第8話 太陽の向こう側
◆
的場さんがジドッとした目でこちらを見ている。
「いや、そんな風に無言で責められても」
耐えきれずにそう言うと、まあねぇ、と的場さんが顔をしかめている。
「なんでこんなに女の子にモテる設定にしたわけ?」
「そういうテイストが夢小説だから、だけど」
「村上春樹とか、読んでいる口だよね、きみは」
ああ、なるほど、と思ってしまう辺り、僕の本心を狙った的場さんの的確な言葉選びだ。
「反論しないの?」
「いえ、何も言えません、裁判官」
「サークルの中で読むだけだから、まぁ、別にいいんだけど、ちょっと周りから変な目で見られちゃうんじゃない?」
「みんな僕のことを知っているし、ネタとして提出する、ということにしておくよ」
僕の言葉に、ネタにはなるかもね、と的場さんもやっと笑った。
時間帯はすでに夕日が差す頃合いで、教室は真っ赤に染まっている。
試験期間も終わり、僕はサークルの他の面々と一緒に食堂で話をしていたところ、解散の後、さりげなく的場さんにここへ引っ張ってこられたところだった。
何か色っぽいことでもあるのか、と思ったら、ちょっと小説の直しをしよう、と的場さんは言ったのだった。はっきり言って、僕は自分の妄想を殴りつけたいところだった。
的場さんは三十分ほど、僕の夢小説を徹底的にこきおろして、それから僕をちょっとだけ軽蔑し、一応、最後には許してくれたようだった。
「じゃ、何か夕飯でも食べる?」
食堂では唐揚げとかポテトとか、そういうものは食べたけど、あとは飲み物を飲んだだけだった。
時間的にもちょっとお腹が空いてきている。
「何、食べようか」
僕の方からそう確認すると、何でもいいよー、と的場さんは笑っている。
「じゃ、スタミナ丼で」
大学のそばにある、実に奇妙な丼物を出す店の名前を挙げると、そこはさすがに的場さんも怪訝な顔になった。僕は思わず笑いながら、冗談だよ、と彼女の頭を叩いて席を立った。
ちょっとした悪ふざけだ。
的場さんが何か言い返す、と予想していたけど、しかし反応がない。
見ると的場さんは、こちらを見ているけど、視線がぶつかるとすぐに外した。というか、顔が真っ赤になっている。
何か変なこと、したかな。
じっと見ていると、チラチラと視線を合わせたり外したりしていた的場さんがやっとという感じで言った。
「頭、叩くの、なし」
……そんなことくらいで、照れているのか。
僕としてもどう応じていいかすぐには判断がつきかねるけど、この時は思わず、手が伸びていた。
的場さんの頭に手を置き、グリグリと力を込めると、今度こそ的場さんがその手を振り払って「なし! なし! なし!」と大声で言った。うわ、声が元から大きいから、壁が震えるような声量だ。
「ごめん、ごめん。まあ、喫茶店で何か食べよう。ナポリタンか、カルボナーラでも」
大学のそばにはいくつか喫茶店があって、その中の一つで、パスタが充実しているところがある。内装も女子がいてもおかしくないし、ちょうどいいだろう。
まだ怒っているようなそぶりだけど、的場さんの表情はよく知っているので、本気で怒ってはいないようだ。
二人で建物の外に出ると、遠くの稜線に太陽が沈んでいくところだった。
何気なく僕はそちらを見ていて、ぼんやりしてしまった。
もう大学一年生の夏が来ている。あっという間に、この時間も過ぎ去って、僕はどこへ流れ着くのだろう。
行こ、と隣で声がして、手が引っ張られた。
小さな的場さんの手が僕の手を取り、そして引っ張っていく。
夕日から遠ざかるように。
未来の不安から遠ざかるように。
的場さんの一歩一歩はどこか確かな足取りで、力強さのようなものを感じた。
手の温かさも、まるで太陽そのものみたいで、日が沈む世界と一緒に冷えていこうとした僕を、じんわりと温めていくようだった。
夜が来る。時間も流れ去っていく。
でもこのすぐ目の前にいる女の子は、何よりもリアルで、僕をもリアルにしてくれている気がした。
この瞬間が過去になるとしても、未来の的場さんは僕の輪郭を浮き上がらせる太陽になるんだろう。
僕たちは喫茶店でそれぞれにスパゲティを食べ、お茶を飲み、今度こそ本当に日が沈んで闇に包まれた通りに出た。街灯が点り、通りに面した店舗からの光が漏れて、夜のはずが眠っているようではない。
「電車があるから」
的場さんがそう言って歩き出すのに、「駅まで送るよ」と僕も足を踏み出した。
彼女は埼玉から通っているので、時間の余裕はないし、終電で帰るような不良少女でもない。
根っからの真面目な、正直な女の子なのだ。
最寄駅の改札の前で、僕は的場さんに手を振った。
その時、的場さんが明るい笑顔で、口元を微かに動かした。声はしない。声に出していたら声が大きい彼女のことだから、はっきり聞こえる距離だったけど、唇だけの動きだった。
僕はその動きに瞬間的に集中したけど、予想外だったので大きく出遅れて、まったく読み取れなかった。
ありがと、だろうか。
ホームから電車が到着するアナウンスが聞こえていたから、的場さんはもう振り返ることはなく、駆け足でエレベーターの方に消えていった。
帰り道、僕が一人きりで等間隔で並ぶ街灯の下を歩いていると、ポケットでスマートフォンが震えた。
足を止めて取り出してみると、的場さんからのメールだった。
文面は、「わかった?」だった。
意味深なメッセージに、僕は「一応ね」と嘘を返した。
なんで僕は、嘘の返事をしたんだろう。
あの時、的場さんが何を伝えたかったのか、それを知るのが、怖かったのかもしれない。
少しすると的場さんから返信があった。
「なら、いいんだ」
それだけのやっぱり短いメッセージ。
僕は街灯の真下の光の中で、じっとそのスマートフォンの画面を見ていた。
彼女が言いたかったことを知るべきだったのか、それともこうやってすれ違うべきだったのか、それはわからないままだ。
指が動き、僕はスマートフォンの画面にメッセージを打ち込んでいった。
(続く)
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