第7話 体温がちょっと上がるだけ
◆
ネタにはなりそうですよね、と岡田さんが僕に背中を向けたまま言う。
僕は作ったばかりの野菜炒めを大皿に載せて、小さなローテーブルの上に置いたところだ。
場所は岡田さんのワンルームで、そこはさすがに女の子の部屋だけあって、すっきりと片付いている。ちょっとだけ甘い匂いもするけど、それよりもどこか化学的な匂いがするのは、画材が大量にあるからだ。
岡田さんはパソコンで絵を描くことが最近は多いようだけど、手書きでも色々と描く。
今、彼女は僕がネットを介して送った小説を読んでいるところだった。
僕が呼ばれているのは、同人誌の編集の追い込みで、ちょっと料理でも作りに来てよ、と言われたからだった。念入りにスーパーの場所と、部屋の冷蔵庫などなどにある食材の在庫も送られてきていた。
もっとも、冷蔵庫にあったのはもやしがふた袋だけで、あとはツナの缶詰が二つとか、地味で、現実的なものしか部屋にはなかった。
「できたよ。熱いうちに食べれば」
くるっと椅子の向きを変えて、岡田さんは少し首を傾げる。
「愛梨ちゃんとどこへ行くつもりなの? この物語の主人公は」
ああ、そう、と応じながら、素早く考えた。
実は大して考えていないのだ。
「埼玉かな」
「埼玉? なんで?」
「秩父かどこかで、アニメの聖地がなかったっけ。埼玉なら近いし、日帰りで行けなくはない」
ほとんど苦し紛れの返答だったけど、それを聞いた岡田さんが席を立つと、僕の前で膝を折った。
「その発想は悪くない。悪くないよ!」
バシッと、僕の腕を叩いて「食べよ!」と箸を手に取る。僕は素早く立ち上がって、茶碗にご飯を盛って彼女の前に置いた。米はこの家には少しもなかったし、炊飯器はあったものの長く使われていないようだった、だけどそれは、取り立てて話題にする必要もない。
僕も適当な器にご飯を盛り付けて彼女の前に座り、食べ始めた。
さっきの僕の言葉が何かを刺激したようで、岡田さんはひたすら秩父を舞台にしたアニメについて話し続けている。聞いているうちに、結構、行ってみたら楽しいかもな、と思う僕がいる。
岡田さんはイラストを描くだけあって、漫画はもとより、アニメにも精通している。僕が追いつけないような知識も幾つかあった。
まくし立てるようにしゃべりながらパクパクと食事をして、野菜炒めはあっという間になくなった。僕は食事の途中で味噌汁を出していないことに気づいて、席を立って台所でコンロの前に立っていたけど、その間も岡田さんは口を閉じなかった。
「ねぇ、今の作業が終わったら、本当に秩父に行ってみない?」
湯気をあげる味噌汁に息を吹きかける途中で、岡田さんがそう言った。
「夏休みにってこと?」
すでに大学では期末が迫っていて、あとちょっとすると僕も岡田さんも試験やレポートに追われて、作業というものにも時間を充てられなくなるんじゃないか、と想像した。
ただ、全てが片付けば、もう夏休みだ。
「ねぇ、あのさぁ」
味噌汁を途中まで飲み、岡田さんがニコニコと目尻を下げる。
「日帰りと言わず、泊まりで行かない?」
危うく僕は味噌汁をぶちまけそうになった。かろうじてお椀を取り落とさずに済んだ。
「泊まりで……?」
「そうすればあっちへ行ったりこっちへ行ったり、忙しくないし、念入りに確認できるでしょ? ここがアニメで描かれた場所で、こういうカットでとか、そういう風に念入りに見てみたいな」
不埒なことを考えた自分が恥ずかしかったので、うん、そう、と僕は頷き返した。
しかし、泊りかぁ。
それは緊張するなぁ。僕はこれでも一人の男で、未熟とはいえ、ちゃんと人間的な本能を持っているわけで。
そういうことを岡田さんは気にしないのかな。
何かこれは、地雷というか、キルゾーンに踏み込んでいるのではないかな、僕が。
結局、僕が何かを言う時間を与えず、岡田さんの中では旅行計画の細部だけが決まっていったようだった。どこへ行くのに何時間、などと決めていくのに、どこに泊まるかとか、そういうことは考えないらしい。
こういう一直線なところは、この子の可愛らしいところだ。
僕は自分の中にある妄想を全て忘れることにして、岡田さんの議論に参加して、最終的には適当な紙にタイムスケジュールがいっぱいに記入されたのだった。
それから時計を見た岡田さんは「話しすぎちゃった」とパソコンの前へ戻っていった。僕は食器を持って台所へ行って素早く洗って、すすいで、布巾で拭って棚に戻した。
「じゃ、帰るから。作業、頑張って」
パソコンに向かって作業している岡田さんに声をかけると「ありがとうね」とこちらも振り向かずに返事があった。
僕が背中を向けようとすると、その肩が揺れて、座ったままぐっと岡田さんが振り返ったので、僕は動きを止めた。
「あのさ」
「ん? 何?」
ちょっと言い淀んだようだけど、岡田さんははっきり言った。
「泊まりでも、変なことはなしですよ」
……参ったな、どうも。
了解、と返事をすると、岡田さんは楽しそうに笑い、背中を向けた。
今度こそ僕も背中を向けて、玄関で靴を履いてドアを開けた。
「でも別にいいんです、私は」
後ろ手にドアを閉めるその時、そんな声が聞こえて、僕は勢いよく振り返ったけど、見えたのは岡田さんの背中だけだった。
バタン、とドアが閉まった。
これはいったい、どうすればいいんだろう。
しばらくドアを見てから、僕は溜息を吐き、一歩二歩とぎこちなく移動した。
別にいい? それって、どういうことだろう……。
急に胸がバクバクしだしたのは、駅のホームで電車を待っている時で、今すぐにでも岡田さんに真意を聞きたかったけど、もちろん、それはできない。勇気が出ない。
本当に、参ったな。
(続く)
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