恋錠の駅で待ち合わせ
下村智恵理
第1話 起
金谷駅でハート型の南京錠を買おうとして、やっぱりやめてバイクに跨がった。
牧之原台地を抜ける海からの風を背中に受けても、心はやっぱり弾まない。ぎゅるるるる、というバイクの音も、心なしか沈んでいる。三番茶の収穫も終わってしまった茶畑を抜けて北へ走ると、道路は大井川鐵道の線路と併走する。合格駅。門出駅。去年の冬、東京の大学を受験する陽太と一緒に縁起物の硬券を買いに来た。頑張れよ、と背中を叩いたことを思い出す。暖かいはずの記憶なのに、今は苦味ばかりがよみがえる。こんなことなら、陽太の受験を、応援しなければよかった。大井川の水は今年も少なく、まるで荒野の中をささやかな小川が流れているようだった。
告白されたのは、卒業式の終わった後だった。わたしは地元で就職だから、東京へ行く陽太とは疎遠になってしまうなあ、なんて、ぼんやりと考えていたら、背中から呼び止められた。そしてばかみたいな大声で、「杉山千佳さん、好きです、つきあってください!」と言われた。
勢いに負けてOKした、と友達には言っている。でも本当は、わたしにとって、誰よりも気になる男子が、海野陽太だった。
本人同士はそんなに仲が良いわけじゃなかったけど、親同士は、同じ職場の同僚だとかでやけに仲が良かった。クラスの他大勢よりは近いけど、友達というには遠い。そんな微妙な距離感の陽太のことが、わたしにとって特別になったのは、二年の文化祭だった。陽太は軽音楽部で組んだバンドでライブステージに立っていて、実行委員のわたしは彼の背中をバックステージから眺めていた。友達はみんな背が高くて明るくてカッコいいギターボーカルか、アンニュイなベースの塩顔眼鏡くん推しだったけど、わたしはドラムの陽太に目を奪われた。今にして思えば、縁の下の力持ち的なところに共感していたのかもしれない。
そんな彼からの突然の告白。それも卒業式で。OK以外の返事なんて、できるわけがない。
中学からの親友の花恋は、「いきなり遠距離、ずっと遠距離とか、うちなら絶対無理、続かない」「千佳はすごいわ」と会う度に言う。そして会う度に、違う彼氏の話をする。高校を卒業して二年目で、早くもわたしたちの人生の方向性はずれ始めている。
最近できたお茶のテーマパークみたいなところを走り抜けると、まばらな民家と茶畑しかない道になる。次第次第に上り坂と急なカーブが増える。時々景色が開けても、見えるのはやっぱり大井川。「昔は『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』と言ったんだ」とお父さんが一〇〇回くらい言っていた。たぶん、みんなお茶の飲みすぎなんだと思う。
かつての暴れ川の西側に通る道を、北へ、北へ。ものすごいスピードで飛ばすスポーツカーに先を譲り、対向車線のバイクに左手を振る。
バイクの免許は、高校を卒業してすぐに取得した。実家だから、絶対に自分ひとりになる場所が欲しかったのがひとつ。車を買おうにも、駐車スペースがなかったし、お母さんが買い物に使ってるボロい軽を預けられそうで嫌だったのがひとつ。お父さんの会社が、バイクも作っていることがひとつ。東京へ進学して、今は地元に帰ってきて化粧品メーカーに就職した兄が軽しか乗ってなくて、近所の人とかにちょっと馬鹿にされてるのがひとつ。とにかくいろんな理由があったけど、お父さんが持って帰ってきたカタログの写真に一目惚れしたのが一番大きい。
初任給を頭金にローンを組んだ、マットシルバーに金色フォークの、ヤマハ・YZF-R25。お父さんに言わせれば「ニーゴーツインに倒立なんて豚に真珠」らしいけど、そんなの知ったことじゃない。
でも、お父さんはたまにいいことを言う。「バイクはひとりだ。それがいい。ひとりの時間をお金で買うなら、千佳も大人になったってことだ」と言っていた。最後だけはちょっと納得いかないけど、ひとりになれるのは、すごくいい。バイクを走らせている間は、LINEに既読をつけなくてもいい。嫌なお客様やうっとうしい上司のことも忘れられる。走っていなければ倒れてしまう不安定な乗り物を走らせることに必死になると、他の全部を頭から追い出せる。
職場にいる時や、友達や家族と一緒の時、ふと周りの全部が遠ざかって、世界に自分がひとりぼっちになったように感じることがある。わりと好きなその瞬間が、バイクに乗っているとずっと続くのだ。
跨がってスロットルを吹かすと、気分は空を飛ぶ。日帰りのツーリングを一回こなすたびに、自分が少したくましくなったような気がする。
でも、今日は例外だった。
左手に石垣に守られた茶畑、右に木立の道が、やがて左は擁壁に守られた木立、右も木立になる。ヘルメット越しに感じる空気の味が変わる。足下はあまり日が差さない道に特有の重い湿り気に包まれていて、左を見ればコンクリが全部苔に覆われている。ヘアピンよりは緩やかだけど、ブーメランよりはキツいカーブが連続する。最近覚えたブリッピングシフトダウンで進入すると、エンジン音が一段甲高くなる。そのうち、国道なのにセンターラインもなくなってしまう。
気が重いこの旅のきっかけは、二週間前の、陽太からのLINEだった。
休みの日の日帰りツーリングでいい景色に出会うと、写真を撮ってSNSに上げるようにしている。高校の時は、花恋と一緒に自撮りとかスタバの新作とかを頑張って上げていたけど、わたしにとってそれは、頑張ってやることだった。景色とか、ヘルメットとか、グローブとかの写真の方が、全然気負わずに載せられた。一回だけ、バイクに跨がっている自分の写真を上げると、変な風に広まってしまったのですぐに消した。
お盆の帰省の話をしている時に、陽太がこうLINEしてきたのだ。
「千佳が上げてた景色が見たい」
即、「どれだよ」と返した。すると、「なんか湖」「橋とか」「ジブリっぽいの」などなど、はっきりしない答えがどんどん返ってきて、「だからどれだよ」とわたしは応じた。
本栖湖。河口湖。まさか浜名湖。どれも外れで、すったもんだの末に、ようやくどこの話をしているかがわかった時には、最初のLINEから一時間以上経っていた。
大井川鐵道井川線、奥大井湖上駅だった。
確かに、湖を横切る橋があって、岬の先端にまるで水の上に浮いているような駅があって、幻想的で、ちょっとジブリっぽい。わたしがこれまでツーリングで行った先でも屈指の映えっぷりで、めっちゃいいねも多かった。
地元の島田からは車で一時間半くらい。駅だから鉄道も通っている。
そこからの相談はとんとん拍子だった。
陽太は大井川鐵道に乗って駅へ行く。帰省の荷物は宅配便で送ってしまう。わたしはバイクで迎えに行く。そして写真を上げた奥大井湖上駅の景色を一緒に見て、ふたり乗りで陽太の実家まで送っていく。陽太が新幹線と東海道本線、大井川鐵道の乗り継ぎを調べる間に、わたしはお父さんから昔使っていたというヘルメットと、荷掛ネットを借りる段取りをつける。
駅はスマホが圏外になるけど、列車は時刻表の通りに着くから、時間さえ守れば大丈夫。万が一バイクが故障したとか、緊急事態になったら、なるべく圏内のうちに連絡する。もしも時間通りにわたしが駅にいなかったら、陽太は反対方面の列車に乗って金谷まで戻る。陽太が間に合わないなら、遅くとも乗り換えの千頭駅で連絡する。
スマホが通じないところで待ち合わせなんて、生まれて初めてだった。しかも相手は、三ヶ月振りに会う陽太。
それだけでもどきどきするのに、陽太が検索で見つけてきたちょっと馬鹿馬鹿しいもののせいで、わたしはスマホを両手で持ったまま深呼吸を繰り返すことになった。
読んで字のごとく、恋の錠前。金谷駅などで販売している、ハート型の南京錠だった。
これやろうぜ、という陽太のLINEに「ばかじゃないの」とわたしは返した。でも、なんやかんやのやりとりの末に、わたしが行きがけに金谷駅で買っていくことになった。
その夜は、互いに「おやすみ」を交わしても、ぜんぜん眠れなかった。
陽太はマイペースな方で、自分から告白してきたくせに、あまり恋人同士っぽいことをしたがらない。わたしも、あんまりそうやって浮かれるのもダサいと感じてしまうタイプだから、陽太のマイペースがむしろ心地よかった。
でも、嫌ってわけじゃない。陽太の方からそうやって引っ張ってくれるなら、むしろめっちゃ嬉しい。
この大事件のことを花恋に話すと、「怪しいね」と夜のファミレスにおよそ似つかわしくないマスカラばっちりの目を光らせた。花恋が言うには、ウィズコロナはアイメイクが鍵、らしい。
「急に形あるものを欲しがるってのは、なんか怪しいね。東京に女でもできたのかもよ」
「は? なにそれ。浮気ってこと? なんで? 証拠あんの?」
わたしの剣幕に驚いたのか、花恋はごめんごめんと繰り返してから、「男ってのはみんなそうなんだって。浮気とかで他に気持ちが移ると、今の女をキープするためにそういうことすんの。愛の証拠固め的なやつ? みたいな」
「ないから。陽太はそんなことしない。そんな器用なやつじゃないし」
「わかんないよ。ほら、染まったのかもしれないじゃん。都会の絵の具ってやつに」
なにそれ、と訊いたわたしに、花恋はYoutubeの動画を見せた。橋本愛ちゃんが歌っている、THE FIRST TAKEの動画だった。
鼻歌を重ねる花恋から顔を背けていると、「冗談だって」「海野のことはうちも知ってるし、そんなやつじゃないって」と取り繕う。お前が言ったんだろ、と怒鳴ってやりたい気持ちを、わたしは深呼吸で堪えた。
それから二週間。
わたしは、金谷駅でハート型の南京錠を買うことなく、国道473号を北へとひた走っている。
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