第55話 新たな家族とアーティガル号
1713年11月。気温が低くなり木々の葉が落ち始めると、どんよりとした空が広がるようになる。人々は着こんで日増しに強くなる寒さから身を守っており、スチーブンソン家でも暖炉に火がともされた。
この日、月満ちてマリサは出産を迎える。産婆が呼ばれ、医師の妻であったハリエットが手助けをし、子を産むことがないまま前夫に先立たれていたイライザはマリサを精神的に支えていた。
「母さん、イライザ母さん……」
ベッドでマリサが汗をかきながらも下半身を生きながら猛獣に食われるような激しい陣痛に耐えている。イライザはそんなマリサの手と取り、体を支えている。
「大丈夫よ、心配ないわ」
そう言って励ますイライザの手を強く握りしめるマリサ。息も荒く予想できないことで不安定になっている。
「イライザ母さん……こ、怖い……」
「マリサ、愛しているわ……怖がらないで。みんながそばにいるわ……」
マリサを抱きしめたり頬にキスしたりとイライザも必死である。
「マリサ、もうすぐ、もうすぐよ。もうすぐ赤ちゃんに会えるわ!」
産婆の手伝いをしているハリエットはまるで自分が出産するかのように興奮気味だ。産婆とともに手をきれいに洗い、立ち会っている。
「いきみがでたらそのままいきんで」
産婆の声にマリサが下半身に向けていきむ。
ううーん、ううーん。
「頭が出たよ、もうすぐだよ。少し休憩してまたいきんで」
時間をおいてやってくるいきみの波に乗り、大きくいきむマリサ。
うーん。
その後しばらくして家中に産声が響く。
ほぎゃあー、ほぎゃあー。
「生まれたわよ。おめでとうマリサ!」
産湯に浸かった赤子はすぐに温かな毛布にくるまれ、マリサの胸元へ託される。
「女の子よ、本当におめでとう。ここまでよくがんばったわね……本当に」
ハリエットは感激で涙が止まらない。それはイライザも同じだ。
息を整えながらマリサはしわだらけの我が子を抱き目を閉じる。
(フレッド、生まれたよ……生まれたよ……あたしたちの大切な家族…… )
マリサがどんなに強い海賊であっても手に入れられなかった宝。ずっと血のつながりのない人々のかかわりの中で模索していた家族をマリサは手に入れた。その宝はマリサの胸の中で温かく柔らかくそしてか弱いものとして抱かれている。その姿にいとおしさを感じ、マリサは頬ずりをする。
その後の後産(胎盤の排出)など気づかないままマリサは力を出し切っていた。少し動くだけで頭がふらふらするのは体力が戻り切っていないせいだったが、それでも出産を見事に乗り切った。
自分の分身がここにいる。新たな家族がここにいる。今までの悲しみを打ち消すかのような喜びがここにある。
新たな家族を迎えたマリサはその後も食べるようにした。自分が食べなければ赤子を育てられないと知り、時間をかけて食事量を増やしていった。食事量が増えることで体を動かすこともでき、短い距離なら歩行も可能になった。
赤子の世話のやり方はハリエットがあれこれ教えてくれる。イライザは何着か孫のために服を縫ってくれた。
そしてマリサの出産は産婆からコーヒーハウスにニュースが入り、再びネタとして話題になった。それはバリイの店のイヴの耳にも入り、イヴがお祝いにやってきたほどだ。
「あのときはあたしを助けてくれたのにお礼が言えなくてごめん。イヴがあたしの懐妊に気付いてくれなかったらそのまま処刑されていただろう。本当に助けてくれてありがとう」
そう言うマリサはまだ体力が戻っておらず、部屋を移動するだけで精いっぱいである。
「お互い様だよ。アダムをまっとうな人間として助けてくれたんだからね。いい人がいたら結婚するのも悪くないね。つくづくそう思う」
イヴは少し寂しそうだ。
「エドワード・ティーチ船長はどうしたんだ?長く海軍寄りにいたのと陸の生活が長かったせいで噂も聞かないが」
「そうだね……エディは……あの人はもう来なくなった。きっと他に女ができたんだろうよ。まあ、船乗りはそんなもんだから覚悟をしていたがね。それよりも大事に育てなよ。あんたの家族だからさ」
「ありがとう……あたしがやっと手に入れた家族を大切にするよ」
そう言うとイヴは満足そうに笑った。
12月。屋敷に帰るイライザのためにオルソンが迎えに来る。
「やあマリサ、無事に出産おめでとう。すっかり母の顔になっているね。フレッドよりも先に顔を見ることができるなんて申し訳なく思えるほど赤子はかわいいものだ。名前をつけてあるのか?」
そう言ってマリサが抱いている赤子を覗き込む。
「心配かけたね、オルソン。実はまだ名前をつけていないんだ。フレッドが楽しみにしているだろうから、今のところ普通に赤ちゃんって呼んでいる。それにしてもイライザ母さんがいてくれて心強かった。ほんとにありがとう」
赤子は順調に成長している。マリサの体はまだ元のようにはならず機敏な動きもできないでいるが、それでも港までゆっくり散歩をするのが日課になっている。
「そうか、名付けの楽しみをフレッドに残しているのか。"青ザメ”の連中のことも気がかりだったろう?彼らのことを伝えたくてな。それにお前に報告があるのだよ」
「船が無くなって失業した連中に仕事を与えてくれたと聞いたよ。あたしは収監されたり船を撃沈されたりで自分のことも考えられなくなっていた。だから連中の仕事のことも考えが及ばなかった。彼らは今、働いているんだね」
「そうだとも。では、贈り物代わりだ。連中にあわせてやろう。港まできてくれ」
「港?どうしたの」
「まあいい。みればわかるよ」
そう言ってオルソンはマリサと二人の母を乗せ、港へ馬車を走らせた。
毎日体力回復のために時間をかけて歩く港までの道のりを馬車は軽やかに走っていく。高額な料金を取る馬車も自前で所有している貴族ならではであろう。
やがて波止場まで来ると馬車から降りたマリサ達はある物を目にする。建造間もない船だ。大きさはデイヴィージョーンズ号より大きめで、その船から連中の懐かしい声がした。
「オルソン、どうしたんだこれは」
驚いたのはマリサだけではない。ハリエットもである。ただ、イライザだけは屋敷でこの情報を知り得ていたと見えてマリサの隣で微笑んでいる。
「デイヴィージョーンズ号にかけてあった保険金が下りたのと、海賊稼業のお金を貯めていたのを使ったのだよ。そしてマリサのお金も入っている。お前は知らないだろうが、イライザはお前の取り分のお金を私経由で銀行に預けていた」
「船に保険をかけていたのか?あれは海賊船だったんだぞ」
マリサは驚きを隠せない。
「私は私掠船時代から”青ザメ”を擁護していた。つまり、私はスポンサーだったんだよ。だから船に商船として保険をかけていた。お金をつぎ込んで領地の財政が厳しくなったのはそのせいだが、まあ……これも私の趣味だ」
オルソンは自慢げである。そこへ船の方から賑やかな声がする。
「おう、マリサ。この船がいつでも待っているぜ。
「マリサがいねえと全くしまらねえや。マリサの船室はちゃんと作ってあるから安心しなよ」
左舷から何人もの連中がマリサに呼びかける。
「失業した連中にはこの船の建造を手伝ってもらっていた。さすがに自分たちが乗る船とあってとても熱心にやっていたよ。ところでお前に来てもらったのは他でもない、この船の名前を付けてもらうためだ」
「オルソンが名付けるのが筋だろう?」
「マリサは
オルソンの言葉にフフッと笑うマリサ。
「そうだね……前の船はデイヴィージョーンズ(海の怨霊)号だなんて名前を付けるから本当に沈んでしまった。そうならないようにマシな名前を付けるべきだね。そう、この船の名前はアーティガル……アーティガル号だ」
「アーティガル……女神アストレアから教育を受けた最強の騎士だな。最強の騎士の名前を持つ商船というのも悪くない。よし、ではアーティガル号としよう」
オルソンとマリサのやり取りを聞いて戸惑っているハリエット。
「スチーブンソンさん、ときどきマリサを借りますが、許可していただけますかな。我々はマリサを必要としています」
貴族様のオルソンに言われたら断ることもできないだろう。おろおろしながらハリエットは頷く。
「この子が乳を必要しなくなったらみんなと一緒に航海をする。それまで順調な航海であることを祈るよ」
「本当にそうだ。何せ、海賊共和国の連中が急速に力をのばしているからな」
オルソンは領地の仕事は息子に任せるようにしていた。オルソンによく似て自分の趣味に打ち込める息子たち。ともにマリサと教育を受け、遊び相手として仲良くした。
アーティガル号は使役たちが荷積みを行っている。
「船長が不在なのでリトル・ジョンが代行している。いまのところグリンクロス島への定期便だ。あさってには出帆するよ」
オルソンは商船としての位置づけを確約している。マリサの心は激しく揺さぶられた。
マリサ達に見送られ、イライザがオルソンとともにロンドン市を発つ。
(ありがとう、かあさん。ありがとうオルソン。あたしにとってとてもいい贈り物だ)
ハリエットはマリサがいずれ船に乗ることとなるのを覚悟する。船乗りとして長い間生きてきたのだから
そしてマリサはいつかアーティガル号に乗船するその日のために元の体力と機敏さを取り戻そうとしている。それは大きな目標であった。
商船であるならば海賊船や私掠船のように闘うことはないだろう。しかし……
マリサは部屋に長く置かれたままのサーベルを手にする。
(……くそっ……こんなに重たかったっけ)
ズシリとくるサーベルの重み。本当に自分はこれを振りまわしていたのかと信じられないぐらいだ。
マリサは長い間まともに食べることや動くこともできなかった。そのため、いたるところで肉が落ち、今でも痩せすぎである。
(絶対復活するんだ……絶対に。あたしはあたしだ。このままでは終わらない)
そう、強く思いを秘めた。
寒さが増しクリスマスを迎えた日、まるで贈り物をするかのようにスパロウ号が帰還する。
波止場ではニュースを聞きつけて乗員の家族や恋人が迎えに来ている。その中にハリエットとマリサもいた。
ボートに乗りこんで波止場へ向かってくる人々の中に懐かしい顔を見つける。
「フレッド!少しは腕をあげたかしら。こんな日に帰宅できるなんて素敵なクリスマスね」
ボートから降りたフレッドにすぐさまハリエットが飛びつく。愛する息子の帰還にキスの嵐だ。
少し距離を置いて二人を見つめるマリサ。この距離感は血のつながりのない他人に育てられたマリサの距離感である。
「ただいま、お母さん。……マリサは……」
そう言って少し離れて微笑んでいるマリサを見つめる。そしてその胸に抱かれている小さな赤子を見て、フレッドは感激のあまり体を震わせた。
「お帰り、フレッド。ほら、抱いてみて。女の子だったよ」
マリサは赤子をフレッドに託すと、フレッドは壊れ物を持つかのように慎重に抱いた。ほんのりと乳のにおいがし、手や足も小さくて愛らしい。うっすらと生えている髪の毛はフレッドと同じ栗毛だ。髪の毛も瞳の色もハリエットとフレッドを受け継いでいた。
「名前は?」
「名前の相談をしないままだったからまだつけていない。フレッドが名付けてくれたらいいよ」
生まれて1か月の間名前なしで育てられたことに驚くフレッドだったが、愛らしい娘のためにすぐに名付けた。
「この子はエリカ、困難を打ち破る『破る』という意味でありヒースの荒野に咲き誇る花、エリカだ」
イギリス北部に広がる不毛の荒れ地・ヒース。その荒れ地に秋には花を咲かせるエリカ。誰でも知っている野の花だ。
「たくましく育つ感じだね。素敵な名前だ。今晩は家族がそろってクリスマスを迎えられる。こんな日がくるとは思わなかった」
嬉しそうにエリカを抱くマリサ。そもそもクリスマスを祝うなんてオルソンの屋敷にいたころ以来だ。海賊稼業はそんなことに目を向けることもなく、昨年ようやくグリーン副長と言葉を交わしたぐらいだ。
そのまま家に向かうが歩みはマリサに合わせているのでゆっくりである。それでもあの死んだようなマリサと比べたら奇跡に近い。フレッドはそばでマリサの歩みを支えながら歩調を合わせた。
夕食はマリサとハリエットが作ったホットパイだ。フレッドが好きなものはおのずと力が入る。味ももちろんハリエットの味だ。マリサは義母であるハリエットとはうまくやっているつもりなのだが、どこかで遠慮をしていた。特に料理などはイライザから教わったものとは違うことがあった。それに戸惑いながらもそこは彼女に任せたほうが良いと思っていた。だからこそ言えることがある。
「フレッド、デイヴィージョーンズ号が沈められたのはフレッドも知っての通りだが、実は失業した連中のためにオルソンが新たな船を用意したんだ。保険金やら銀行に預けたお金など調達できたらしい。名前はアーティガル号。グリンクロス島との定期の商船として航海をしている。で……その船に……」
「アーティガル号に乗りたい……そうだよな。でもエリカをどうするんだ」
そう言ってため息をつくフレッド。
「今はこの子のために時間を費やすつもりだ。だけどスポンサーであり船の所有者であるオルソンから要請がきている。連中の統率のためにはあたしが必要らしい。商船だから襲撃をすることはないだろうが自衛は必要だ。それも理由だろう」
マリサの言葉にもじっと考え込んでいる。
「フレッド、あたしは
エリカを抱いてずっと話を聞いているハリエットはもう覚悟を決めている。
「航海の間、エリカは私が面倒を見るわ。定期便ならマリサがいつごろ帰ってくるか予想できるし、海賊船よりは安心するわ。マリサは海で育ったようなものだからあえてここの生活を押し付けないつもりよ」
そう言いながらも寂しい思いを隠せない。
「本当に大丈夫なのか。海は戦争が終結して外国船を襲撃する必要がなくなった私掠船が海賊(pirate)に移行している。”青ザメ”は解団したんだ。もう狙われる立場だぞ」
「これはあんたが海軍士官として働いているのと同じビジネスなんだ。あたしだって生半可な気持ちで言ってやしない。
マリサの顔が険しくなる。
「確かにあのとき君は『身を守ることはするかもしれない』と言った……まさか本当にその日がくるとは思わなかったよ。その根拠はあるのか」
困惑しているフレッドの前にマリサはある書面を差し出す。見覚えのある書面だ。
「ウオルター総督からもらった特別艤装許可証と海軍に協力する命令書だ。総督は任期が延びたからこの書面はまだ有効なんだよ」
「……わかった……僕が何を言っても君は船に乗るだろうな。だけど君は海賊共和国ナッソーで注目されているんだ。くれぐれも危ないことはしないでくれ。母を心配させないでくれ」
「わがままを聞いてくれてありがとう。船は海賊の餌にならないため、自衛(self-defense)が必要だ。新しい船アーティガル号はすでにこの書面に基づいて艤装がなされているが海賊化はしない。それを誓うよ」
マリサの表情はようやく和らいだ。そこへエリカがぐずりだし、エリカを抱き直すと授乳を始める。
マリサはもうフレッドが知ってるマリサではなかった。この落ち着いた強さは母となって得られたものだろう。
16世紀後半に清教徒によるクリスマス批判が行われたり1647年にイギリス議会でクリスマスが禁じられたりしていたが、1660年にイギリスは君主制が復活し、クリスマスが公に認められることとなった。以降、市民の力が強くなり、市民独自でクリスマスが祝われた。
家族4人で迎えるクリスマス。特に贅沢をしているわけではないが、静かで慎ましいクリスマスだ。そばでは産着の上に大きな布でぐるぐる巻きにされたエリカが小さなベッドの上で眠っている。(長らく西洋では、衛生上の問題や赤ちゃんを危険から守るために布でぐるぐる巻きにするスウォドリングという育児法がとられていた。後にジャン・ジャック・ルソーが『エミール』の中でこの育児法を否定し、スウォドリングは衰退していく)この日、マリサの目標に向けて大きく舵がとられた。
エリカの子育てとマリサの復帰に向けたトレーニングが続く。その中でもマリサは家事に手を抜くことはなかった。ハリエットにマリサが知らなかった料理を教わったり、ともに裁縫やレース編みを楽しんだりしていた。その胸にはアーティガル号を描きながら……
海賊であったマリサの新たな航海は商船であり、特別艤装船でもあるアーティガル号の航海だ。
こうして時代遅れの海賊は時代とともに生き方を変える。
そして次のステージへ舵がきられていったのだった。
マリサ・時代遅れの海賊やってます 海崎じゅごん @leaf0428
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