第9話 夢小説として
◆
山崎夏菜という名前をウェブで検索すると、今ではもう、彼女が地下アイドルをやっていたことなんて、どこにも書かれちゃいない。
まるで僕が見た夢、妄想みたいだった。
今では彼女は立派なアイドルとしてステージに立って、多くに人に幸せを届けている。
幸せを届けているなんて書くと逆に曖昧になってしまうけど、チャンチャンも、他のメンバーも、その姿や声、歌、ダンスで、本当に僕たちの心を震わせ、幸せにさせてくれる。少なくとも僕は幸せを感じていた。束の間でも、幻でも、幸せは幸せだ。
僕がこの夢小説を書いた時、誰に見せるべきか、すごく悩んだ。
仲のいい人たちはきっと僕がそんな風にアイドルに熱を上げているとは知らなかっただろうし、僕もそんなことをおくびにも出さずにいた。
かといって僕を知らない人に、いきなりこんな小説を見せたところで、困惑するだろうし、「こいつは何がしたいんだ?」となっただろう。
だから僕は結局、この原稿を何年も寝かせることになった。
大学生活はつつがなく進んだと言える。ただ、友人らしい友人は作れず、最終的に僕のそばに残った人は皆無に近い。ゼミでも僕はうまく馴染めず、馴染もうとすることも諦めてしまった。
ただ作業のように日々を過ごした。
結局、僕が僕らしくいられる時間というのは、あの狭苦しい地下のライブハウスにいる時だった、と今ならわかる。
有名ではない女の子が、ただ精一杯にパフォーマンスをして、何者でもないファンが、声を上げ、手を振り、叫ぶだけの、熱くて騒々しい箱庭。
パソコンの調子が悪くなり、その中身を整理している時には、僕はとっくに大学を卒業し、社会人として仕事に追われる生活に入っていた。慣れない仕事と人間関係、社会人としての礼儀と、同時に社会人としての羽目の外し方。
学生時代より金銭的には余裕があるはずなのに、自由になる時間は少しも手元になくて、心は常に強く強く締め付けられていた。
パソコンの中には、大学の講義で書いたレポート、サークルに発表したいい加減な小説、そういうものが大量に封じ込められていた。
その中の一つに、この夢小説があった。
チャンチャンのことを忘れなかったけれど、僕はもうずっと、彼女の姿を見ていない。
今でも彼女はステージにいるのに、僕は実際に客席にはいない。
原稿を一通り読んでから、思い切って、僕はその翌日、有給休暇の申請をした。
チャンチャンの所属するアイドルグループは、休みを取ったその日、川崎にあるライブハウスで公演をする。ライブハウスと言っても、前とは規模が違う。いつの間にかそんな大きな会場のステージに立てるまでになったのだ。
ライブ前日の夜、深夜に残業を終えて帰宅してから、僕はもう一度、小説を読み直していた。
何もかもが遠い時間、遠い場所になっている。
僕は、あの時間と場所に戻れるだろうか。
パソコンの画面にノイズが走る。
僕はそっとシャットダウンして、席を立った。
夢は現実に戻る。
◆
僕の作った冊子を手に、大和明桜が言う。
「私、名前だけしか出てないけど?」
思わず笑っていた。
「アオちゃんなら、許してくれるかな、と思って。これ、夢小説なんだから」
アオちゃんが僕の肩を叩き、そこで僕は言った。
「次はアオちゃんが主人公かもね」
(了)
青年は手の届かないアイドルで夢小説を書くか 和泉茉樹 @idumimaki
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