鯨よりも深く

つるよしの

鯨よりも深く

「絵を描く場所がほしいなら、あそこで描きなさいな。アトリエ、なんていうほど洒落てはいないけど、作業に集中するには十分でしょうに。壁に何描いても構わないから。どうせ壊しちゃうんだし」


 そんな母の言葉により、「あそこ」に毎日出かけては、壁いっぱいに絵を描くのが、私のその夏の日課となった。


 あそこ、というのは、先日亡くなった祖母が保有していた築35年の古いアパートである。ここは祖母の所有物であったのだけど、死後、その建物にほぼ価値はなく、いや、寧ろあった方が土地の資産価値が下がるというようなことだったので、親族一同合意のうえ、そのアパートは即刻解体、その後、土地を売却ということになる。急なことで、住民に出て行ってもらうのに多少揉めはしたらしいけど、いまはそれも片がついて、アパートはただの、がらんどうの建物と相成った。


 なので、後は壊すばかりとなったアパートは、その一夏だけ、絵描きである私に、アトリエとして利用されることになったのだ。


「あそこだったら、好きなだけ絵の具散らばしても、良いからね」


 母はそう言って、美大を出て就職もせず、日がな一日家で絵を描いて過ごす、なんとも世間体の悪い娘(つまり私)をそこに追いやるのに成功したわけだが、なるほど、そこではたしかに絵のことだけには集中できるけど、何しろ私が参ったのは、その暑さだ。


 電気はとうの昔に解約されたアパートである。照明はさんさんと降り注ぐ夏のひかりで、事足りるものの、部屋に籠もる熱気だけはなんともならない。仕方ないから、私は何個か電池式のハンディ扇風機を購入して、それを部屋の四隅に置いてしのごうとした。けれど、じりじりと照りつける太陽の熱は扇風機の風すら熱風に変える。これには辟易した。


 だが、私は、母の小言を聞きながら、自宅で部屋を汚さないよう気を配りつつ、こそこそと絵を描く息苦しさに比べれば、この暑さも致し方なし、と判断し、毎日せっせとアパートに通い、額を汗で濡らしながら、壁に絵を描き殴り続けたのだった。


 それでも夕方になると、僅かに涼しい風が壊れかけた網戸から部屋の中に流れ込んできて、私は漸く、人心地を得る。そして、その時間になると、今では珍しいアイスキャンディー屋が、バイクで路地をゆっくりゆっくり走行しながらやってくる。


「アイスキャンディー、アイスキャンディー」


 そうスピーカーから宣伝の声を流しながら、バイクを操るアイスキャンディー屋の主は、見たところ45歳くらいのおじさんだ。私はその声を聴くと、小銭を握りしめて、サンダルをつっかけておじさんの元に走る。


「あんた、今日もここで絵を描いてたの」

「うん、暑くてたまらないですよ」

「そうだろうね」


 そう言いながらおじさんは小銭を私から受け取ると、いまや廃墟に極めて近い様相のアパートに視線を投げる。その眼差しにはどこか意味深な感じがあって、私はその度に少し訝しげに思ったけど、手渡されるアイスキャンディーの冷えた心地よい感触に、その思索はすぐに吹き飛んでしまうのが、常だった。


 おじさんはすぐに次の客を求めてバイクで去って行き、私はアパートに戻って溶けないうちにと慌ててそのアイスキャンディーを頬ばる。

 そして、それが私の胃の中で溶け切った頃、宵闇があたりを包み、アパートは仄暗さに包まれる。そうなるともうそれ以上作業は出来ないから、私は荷物を纏めて家に帰る支度をし、アパートを後にする。


 それが、私のその夏の一日のルーティンだった。


 そんな、殊更に暑さが身に沁みた、夏も終わりに近づいた日。


 その日も私はアイスキャンディーを買おうと、滲み出る汗をタオルで拭いながら、おじさんが来るのを待っていた。やがて夕暮れ時になり、おじさんはいつものようにやって来て、私もいつものようにアイスキャンディーを購入したのだけど、その日、おじさんは私にアイスキャンディーを渡し終わると、早々にスピーカーのスイッチを切ってしまった。


「今日は珍しく売り切れちゃったんだ。だからもう仕事は終わりだ」

「とくに今日は暑かったですからね」


 私はアイスキャンディーの袋を手にぶら下げて言った。すると、おじさんはまたも、あのちょっと気になる視線をアパートの方に投げかけ、私にこう尋ねてくる。


「あんた、あのアパートのどの部屋で絵を描いているのかい」

「え……、104号室ですけど」

「そうか」


 そう言ったおじさんの眼差しが、少しさみしげに翳ったように見えて、私は、つい、聞いてしまった。


「なんでですか?」


 すると、おじさんは汗の滲んだ無精髭を手ぬぐいで抜きながら、ぽつりと零した。


「俺、住んでいたんだよ。つい最近まで、あんたが今、絵を描いているその部屋に」


 昼の熱の名残りを残した夕風が、すうっと私たちふたりの間をよぎった。


「俺は20年近く、あの部屋で妻子といっしょに暮らしていたんだ。まぁ、最後の10年間は妻に逃げられて、子どもとふたりきりだったけどな」


 おじさんは、どこか自嘲をこめた口調で語を継ぐ。


「つまり、俺にとっては思い出深い場所なわけだよ。できれば、もっと長く住みたかったんだがな……まぁ、追い出されたことに、もう恨みもないけれど」


 そこで私は、解体を決めた時、アパートの住人と少し揉めた、という話を親族から聞いたのを思い出す。私は言葉もなく、アイスキャンディーの袋を握りしめるのみだ。

 アイスキャンディーの溶け始めた果汁が、袋のなかを少しずつ満たしていく。

 ぽたり、ぽたり。

 ぽたり、ぽたり、ぽたり。


 やがて、暫くの沈黙ののち、私の口から自分も思いもしない言葉が爆ぜた。


「見たいんですか? ご自分が住んでいた部屋」


 はっ、とした顔でおじさんは私の目を見た。おじさんは頷きこそしなかったけど、こう小さく溜息混じりに呟いたのを私の耳は、聞き逃せなかった。


「お見通しかぁ」



 おじさんは私のアトリエに、いや、自分が住んでいた部屋に入ると、ただ暫く黙ったまま、私の絵が好き勝手描かれた壁を見回していた。そして独り言つように、壁のへこみを指差しながら、語を放った。


「ほら、そこ凹んでるだろ。それ、妻が出て行った時、俺が癇癪を起こして、力いっぱい蹴りつけた跡」

「はぁ……」

「あと、この柱の傷は、子どもの身長を一年ごと、誕生日に刻んでいたやつだ」


 そう言われて見ると、柱には何本もの傷が刻まれている。私は思わずその傷を数えてみる。


「12歳までしか測らなかったんですか?」

「いや、12歳で死んだんだ」


 思わず私は息を飲んだ。そして、しどろもどろに謝罪の言葉を述べる。


「すみません……」

「いや、良いんだよ、謝られてもどうしようもないことだし」


 おじさんは苦笑するかのように私に言葉を吐いた。そして、私の絵が躍る壁にまた目を向けた。


「鯨を描いているの?」

「ええ、鯨描くのが好きなんです。モチーフとして、描いてて気持ちが良くて」

「そうか、息子も鯨が好きで、いつか直に見たい、って言っていたよ」


 おじさんは、壁いっぱいに描かれた鯨の絵を見ながら呟いた。


 夕のひかりは去り、高くのぼった月光が眩しさを増す時刻になっていた。壁の鯨が、月明かりに照らされて、宵闇の仄暗い海のなかを泳いでいるように見える。

 そんななか、おじさんは、私の描いた鯨の絵にじっと見入っている。その表情は、もはや闇に紛れてはっきりとわからなかったけども。


 私たちは、いつのまにか、何頭もの鯨の泳ぐ海の底に佇んでいた。


 どのくらいそうしていたのか。やがて唐突に、おじさんの声が私の耳を打った。


「お願いがあるんだ。今夜だけ、この部屋に居させてくれないか」


 そう言いながらおじさんはズボンのポケットを弄る。そのなかから引っ張り出したのは、どうやら一枚のスナップ写真のようだった。


「息子の写真だ。この子に今夜一晩、鯨を見せてやりたい。息子といっしょに鯨を見上げたいんだ」


 ……断れるはずがなかった。

 私は部屋の鍵を絵の具が散った畳の上にそっ、と置くと、そのまま、104号室を出てすっかり暗くなった家路を辿った。



 翌朝、いつものようにアパートに行くと、ドアに鍵はかかっていなくて、おじさんの姿はもうなかった。部屋の鍵は、古びた畳の上にそのまま横たわっていた。私は、いつものようにまた壁に向かう。その日も私は、額に汗を浮かべながら何頭もの鯨を、壁に躍らせた。ただ、その筆先は、ちょいちょいと何らかの自分でも分からぬ感慨に囚われて、いつものようにスムーズには進まなかった。


 やがて、夕方となり、アイスキャンディーの宣伝文句が風に乗って、いつものようにアパートのなかに吹き込んできた。私は、少しどぎまぎしながら、サンダルをつっかけ小銭を手に路地に飛び出す。


 だけど、バイクに乗ったアイスキャンディー屋さんは、あのおじさんでなく、見知らぬ若いお兄ちゃんだった。

 私はアイスキャンディーを買い求めながら、あのおじさんのことを聞くべきか迷ったのだけど、お釣りを渡す時、お兄ちゃんのほうから、こう言葉を放ってきたので、私から口を開かずにすんだ。


「いやぁ、参ったよ。いつもここ来ていたおっちゃん、いただろ? 急に辞めちゃったんだよ。なんだか、夢が叶ったみたいなこと言って。あの歳で夢も何も、あったもんじゃねぇ、と思うんだけどね。まあ、この仕事も日当やっすいから仕方ねえかなあ」


 私は曖昧に笑った。

 そして、お兄ちゃんに一礼すると、アイスキャンディーが溶けないうちに、と、くるり、身を翻してアパートに駆け戻る。


 はっきりとした言葉にも、かたちにもならぬ、訳の分からぬ動揺を隠すように、やや、不自然な駆け足で。


 夕闇が、世界を包みこむ気配がする。

 けれど、鯨の泳ぐ仄暗い海が現われるには、まだ早い時刻だった。

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