を自転車で走る陽太のことばかり知っている。私服を着て、広々としたキャンパスに通い、地下鉄に乗り、日本中の誰もがその名を知っている新宿や渋谷の街を歩く陽太のことは、大森夏希の方が知っている。しかもあいつら、渋谷じゃなくて、渋谷のどこかの通りにある雑貨屋の話とかしてる!

 大森夏希のSNSも、見なければいいのに見てしまった。

 陽太と一緒の練習風景。一緒のバイト先。最近買ったジャケット。靴。ZARAやGUのメンズアイテムの使い方が上手で嫌になる。アウトドアっぽいアイテムもよく使っている。でも、プロテクターの入ったメッシュジャケットなんて存在も知らなさそう。Wearやインスタのコーデ写真に積み上がったいいねの数は、わたしの風景写真よりも多い。髪を巻いててワンピースやフレアスカートばかりの、いかにも女子大生っぽいコーデだったら舌打ちすればそれで済むのに、そうじゃないのがムカつく。なんでスニーカーばっかりなんだ。

 東京を、自然体で楽しむオシャレ女子。自然体なんですよ、という感じが、とにかくムカつく。わたしだって、こんなわたしになりたかった。

 わたしが大学進学を諦めたのは、兄がひとり暮らしして東京の大学に通っていたからだ。うちの経済状況だと、わたしも大学に進むのは難しかった。返さなくていい奨学金を受けられるほど成績はよくなかったし、借金を背負って、働いて、全部返してまだ働く自分をイメージできなかった。ちなみに兄は、わたしの1.5倍くらいの給料で働いている。

 コロナコロナで大騒ぎだったけど、ゴールデンウィークに、思い切って東京の陽太の家に遊びに行った。でも、陽太はバイトばかりで、一緒の時間は24時間もなかったと思う。生活費と学費の一部をバイトで賄っているという陽太は、長い休みに合わせて夜勤のバイトも入れていた。わたしが来ることはわかっていたはずなのに。

 その時は、わたしは全部の不満を飲み込んだ。陽太はひとりっ子だし、昔からマイペースなところがある。

 でも、一週間前に、爆発してしまった。

 きっかけは些細なことだった。

 陽太が、「おみやげに持ってく」と言って、ハンドメイドのピアスの写真を送ってきた。バイクのスプロケットの形をしていて、バイク乗りのわたしがいかにも喜びそうなものだった。

 でも、わたしはそれを見たことがあった。大森夏希のインスタで。

 その数日前に、大森夏希は、友達が出展しているというハンドメイドアクセサリーのイベント会場の写真を何枚か上げていた。開催できてよかった~!なんて言葉と、可愛い感じの絵文字が添えられたその写真のひとつに、同じスプロケのピアスが写り込んでいたのだ。

 わたしは問い詰めた。


「どこで買ったの」「この人と一緒に行ったの?」「コロナなのに」「仲良さそうだよね」「ゴールデンウィークもバイトばっかだった」「こんなプレゼントみたいなのくれたことなかったよね」「そんなの欲しくない」


 陽太は応じた。


「何かいいかわからないから、友達に相談しただけ」「バンドのメンバーだから」「別に普通」「おれだって大学に通うために必死」「オンラインばっかで」「こっちでしか手に入らないものがいいと思った」


 文字のやりとりでは話が全然噛み合わなくて、通話に切り替えた。それでも、会話は一方通行がすれ違うだけだった。


「夏希とはなんでもないんだって」


「それ、どうやって信じればいいの?」


「ゴールデンウィークのことは、悪かったよ。だからおれだって、自粛自粛でも今度は思い切って帰ろうって……」


「なんでそうやって自分のことばっかりなの? わたしのことも少しくらい考えてくれてもいいじゃん。久し振りに会えるって楽しみにしてたのに。こんなのないよ。酷いよ。そっちから告白してきたくせに」


「考えてるって。おれ、千佳のこと好きだよ」


「卒業式の勢いの、ダメ元告白だったんでしょ。わたし、知ってるから」


 花恋経由で聞いた話だった。

 卒業式の日、陽太たち男子の友達数人の悪ノリで、ほとんどゲームみたいに、ダメ元で女子を選んで告白していた。成功したのは陽太だけだった。OKしたのはわたしだけだった。

 それを聞いても、わたしは陽太を信じることにした。卒業式の告白なんて夢みたいで、その夢に浮かされた自分を見つめるのが怖かったから。

 陽太は言った。


「確かにダメ元だったけど、好きでもない人にそんなこと言うわけないだろ。OKしてくれると思ってなかっただけで、おれの気持ちは本当だよ」


「だからそれ、どうやって信じればいいんだって言ってんの!」


 声を荒げたわたしに、陽太はしばらく黙っていた。

 言い過ぎた、と思った。後悔しても遅かった。口から出てしまった言葉に、送信取り消しボタンはなかった。

 陽太はぽつりと言った。


「千佳、おれのこと好きって言ってくれたこと、ないよな」


 それで通話は切れた。

 それから一週間。一日だって欠かしたことのない連絡が途絶えた。三日前に送った「帰省どうすんの」も、変わらず既読スルーのままだった。

 まだ中身が半分以上残っているペットボトルを肩掛けのバッグに入れて、長袖のジャケットを着て、ヘルメットを被ってグローブを着ける。後部シートに固定したもうひとつのヘルメットが、跨がるのに邪魔だった。

 道の駅川根温泉を出発して、また県道63号を北へ向かう。

 相変わらずの山道で、右も左もうっそうとした緑。トンネルを抜けたところで、県道77号への分岐へ向かい、またトンネルを抜ける。

 まばらな民家と茶畑に挟まれる。ヘルメットのクリアバイザーの先に、千頭まで22キロと書かれた標識が見えた。大井川鐵道の普通列車が走る本線と、急勾配を上るアプト式列車が走る井川線が接続するのが、千頭駅だ。

 道は川沿いに戻り、線路と併走する。下流よりも水量が増した大井川が、夏の日差しを目一杯受けてきらきらと輝いている。バイクで走り抜ける一瞬に見える、写真に収められない景色も、わたしは結構好きだったりする。

 頭上を、魚の背骨みたいに頼りない吊り橋が横切る。フェンス一枚隔てた向こうは線路。叫んでみる。こんな景色は、東京にはないだろ。ざまあみろ大森夏希。目に少し涙が滲む。

 大井川の蛇行に沿って、道は大きなカーブを繰り返す。線路との距離は、近づいたり離れたり。走っていて、古びた商店や民家が並び始めると、そこに鉄道駅があるとわかる。そしてまた、川沿いの蛇行を繰り返す山道に戻る。県道77号は、県道263号に、そして川を一度渡って西岸を走る国道362号になる。スマホナビに従って走っているだけだけど、併走に飽きてきたころに川向こうから見る線路は結構いい。

 国道362号は、区間によっては酷道なんて呼ばれているけど、大井川に沿っている区間は走りやすい。県道の区間より、車体を介して伝わる路面の凸凹が明らかに少なくて、クラッチ側の左手を離して肩を回してみたりする。

 小さな市街地を抜けたりトンネルを抜けたりうっかり狭い道に入りかけたり、大きな橋の上から併走する線路の鉄橋を眺めたり。

 そうして道の駅川根温泉を出発してから三〇分ほど。わたしとYZF-R25は、ロータリーも整備された大井川本線の終点にして、井川線の始発である、千頭駅を通り過ぎた。

 目的地まであとひと息。約束の列車の時間には、少し余裕を持って到着できそうだった。

 もしも陽太に会えたら、何を話せばいいんだろう。

 もしも陽太に会えなかったら。

 その時は、わたしたちは、もう終わりかもしれない。

 ナビにしているスマホの電波は、まだ繋がっている。

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