第5話 もう一つの選択
篠崎がそこまで言ったとき、ちょうど担任の先生が階段を上がってくるところだった。
「おい篠崎、進路指導室で待っていろと言ったはずだぞ」初老の担任はそう言って、篠崎を促す。篠崎は担任にいつものような気のない返事をして、僕の方を一瞥すると、さっさと進路指導室の方に行ってしまった。
なんなんだ、あいつは。
僕は去っていく篠崎を睨んだ。
数々の暴言を吐き、僕の「要点早分かりノートファイル」をめちゃくちゃにしておきながら、よくあんな調子のいいことを言えたもんだ。僕がいつか先生に告げ口でもするんじゃないかと危惧して、先手を打って、謝ってきたのだろうか。案外小心なやつだな。
そう思いながらも、僕の胸はどきどきしていた。僕は、動揺しているのだろうか? それとも焦っているのか。
一体何に?
(その、悪かったなって)
篠崎の、心底困ったような声が、なかなか頭から離れない。
塾の時間が、いい頭の切り替えになった。
僕はいつものように自分の席に着席し、講師の授業を真剣に聞く。学校ではやらない、難関校受験者向けのハイレベル問題だ。
もう、今日のことは忘れよう。なかったことにするんだ。篠崎には極力関わらないようにして、僕はいままでどおりN高を目指し、勉強する。
そう、あまり認めたくはないが、僕は今まで篠崎という疎ましい存在に執着しすぎていた。今回のことは、僕の篠崎に対する恨みが作りだした、妄想だったんだ。地獄に続いている、という「開かずの間」に篠崎という対象を結びつけて、僕が生み出した妄想……。そうだ、そうなんだ。なーんだ、そうだったんだ!
僕はそうやって自分自身に言い聞かせ、思い込むことによって、今までどおりの日常に戻ろうとした。全てをリセットするのだ。しかし、塾のゴミ箱に、「要点早分かりノートファイル」の残骸を見つけ、それは出来なかった。
ノートファイルをめちゃくちゃにしたのは、同じ塾生の誰かだったのだ。
犯人にとくにこれといった心当たりはない。僕の成績のよさを妬む者の仕業だろうか。
実行したのはおそらく、昨日、塾に遅れた理由を、別室にいた講師に説明している最中だろう。僕以外のクラスの塾生はみんな、教室で指示された英文を訳していた。僕は鞄をずっとその教室の席に置きっぱなしにしていた。
篠崎じゃなかった。あいつが犯人ではなかった。
だけど。
だからといって、あいつか僕にとって邪魔な存在なのは変わらない。僕はああいう、へらへらした軽薄なやつが大嫌いなんだ。ああいう向上心がない人間は、最低だ。うん、それは変わらないぞ。
「ん? どうした、あまり進んでいないな」
講師が僕のプリントを覗きこみながら言う。僕ははっと我に返り、あわてて問題を解くスピードを上げた。
(あのとき、篠崎を地獄に落としていたら、僕は、最低の人間になっていただろうか)
(仮にあのとき篠崎を地獄に落としたとして、その先何事もなかったかのように僕は笑っていられるだろうか)
塾の帰り道。
あの、地獄が目の前に広がって、篠崎の背中を押した瞬間のことを、僕は思いだしていた。冬の風が、刺すように冷たい。
(うーん、結局、落としてないから分からないか)
あの時、篠崎という邪魔者を地獄に始末して、僕は安泰の毎日を送る。僕は確かに一度、それを望んでいた。心から望んでいた。どたんばになって、何かが僕を引きとめたのだ。それはなんだろう? 僕の良心? それとも僕が、地獄で苦しむことになる篠崎を可哀想に思ったから? どれも正解のようで、まったく的外れのような気もする。そうではなくて、もっと根本的な……。
風が、ごうと激しく吹いた。ああ寒い。今日は一段と冷える。僕はマフラーに顔をうずめた。
そんなことより、早く家に帰ろう。今日の復習と、明日の予習が待っている。いつものように。N高に受かるために。それが今の僕の目標なのだから。
篠崎を地獄に落とさなくて、きっとよかったんだ。こっちが正解。よし、もうそれでいい。正直なところ、後悔が全くないわけじゃないけれど、明日篠崎に会ったら、やっぱり落としとけばよかったとか思うのかもしれないけれど、きっと、これでよかったんだ。
明日、篠崎が僕に何か言ってきても、僕は無視して、N高を目指すまでさ。いや、たまには何かひとつくらい、言い返してやるか。
(HAPPY END)
地獄へ落ちろ ふさふさしっぽ @69903
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