水夏透
棗颯介
水夏透
「お兄さん、
「ちょっと、役所の仕事で調べなくちゃいけないことがあるんです」
愛知県の職員として働いている俺が、管轄地である離島の詩乃島の調査を命じられたのは二日前のことだった。上司に聞いたところによると、なんでも島の定期連絡の担当者ともう二週間以上連絡がつかないらしい。
定期連絡の窓口担当者がいるのならそっちで勝手に調べてくれよと言いたいところだったが、今のご時世に望んで遠方の島に行きたがるようなヤツはそう多くなかった。まだ勤め始めて一年も経たない新人に押し付けるには都合がよかったんだろう。
「まぁ漁のついでに送り迎えするくらいならいいけどね」
「ありがとうございます。連絡船もどうやら最近動いてないらしいですね」
「あぁ、言われてみればそうだねぇ。こんな世の中だから、物騒なことが起こってなきゃいいけど」
そう言いながら船室で漁船の舵を取っている地元の漁師の口元には、漁のお供にはあまりにも似つかわしくないマスクが装着されていた。かく言う俺もそうだが。普通の布マスクとはちがう、病院で患者が取り付けられる呼吸器にも似たものだ。これがないと安心して外出することもままならない。
———まるで世紀末だな。
「お、見えてきたよお兄さん。あれあれ」
漁師がそう言って指さす先には、水平線の向こうになだらかな曲線を描く島の輪郭が見て取れた。
あれが詩乃島。生まれてこの方ずっと本土の街で生活してきたが、見たことも行ったこともない場所だった。
「とりあえず、島の船着き場で下ろすよ。電話くれたらまた迎えに来るから」
「重ね重ね、ありがとうございます」
船着き場で降ろしてもらった後、漁師の漁船はあっという間に海の向こうに去っていって見えなくなった。船の姿が完全に見えなくなったのを確認して、改めて俺は振り返る。
「ここが詩乃島か」
船着き場には『ようこそ詩乃島へ!』と書かれたアーチがあり、潮風のせいか少し老朽化していたが、それがかえって離島というノスタルジーをかき立てていた。船着き場の少し先には水産物の加工でもしているのか、島の漁師たちが普段仕事をしていると思われる工場がある。そして視線を少し遠くにやれば、小高い山が悠然と佇んでいる。木々の緑が夏の日差しに照らされて実に鮮やかだった。
青い空と青い海、照り付ける夏の日差しに心地よい海風も相まって、夏休みに親戚が住んでいる島に遊びにでも来た気分だった。実際には俺の夏季休暇はもう少し先の予定なのだが。
———人気は、ないな。
まだ船着き場に降りただけの段階ではあるが、全くと言っていいほど人の気配が感じられない。田舎の離島でしかもこのご時世だ。外を出歩く人が少ないのも仕方ないとは思う。事前に聞いた話ではこの島に住んでいる島民人口はおよそ千人程度とのことだ。
とはいえ、さすがに不気味すぎる。船着き場のアーチを超えた先には島の観光案内所がある。ひとまずそこに入って島の人に話を聞こうと思ったのだが。
「っ……………」
出迎えてくれたのは島の観光案内人などではなく、血まみれになって倒れ伏す人だった何か。苦痛に歪んだ死の間際の表情が顔面にそのまま張り付いたままだ。見れば案内所の担当者だったらしい死体のほかにも、島の住民と思われる老人や女子供の遺体もそこかしこに散見された。
間違いなく、『ジャックウイルス』だった。
「おや。珍しくお客さんが来たと思ったら、誰だいお兄さん?」
死体が散乱する場に唐突に響いた声に一瞬背筋を強張らせた。声の主はこの建物の出入り口、船着き場とは反対の島の内陸側に面した扉の前にいた。
———子供?
誰がどう見ても、子供だった。長めの髪をポニーテールにしていてややつり目の、背丈の低さに似合わずどこかませた印象が拭えない少女だった。小学生、いや、中学生くらいだろうか。
だがそれ以上に目を引いたのは、その子が口元を隠さず素顔でいたことだった。このご時世に関わらず。
「キミ、この島の子かい?」
「そうだけど」
「この島に、大人の人は?」
「多分いない。みんなそこのヤツらと同じように死んでるよ」
「死んでるよって……じゃあ、無事なのはキミだけ?」
「まぁ、そうなるかな」
もしかしたらとは思っていたが、やはりそうだったか。
「分かった。本土の警察とお医者さんを呼ぶから、キミはすぐお兄さんと一緒に島を出よう」
「どうしてだい?」
少女は不思議そうに首を傾げた。少女が何を疑問に思ったのかがわからなくて、俺は一瞬言葉を詰まらせる。
「せっかく邪魔なやつらがいなくなって快適に暮らしてたのに、どうしてボクがわざわざ島を出ていかなくちゃいけないんだい?」
「邪魔なやつら?」
「ここに転がってるやつらさ」
そう言って少女は近くに倒れ伏していた遺体の一つを乱暴に足蹴にし、勢いよく顔面を蹴り飛ばした。
「なっ、何するんだ!遺体に乱暴しちゃいけないだろ!!」
「いいんだよ。こんなやつら、死を悼む価値もない」
少女は明確な敵意と怒りの籠もった目で遺体を睨みつけた。この少女に何があったのかは知らないが、島の住民たちと確執があったらしい。
だがそんなことは今は関係ない。小さな島とはいえ、島民約千人が壊滅。可及的速やかに本土に事の次第を報告し、適切に処置してもらう必要があった。
懐のポケットから携帯を取り出そうと手を差し込む。
ない。触り慣れた端末の感触がそこにはなかった。
「ちょいと失礼」
「っ!?」
見ると、少女がその手に俺の携帯を握っていた。いつの間にくすねたんだ。
返せ、と一声発するよりも先に、少女が携帯を地面に落としてそれを勢いよく踏み抜いた。踏みつけた。何度も何度も。携帯の外装がひび割れ、あっという間に破片が辺りに散乱する。ものの数秒で携帯はお釈迦になった。
「な、なんてことするんだ!」
こちらの怒声を無視して、少女はニッコリと笑う。屈託のない笑みは夏の日の光のように眩しくて、それがかえってこちらの恐怖心を煽った。
「ようこそ、詩乃島改め“死の島”へ」
***
死のウイルスが世界に蔓延したのは、今から半年ほど前のことだった。殺傷力が極めて高いそのウイルスは、僅か半年足らずで世界人口の四十パーセントを死に至らしめたと言われている。潜伏期間が極端に短く、一度感染するとたった数十秒で発病。全身から血を流して絶命する。
その殺意の高さと感染者の死に様がイギリスに実在した連続殺人鬼・切り裂きジャックを思わせることから『ジャックウイルス』と命名された。
治療法は、現在も見つかっていない。分かっているのは、ウイルスは光を受けて繁殖するが、暗闇で鎮静化するということくらいだ。
***
「あ、
「なぁ、
「
「なんで俺は今キミに連れられてこんなところを歩いているのかな」
「なんでって、自分の家に来たお客さんを無下に扱うわけにはいかないだろう?」
どういうわけか、俺はいま志希に連れられて島を案内されていた。確かにこの島そのものは実に美しい場所だ。特にこの夏の季節には、青い空と青い海、肌に感じる海風が心地いい。
その景観の中に、島民の死体さえなければ。
既に志希から聞いてはいたが、島の住民が彼女以外全員死んだというのは本当だった。島の至る所、道路も店も林も海岸もお構いなしに血まみれの死体が横たわっている。マスクをしているからあまり気にならないが、きっと潮の香りと一緒に遺体の腐敗した臭いだって漂っているだろう。正直言って、とても観光など楽しめる余裕はなかった。
そんな状況でも平然と呼吸をし、こちらににこやかな笑みを送ってくる透乃志希と名乗る十四歳の少女は空恐ろしい子供だと思った。普通、自分が住んでいる町で住民が死んでいれば、動揺するなり恐怖に慄くなり助けを求めるなりするのが普通の感性だろう。
この子は普通じゃない。それだけが確かな真実だった。
「何度も言っているけど、俺は観光で来たわけでもキミの家にお邪魔しに来たわけでもない。役所の仕事でこの島に調査に来たって言ってるだろ?本当ならこの状況、すぐに然るべきところに報告して適切に取り計らってもらわなくちゃいけないんだ」
「まぁそう言わないでさ、水瀬くん。ボクもしばらく一人きりだったもんだから、話し相手が欲しいと思ってたんだよ」
一応俺は彼女より六つ年上の二十歳なんだが、どうしてか彼女は年上の俺を君付けで呼ぶ。別にいいっちゃいいんだが、どことなく会話の主導権を握られてしまっている気がした。
「しばらくって、それはその、島の他の人たちがこうなってから?」
「そう」
確か上司の話では、島の担当者と連絡がつかなくなって二週間だと言っていた。
「どうしてすぐに本土に連絡しなかったんだ?まさかこの島に電話がないなんて言わないよな?」
「だからさっきも言ったろ?せっかく一人の自由を手に入れたのに、どうしてみすみすそれを手放すような真似をしなくちゃいけないんだい?」
「一人の自由っていう割には、話し相手は欲しいんだな」
「年頃の乙女心は複雑なんだよ。あ、もしかして水瀬くんって」
「なに?」
「いや、なんでもないよ」
そう言って志希はクスクスと笑った。
ちなみに俺は、異性との交際経験はない。
「一応言っておくけど、島の発電所とかはもう止まってるし、固定電話は繋がらないよ。この島じゃわざわざ携帯持ってる人もほとんどいないだろうし。まぁもう死んじゃってるんだけどね」
「つまり、外部との連絡手段はないと」
「そうなるね」
「はぁぁぁぁ」
人目も憚らず大きくため息をつく。口元につけたマスクの内側に湿気がこもることも厭わずに。
ふと、志希が不思議そうにこっちを見ている視線に気づいた。
「そういえば、どうしてみんなそんなものを付けているんだい?」
「そんなもの?これのことか?」
俺は口元のマスクを指さす。
「どうしてって、感染対策だよ。ジャックウイルスを知らないわけじゃないだろ?」
「知らない」
「………今、なんて?」
「だから知らないって。なんだいその、なんとかウイルスって」
「———この島は情報統制でも敷かれてたのか?」
いや、そんなはずはないと首を横に振る。実際、島の中で倒れ伏している遺体のほとんどはしっかりとマスクを装着していた。
実際、マスクをつけて呼吸感染の確率を低減したとしても、かかるときはかかる。呼吸以外にも皮膚からウイルスを取り込む症例だってあるのだから。
「暑くないの?そんなもの付けて」
「暑いに決まってるだろ。というか、逆になんでキミはマスクもなしで外をほっつき歩いてるんだ。死にたいのか?」
「そんなもの付けて夏空の下を歩き回ってる方が死に近い気がするけどなぁ。というか、ボクはずっとマスクなんか付けずに外を歩き回ってたけど」
いろいろと合点のいかないことが多すぎる。
島民が全滅しているというのになぜかそれを外部に漏らそうとしないこと。
殺人ウイルスが蔓延しているこのご時世にマスクなしで外をほっつき歩いて、感染せずに生き延びている少女。
順番に、紐解いていく必要があった。
「あー、志希ちゃん」
「だから志希でいいよ。なんだい?」
「キミはどうして、島の人たちがああなったのに、平然としていられるんだい?」
「———あいつらが、ボクを疎んでいたからだよ」
「疎んでいた?」
先程まで夏の日差しのように無垢で眩しい明るさを宿していた志希の瞳に、剣呑な色が浮かんだ。先刻も島民の遺体に対して、“こんなやつら”とか“邪魔なやつら”だとか言っていたが、何か田舎特有の差別でもあったりしたのか?
「良かったら聞かせてくれないか?何があったんだ?」
職分を超える個人的な質問になっている自覚はあったが、もうここまでくるとこの志希という少女もこの島の惨劇と無関係ではないだろう。島民が死んだ原因は間違いなくウイルスだろうが、彼女がそれを外部に隠そうとする事情があるのなら、知っておく必要があると思った。
志希は、海沿いに続くコンクリートで舗装された小奇麗な道を足早に進んでいき、やがてある地点で立ち止まった。
「ここ」
「ここ?」
彼女が指したのは、島の海を一望できる道沿いに建てられた幾何学的なデザインのオブジェクトだった。傍には何やら『恋人の聖地』などと書かれた石碑がある。どうやら、この島の観光名所のような場所らしかった。
「ボクはここに捨てられたんだ」
「捨てられた?」
「捨て子ってやつだよ。生まれたばかりのボクをここに置き去りにして、母親は本土に雲隠れさ」
「お父さんは?」
「さぁ、父親は誰だかボクも知らない。きっとボクを捨てた母親だって種馬が誰かは知らなかったろうさ」
「どういう、こと?」
なんとなく予想はできたが、できればそれは、この幼い少女の口からは聞きたくなかった。
だが、現実は非情だ。
「ボクの母親はね、この島の男のほとんどと関係を持っていたんだ。当時の島でもとっくに廃れきっていた夜這いの風習に倣ってね」
「………」
「ボクは母親の顔も知らないし声も聞いたことないけど、島の中でもそれはそれは綺麗な人だったらしい。奔放で非常識な人だったらしいけど」
「島の男のほとんどって言ったけど、でもこの島じゃ家庭を持ってる男の人だって———」
「あぁ、当然沢山いた。だからこそ、生まれてきたボクは島の連中からすれば厄介者だったってわけさ。男連中が奥さんじゃない女と浮気して生まれてきた子供なんだから」
「………」
「捨てられたボクは島の村長の家に引き取られて育てられたけど、家の人も含めて、島の連中はボクを腫れ物に触れるみたいに扱ったよ。大人たちには後ろ指を差されて、同じ世代の子供たちには忌み子として虐げられる毎日さ。ボクは何も悪いことなんてしてないのに。夏休みを毎年家に閉じこもって過ごす子供の気持ちが、水瀬くんに分かるかい?」
そう言って自分が捨てられていた地面を見つめる志希の目には、怒りからか、それとも悔しさからだろうか、うっすらと涙が滲んでいるのが見て取れた。
俺は、なんと声をかけるべきか分からなかった。
「だからこの島の連中があの日ばったばったと次々に死んでいったときは、最高にスッとしたね!連中ボクの足にしがみついて、『助けて』なんて懇願してきたんだよ?性根が浅ましいったらありゃしない!」
志希は笑った。愉快そうに、愉悦に浸るように、笑った。それは強がりなどではなく、心の底から彼らの死を嗤っていることが理解できた。
「だからボクは、ボクを否定する奴らがいなくなったこの島を出ていく気にはならないね。生まれて初めて手に入れた自由な夏休みだ。外を出歩いても人目を気にする必要がない。駄菓子屋でアイスを食べようが山で虫取りをしようが海で泳ごうが誰にも文句を言われない。ボクが今まで喉から手が出るほど欲しかった最高の夏だよ?それをむざむざ手放すなんてできるわけがないじゃないか」
「そうか、キミの言い分はよーく分かった」
同情はする。
だが。
「それでも、この島のことを外に伝えないわけにはいかない」
「……まぁ、そうだろうね」
「聞き分けがいいじゃないか」
「これでも親よりは常識はあるつもりだよ、ボクは」
死体を放置している時点で充分非常識だと思うが、それは敢えて口にはしなかった。
志希はその場で俺に向き直り、丁寧に頭を下げた。
「水瀬さん。どうかボクと、お友達になってください」
「は?」
友達になってくれ?何を言っているんだこの娘は。前後の会話を鑑みてもあまりに逸脱しすぎている。というか、常識があるとか自分で言った直後にこれか。
強いて言えば、さっきまでずっと言っていた“水瀬くん”ではなく、“水瀬さん”と敬称を付けているところは幾分マシになったか。
「ほら、どうせ外と連絡は取れないし、本土からこの島に助けが来るまで時間はあるだろ?だからそれまで、ボクと一緒に遊んでほしいんだ」
「いや、その理屈はおかしい」
ジャックウイルスの死者があちこちに転がってる島で、女子中学生とウキウキしながら夏を謳歌するわけにはいかないだろう。そんな環境で遊ぶ気になんかなれるわけがない。下手をすれば自分だって今この瞬間感染しかねないんだ。というか、後で役場に戻った時に上司になんて説明すればいい。
「いただき!」
「は?」
気が付くと、目の前にいたはずの志希が遠くへ走り去っていた。直後、違和感に気付く。
つい先ほどまで自分の口元を覆い隠していた、マスクがない。
そして思い出す。島についた直後に俺の携帯をかすめ取っていった、志希の手際の良さと手癖の悪さを。
「ちょ、お前シャレになんねーぞ!!」
「へっへーん、返してほしかったらボクを捕まえてごらん!」
夏の日差しの下で、俺の命を賭けた壮大な鬼ごっこが開幕した。やっぱり透乃志希という少女は非常識に違いない。俺はほとんど恨みを込めた眼差しを彼女の背中に送りながら島中を走り回った。
まるで自分に手を伸ばそうとしている死神の手を必死に遠ざけようと逃げている気分だった。追っているのはこちらなのに。
***
***
***
「はぁ、ハァ……ゼぃ………おぇ」
「はー、いい汗かいたね」
一体どれだけの間走り回っていたのだろう。命の危険に瀕していた俺からすればほんの一瞬のようで、それでいて永遠のように長く感じられたが、多分、時間的には一時間ほどだろう。
夏空の下でいたいけな少女を追いかけ回す成人男性(まだ二十歳だからギリギリだけど)。通行人に見られていればとっくに通報されていてもおかしくない絵面だ。不謹慎だが、今この島に生存しているのが俺と志希だけで良かったと心から安堵した。
やっと取り返したマスクを急いで装着する。ひとまず安心はしたが、それと同時に今まで走り続けた疲労と暑さが一気に襲い掛かってきた。
———あ、暑い……。マスクつけてるせいで余計に熱が籠もる……。
暑さが一周回って吐き気に変わりかけたとき、スッと何かが差し出された。
「はい、ラムネ。冷蔵庫止まってるみたいだからちょっとぬるいけど、それでもまだ冷たいよ」
「あ、あぁ、ありがとう……、ん?これどこから……?」
「そこの駄菓子屋」
志希が指さす先には、扉が開いたままになっている寂れた駄菓子屋があった。建物は老朽化しているし店の看板も見当たらないが、それが逆に昔懐かしい駄菓子屋の風情を感じさせる。
「って、店の品物!?お代いくらだ?」
「水瀬くんって真面目だねぇ。お店の人はもう死んじゃってるのに。でもまぁ、そうだね。ボクは良い子だから店の人がいなくても代金を払おうじゃないか」
そう言って志希はどこからか小銭を取り出し、店の入り口に向かってコイントスの要領でパシンとそれを弾いた。二回。多分、俺の分も出してくれたんだろう。
「ちょっと、中学生の女の子に奢らせるわけには———」
「あぁはいはい、そういうのはいいからさ。あ、でもそうだな。お礼って言うなら、アイスでも奢ってくれないかい?」
「アイス?」
———そういえばさっき、夏休みに駄菓子屋でアイスを買うのが云々とか言ってたっけ。
「分かったよ。何がいい?」
「スイカバー!」
「スイカバー?」
スイカバーは、実は俺は嫌いだ。子供の頃に食べたことがあるが、味があまりにもスイカ過ぎて。
「夏と言えばスイカバーかガリガリ君って相場は決まってるだろう?異論は認めるけど」
「まぁ、スイカバーはともかくガリガリ君は俺も好きだけど」
志希の至極どうでもいい持論を聞き流しつつ、俺はラムネを一口含むと駄菓子屋にあったアイスのショーケースを開いた。志希が言ったようにケースの電源は落ちていたが、中に籠もっていた冷気は外に逃げていなかったのか幸いにもアイスはまだ固形を保っていたようだ。
代金を二人分駄菓子屋のレジらしき机に納め、スイカバーとガリガリ君を一本ずつ頂戴した。
「ほい」
「わぁ、ありがとう!」
アイスを受け取ると、志希は満面の笑みを浮かべて包みを開いた。その様を見るに相当嬉しかったらしい。アイスの持ち手の棒があるのとは反対の口から開けてしまっていた。
「ふふっ、なんか、良いなぁ」
「良いって、何が」
「これぞ夏休みって感じがするよ」
スイカバーを口に含んで志希は顔を綻ばせた。
なまじ彼女の経歴を知ってしまっている分、ああそうかいと適当に流すこともできなかった。
死体まみれの離島で過ごす夏休みなんて、ホラー以外の何物でもないと思うが。
「そういえば」
「ん?なんだい?」
「どうして志希はマスク外してても平気なんだろうな」
「さぁ?ボクは水瀬くんが来るまでウイルスのことなんて知らなかったからね。ずっと家の暗い座敷牢で過ごしてたし」
「………」
唐突に重い家庭事情を告げられて、どう返すべきか一瞬迷った。
「一パーセント」
「え?」
志希が思い出したように何かを呟いた。
「昔なにかの本で読んだ気がするけど、どんなウイルスでも全人類の一パーセントの人は抗体を持っているって聞いたことがあるよ」
「そうなのか?」
医学とかそういうのには疎いから俺にはよく分からない。
だが、島民が全滅した島に一人生き残ったこの少女はやはり、特別な何かを持っているのかもしれないな。
「まぁなんでもいいさ。時に水瀬くん、ちょっと付き合ってほしい所があるんだけど」
「だアホ。これ以上遊びに付き合ってられるか」
「じゃあこれから何をするんだい?」
「………」
島のライフラインは完全に停止。外部と連絡を取る手段はない。島内で行く宛てもない。助けを求められる大人も島にはいない。
何を、すればいいのだろう。
「付き合ってくれるなら、後で水瀬くんが本土に戻った時の口裏合わせにも協力してあげるからさ」
「口裏合わせってお前」
別に俺自身は何もやましいことはしていない。むしろ話をややこしくしているのは志希の方であって。
「はぁ、もういいよ。好きにしてくれ」
「やった!ありがとう、水瀬くん」
志希は顔を輝かせて笑った。
正直、目の前にいるこの少女は明らかに異常者だと思う。育った環境の事情も多分にあるのだろうが、それでもやっぱり今のこの島の状況を愉しんでいるというのは、どこか人として大事なものが欠けているのだと思う。
だが、彼女がそうなった要因は決して彼女一人だけの問題ではないだろう。それを分かっているからこそ、彼女に対してどこか強く出れない自分もいた。
***
***
***
「小学生の頃に一度だけ遠足で行った場所があるんだけど、一緒に行ってほしいんだ」
そう言う志希に連れられてやって来たのは、島に聳える小高い山を登った先にある、見晴らしのいい高台だった。
山を登りきる頃にはちょうど太陽が西の空に傾いていて、見渡す海もすっかり青からオレンジ色に染まっていた。水平線に沈もうとしている太陽のすぐ下に小さな小島があり、景観はさながら日本の名画のようでもある。
控えめに言って、とても素晴らしい風景だった。
「これは、すごいな」
「ね?来てよかっただろう?」
「悔しいけど」
幸か不幸か、ここに来るまでの山道には遺体は見当たらなかった。もちろん今いるこの高台にも。こういっては何だが、余計なものが無い分、心行くまで景色を堪能することができた。
志希は俺の隣に立ち、木でできた手すりにしがみついて目一杯身体を前に乗り出している。より全身で景色を楽しむように。
「ちょ、危ないぞ」
「ははっ、大丈夫大丈夫」
「まったく」
「水瀬くん、お父さんみたいだね」
「これでも俺はまだ二十歳なんだけどなぁ」
「じゃあお兄ちゃんだね。お兄ちゃんっ」
「馬鹿」
志希は悪戯っぽく俺をそう呼ぶ。今日出会ったばかりとは言え、美少女にお兄ちゃんと呼ばれるのは内心悪い気はしなかった。
「ねぇ、水瀬くん」
「なんだ?」
「あの水平線の向こうには、何があるのかな」
「世界地図の通りなら、多分、オーストラリアとかその辺じゃないのかな」
「オーストラリアかぁ」
「どうしたんだ、急に?」
「ほら、ボクってずっとこの島から出たことないし。ここじゃない場所には、幸せなことってあるのかな」
そう言って俯く志希の表情は、どこか物憂げだった。
今後、この島を離れた後のことを気にしているのだろうか。何しろ島民が全滅してしまったんだ。このことが外部に伝われば、まだ義務教育が必要な志希は当然、このままこの島に暮らし続けるわけにもいかないだろう。
「島の外には、楽しいことが沢山あるよ」
「本当に?」
「あぁ、キミのことを知っている人なんて一人もいないし、もし転校とかするんだったら友達だってきっと作れると思うぞ」
「友達かぁ」
「この島にない店とか、うまい飯屋もある」
「タピオカとか?」
「あぁ、タピオカミルクティーの店だってある」
———俺は行ったことないけど。
「でも、ウイルスが蔓延してるんだろ?」
「あぁ、まぁそうだね」
「生きづらくないかい?」
「生きづらいかって言われたら———」
生きづらいだろう。外に出るのもマスクが必須。不要不急の外出はできないし、外出しないとしても常に感染のリスクが付きまとう。うっかりマスクをつけ忘れて外出しようものなら通行人から白い目で見られて後ろ指を差される。遠出だってまともにできやしない。
「まぁ、生きづらいな。うん、生きづらい」
「そっか」
それだけ言って、志希は視線をまた海に戻す。
「でも、いつかきっと元通りになるよ。大丈夫」
「希望的観測?」
「そうだな。でも、人間ってけっこう逞しい生き物だし。過去の歴史上でも、今と同じように飢饉や流行り病が蔓延したときはあったらしいけど人はそれを乗り越えてきたんだ。だから今回もきっと大丈夫」
大丈夫。そう何度も繰り返すのは、この小さな世界に留まり続けてきた少女を安心させたかったからなのかもしれない。
あるいは自分自身を。
「そっか。島の外も、悪くないのかもね」
志希は、笑った。本心から俺の言ったことを信じてくれたのか、安心してくれたのかは分からないけれど、それでも笑ってくれた。そのことだけは俺を安心させた。
「ッ、かはっ………!」
「え」
言葉になっていない声を耳にして、俺の思考は一瞬だけ固まった。視界に飛び込んできたものは、一面の赤色。それは高台から見下ろす夕日色に染まった海でも空でもなく、ペンキを塗りたくったような黒みがかったもの。
それが、志希の口から吐かれた血だと気づいた時には、彼女は既に地面に横たわっていた。
「お、おい!志希!?」
「あ、れ……?どうしたんだろ、ボク………」
見ると、志希の手足が徐々に紫色に変色し、ところどころ皮膚が裂けて血が噴き出していた。
誰が見ても、ジャックウイルスの症状に違いなかった。
「もう喋るな!いま助けを———」
そして気付く。助けを呼ぶ手段などないことを。
———どうすればいいどうすればいいどうすればいい。電話は繋がらないし人もいない。医者だって当然いないし、仮に島の外に連絡がついたところでこの島に来るまでにどれだけの時間がかかる?そもそもジャックウイルスに治療法なんて―――
「水瀬くん」
不意に志希が俺の名を呼んだ。命の灯が消えかけているというのに、背筋が凍るほどに落ち着いた声だった。
「な、なんだ?」
倒れた志希の手を思わず握る。皮膚接触でウイルスが感染するかもしれないなどという可能性はとうに俺の頭から吹き飛んでいた。
志希は、先程の喀血で血まみれになった口の口角をグイっと持ち上げて、笑った。笑っていた。
「ボクと遊んでくれて、ありがとう」
それが、透乃志希の最期の言葉だった。
***
***
***
あの後、俺は船着き場にやって来た漁師の漁船に乗って島を出た。当初は電話したら迎えに来るという話だったのだが、俺からの連絡がいつまで経っても来ないことを不審に思った漁師が心配してわざわざ船を出してくれたのだ。
「詩乃島の住民は、ジャックウイルスで全滅していました」
後日、本土に戻った俺はそう報告した。ウイルス感染の疑いがあるということで病院で然るべき検査を受けたが、幸いにも体のどこにも異常はなかった。
俺自身、ウイルスの死者で溢れかえった島をマスクなしで走り回った挙句目の前で発病者を看取ったということで正直いつ発病して死んでもおかしくないと思っていたのだが、彼女が死んだ直後に夜が訪れたのが幸いだったのだろう。ジャックウイルスは暗所では動きが沈静化する。
一つ。どうしても気がかりなことがあった。
透乃志希は、どうしてあの瞬間まで発病しなかったのだろう?
彼女は島民が全滅したあと二週間以上に渡ってマスクもつけず、何の感染対策もしないままに生活していたと言っていた。普通ならとっくに感染して死んでいてもおかしくなかっただろう。
———“ボクと遊んでくれて、ありがとう”
誰かと一緒に遊びたくて、それまで死ななかった?
ないない。そんなおとぎ話みたいなことがあるわけがない。
透乃志希とは一日だけの付き合いで、ほとんど他人と変わらない。
なのにどうしてこんなにも、彼女のことが頭から離れないのだろう。
望まれずにこの世に生まれ、育った小さな世界では住人たちに疎まれ孤独に生きてきた少女に対する憐れみだろうか。
———“ここじゃない場所には、幸せなことってあるのかな”
“死の島”に一人生きていた少女。邪魔なやつらがいなくなってせいせいしたとか自由な夏を過ごせるとかなんとか言っていたが、本当は彼女も、もっと広い世界を生きてみたいと思っていたのではないだろうか。自分の存在を認めてくれる誰かと一緒に。
今となってはすべてが手遅れだが、せめて俺だけは、彼女のことを覚えていようと思った。
そして、ウイルスが蔓延るこの生きづらい世界で、それでも生きていこう。なんとなく、それが彼女に対する供養になるような気がした。
ある夏の日、俺は確かに、一人の女の子と友達になって、一緒に遊んだ。
水夏透 棗颯介 @rainaon
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