第4話 もう一つの選択
「うわっ。なんだよ、これ。おい、マジかよ! 」
驚きと勢いで篠崎はドアを全開にした。目の前に地獄が広がる。篠崎は無防備な背中をさらしている。今、全力で中に押しこめば、篠崎は戻って来られない。地獄に閉じ込められる。チャンスは今しかない。
どうする?
いや、どうするとか迷ってる場合じゃない!
僕は肩で体当たりをするように、篠崎の背中をどんと押した。篠崎は驚いてつま先で踏ん張ったが、さらにもう一回、僕は篠崎に体当たりした。僕は無我夢中だった。失敗するわけにはいかない。篠崎が体勢を崩し、足が地獄へ一歩、入りそうになる。
地獄に足を踏み入れたら最後、こちらに戻っては来られない。串刺し、釜ゆで、引き裂き、永遠の苦しみが待っている。篠崎がいなくなれば、僕も安心して受験に専念できる。N高にきっと受かる。そうさ、すべてが上手くいく。上手くいく、
けど、
刹那、僕の体は勝手に動いていた。
僕は篠崎の制服をひっつかむと、全力でこちらに引き戻していた。
「入っちゃだめだ! 」
僕は叫んだ。叫んだと同時に全開になっていたドアが大きな音を立ててひとりでに閉った。ドアは完全に地獄を隠して、静かに施錠された。
施錠音の後、辺りは一瞬だけ、無音になった。その後、突然放課後のチャイムが鳴り、チャイムが鳴り響く中、僕と篠崎は「開かずの間」と呼ばれるドアの前に、呆然と並んで突っ立っていた。
そうしているうちに、僕は今起こったことをだんだんに理解していた。
たとえるならそのとき僕は、テスト終了間際に解答を書き変えて、あとで最初に書いた解答の方が合っていたんじゃないかと後悔しているときのような顔をしていただろう。もう後の祭りである。
一方、篠崎の方はしばらくのあいだ、あっけにとられ、口を半開きにした顔でドアの方を見ていた。が、ふいに僕の方に首だけ向けて、低く呟いた。
「お前、押したよな」
「ああ」
対して僕は篠崎の方を見ずに、短く答えた。
なんだかどうなってもいいような、投げやりな気持ちに僕はなっていたのだ。
一体なぜ僕は篠崎をすんでのところで引き戻したのだろう。僕は、さっきのさっきまで、篠崎を地獄に落とすことを考えていた。なのに。それなのに! 自分の行動に納得がいかない。まるで僕の中にいるもう一人の僕が、あの瞬間に勝手に動いてそうしたかのようだった。
ああ、あのまま力任せに押しこんでいたら、篠崎を地獄に落とせたのに。
僕は今になって、激しく後悔している。目の前の地獄の入口、今は本当にただのありきたりのドアになってしまっていた、を見つめる。きっとチャンスは永遠に失われた……なぜか僕にはそういう確信があった。
篠崎を引き戻した理由、強いて言えば、だめだ、と思ったんだ。篠崎が地獄へ足を踏み入れた瞬間、これはだめだと感じた。なにがだめなのか、理由は説明出来ないが、あの一瞬、僕の心は篠崎を地獄へ落とすことをよしとしなかった。
「おいガリ勉、自分で押しといて、入っちゃだめ、って一体なんだよ」
篠崎が立ちつくしている僕を睨む。うるさいな。僕だって分からないんだよ。
篠崎は、自分の方を見ようとしない僕に少し苛立っているようだった。しかし僕は篠崎と向き合うなんて、まっぴらごめんだった。ばつが悪い、とでもいうのだろうか。いや、今はなんだか疲れたというか、体中を張りめぐっていた緊張の糸が、見事に緩んで、ばらけてしまったような状態だった。僕はその場に崩れるように座り込んで、そのまま笑いだした。渇いた笑いだった。
「お前を、地獄に落としてやろうと思ったのに」知らず僕は口にだしていた。「僕は、失敗した……」
篠崎は急に笑いだした僕に「大丈夫かこいつ」という目を向けていたが、やがて口を開いた。
「今見たのって、信じらんねえけど、マジで信じらんねえけど、地獄ってやつだよな。地獄に続いてる開かずの間。噂は本当だったってわけだ。信じらんねえけど、確かに見たし。すげえ、グロかった。んで、お前はオレをあそこに閉じ込めようとしたわけだよな?」
「そうだ」僕の口からは別の誰かが発したかのように、勝手に言葉が漏れた。
「それって、やっぱ、オレが嫌いだからか」
「そうだ」
「なあ、N高に受かるのって、そんなに大事か」
篠崎の声が、ほんの少し、憐みを含んでいるような気がして、僕はカッとなった。立ち上がり、篠崎を正面から睨む。
「大事だよ。目標というものに縁がない、君にはわからないだろうけどね」
「だから、そういう言い方よせよ。オレにだって目標とか、あるし。まあ、それは今はどうでもいいんだけど。なあ、そんなにN高に入りたいのかよ」
「だって」
僕は唇を噛んだ。
「僕には勉強しか取り柄がない。運動音痴だし、体は弱いし、手先が器用だとかでもない」
事実だ。本心だ。それを今口にして、僕は意外にも、自分がN高にこだわる理由について自分で自分に納得していた。ああ、そうだったんだ。だから僕は勉強を頑張っているんだ。
「へえ、それが本音か」
篠崎がいつものように意地悪く笑って、唐突に言った。
「ガリ勉、今からなんか食いにいかねえか」
僕は面食らったが、「君は進路指導室に呼ばれてるんじゃないのか」つとめて無感情に、機械的に答えた。
「無視したって、問題ねえよ。それよか、なんか疲れたっていうか、なんか食いたくならねえ? ってか奢るぜ」
「僕は塾がある。それに奢ってもらう理由がないね」
「勉強勉強勉強。それだからぶっ倒れたりするんだよ」
え?
篠崎は、やれやれという顔をした。
「オレ、昨日も進路指導に呼ばれてたんだよ。そしたらこのドアの前で倒れてるお前発見してさ、進路指導フケて、保健室運んだんだぜ」
僕は篠崎をまじまじと見た。たしかに昨日倒れたあとの記憶はなく、気がついたら保健室にいて、隣には篠崎がいたわけだが。
とても信じられない。こいつが僕を運んだ……助けた、なんて。僕がテストで七十点以下を取るのと同じくらいあり得ない。なんだ、なぜこいつはそんなことを言う? なにか裏があるんじゃないのか。その意図はなんだ?
僕は疑うような目つきで、探るように言った。
「教室では派手に蹴り飛ばして罵倒していた相手を、ご丁寧に保健室へ運んでくれたっていうのかい? およそ信ぴょう性に欠けるね」
教室で背中を蹴飛ばされたことを思い出し、恨みの籠った目を向ける。篠崎はお構いなしに、
「普段気に食わないやつでも、倒れてたら助けるよ。お前だって、ぎりぎりのとこで、オレを助けたじゃねえか。ほんっと、ギリだったけど」
あっけらかんとした口調で言った。
僕はなんだか無性に面白くなくなって、篠崎に背を向けると、昇降口に向かおうとした。
「おい、待てよ」
篠崎は追いかけてきた。「オレ、昨日背中蹴っとばしたの、ちょっとやりすぎたかな、って思ってたんだぜ。いやあ、あんなに見事にすっ転ぶなんて、思わなくってよ。あんときは調子乗って、色々言ったけど、あとになって、思ったわけよ。その、悪かったなって」
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