最終話 幸せ





鯖のほぐし身を、せっせと食べる猫。彼女は本当に、あのおかねなんだろうか。俺はどうしてもそれを確かめたかった。


食事が終わって、満足そうに皿の前を離れようとした猫は、どうやらまた二階に向かうようだった。俺はそれを見ていて、どんどん気が張り詰めていくのを感じていた。


“猫が階段へ差し掛かるまでに、俺は声を掛けなきゃいけない”


俺はそう感じていた。


“もし、本当に生まれ変わりなら…!”


俺は勇気を出して、とことこと歩いて行ってしまう猫の背中に、こう言った。


「…おかね」


俺の声は震えていたけど、猫はその場に座り込むと、俺を振り向き、「なーお」と鳴いてみせた。




俺はそれから、“おかね”のために色々と調べ、やっとこ今日になって、“おかね”をキャリーに入れて動物病院へ連れて来た。


“おかね”がどこから来た猫なのかははっきりしない。でも、彼女は表に出たがって玄関の戸をカリカリと引っ掻く。どうやら外に何があるのか、自分がワクワクする景色が広がっているだろう事は知っているらしい。


しかし、外には車も走っているし、知らない人間も居る。縄張り争いに必死な猫だって居るだろう。だから俺は、病院に行く時以外はおかねを外に出さない事に決めた。


“今朝まではスーパーマーケットで買ったカリカリフードを食べさせていたけど…動物病院でどんなフードがいいのか、聞かないとな…”




おかねは、ワクチン接種と健康診断をし、血液検査の結果が出るまで、副反応が出ないかどうか、待合室で俺が見守っていた。


キャリーの中でおかねはあまり元気がなさそうにしていたけど、病院の先生は、こう言った。


「少々の副反応があるようですね。でも、多分4歳くらいの、元気な女の子です。今ワクチンで劇的な症状が出ていないなら、おうちで様子を見ていて下さい。ずっと元気がないようでしたら、またすぐにお越しを」


俺はそれに「ありがとうございました」と返して頭を下げ、キャリーケースを持ち上げる。おかねは、ぐらぐら揺れるキャリーケースの中は落ち着かないのか、出たがってカリカリとケースの金網に爪をつっかけた。




俺はもちろん、すぐに職を探した。猫を養うには、お金が必要だ。俺は無我夢中だった。


おかねが夢の中で言った事を、俺は何度も思い返していた。


“さあ。この子をあたしと思って可愛がってやっとくれ”



俺は今度は、自暴自棄な職探しはしなかった。なるべく安定して給与の保証がされる仕事を探した。仕事探しの合間に勉強もして、宅建や簿記の資格も取った。


しゃにむに勉強をし、何社も断られて、俺はやっと、自宅から少し離れた地方都市部にある会社に、入社した。


俺が自室で座卓に腰掛け、古く低い机に向かっていると、“おかね”は遊んでもらいたがってすり寄ってくる事もあったけど、大抵は俺の傍で丸まって休んでいた。


夜半過ぎまで灯りを消さずに、勉強に勉強を重ねていた頃は少し辛かったけど、“おかねのためだ”と思うと、いくらでも頑張れるような気がした。




俺は時たま、おかねに話し掛け、彼女はいつも「なーお」と返した。ある時、こんな話を彼女にした。


「会社でさ、今時珍しい上司が居て」


俺がそう言うと、おかねは話を聴くため、こちらに顔を向け、俺の顔を見ていた。


「俺に見合い話を持ってきたからさ…「私はやもめになってまだ日が経っていないんです」って言ったら…相手もどうしたらいいのか分からなかったみたいだ…」


俺はおかねを見詰めていた。彼女は俺の膝に登ってきて、満足そうに「なーお」と鳴いた。




俺はおかねのために日々真面目に仕事をし、家に帰れば彼女に話し掛けたり、その晩の食事に満足しなかった彼女に引っ掻かれたりと、毎日愉快な暮らしをしていた。


“このままの暮らしが永遠に続けばいい”


俺は幸福だった。もう何も要らないと思った。また幸せが還って来たんだ。


毎晩おかねを抱いて眠る時、「おやすみ」を言い、翌朝になったら「おはよう」が言えるのが、嬉しくて堪らなかった。


“この幸せも、またあの時のように流れ去ってしまうかもしれない。でも、今しばらくはこのままなんだろう”




そんな事を考えていたある日の仕事中に、突然に俺の胸に強い痛みが走った。それは凄まじい激痛で、瞬時に俺は悟ったのだ。


“ああ、これでおしまいか”


薄れゆく意識の中、そばに居た誰かが俺に向かって叫んでいるのを見た。それが俺の最期だった。




「住職、今日も、ですね」


小さな寺で、小坊主と住職が、襖を開けて墓地の方に目をやり、話をしている。


「ああ。主人の墓から離れたくないんだろう…」


「でも、今日はこんなに酷い雨なのに…」


ざざあーっと降りしきる雨の中、一番手前に見える新しい墓石の前に、黒猫が座り込んでいるのが、頭だけ見えている。猫は墓の前から動こうとしない。


「心配は心配だが、猫には分かるまい…」


「よほどに主人の事が好きだったんですね…かわいそうに…後で様子を見てきます…」


「ああ」


雨が止んで小坊主が墓の方へ猫の様子を見に行くと、墓石のそばには、冷たくなってしまった黒猫が、ぐったりと丸まっていた。





おわり

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元禄浪漫紀行 桐生甘太郎 @lesucre

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