第五十六話 夢と猫
俺は、せっかく見つけた勤め先を勝手に辞めて、家で酒ばかり飲むようになった。
酒を飲む前は、自分が置かれた境遇を恨むしかない。でもなぜか、酔っ払うと、幸せだった頃が少し近づいてくる気がする。おかねも秋夫もおりんも、まだ会える所に居て、彼らは俺を待ってくれている気がしてくる。
スマートフォンは、初めは鳴りっぱなしだったが、近頃では大人しいもんだ。
でも、酔いが覚めると俺はいつも絶望に追い立てられ、“自分は今どこに居るのか”と問い続けてくたびれ果て、また酒に手を伸ばすのだった。
秋夫が、下戸の俺をからかうのを思い出す。おかねがグイグイと日本酒を一気飲みしていたのを思い出す。おりんが婚礼の時、お酒を俺に注いでくれたのを思い出す。
俺は歌も歌わずただ酔っ払って、目の上を過ぎ去る思い出に涙した。たまにそういう時、「善助」の日記を読む事もあった。
少しずつ酔いが覚めてくると、現実に引き戻される恐怖と不安に押し潰されそうになり、俺は布団にくるまる。
「ああ、もう嫌だ」
誰も聞かない俺の独り言は、天国にも届かないのだろうか。
少し前に決めた、“金がなくなったら首をくくる”というのがだんだんと近づいているのが、俺には分かる。そして、それを止められる何者も、もう俺の周りには居ないのも。
俺は毎晩、夢でおかねと生活している。時には若い頃のおかねで、ある時には子供達も一緒に居て、おかねが四十を過ぎた頃でもあった。
ある晩、俺が眠りに就くと、俺はまた江戸の裏長屋に逆戻りしていた。不思議と、夢の中の俺はそれを当たり前に受け入れている。
ふるふると首を回すと、鏡台の前でおかねが紅差し指で紅を引いているのが見えた。
「どこか出かけるのか」
俺がそう聞くと、おかねは笑って言う。
「嫌だよお前さん。あんたも行くの。年始回りなんだからね」
「ああ、そうだったっけ」
俺は、いきなり正月の年始回りになっていた事も、まだ秋夫もおりんも居ないのを不審がる事もなく、羽織を引っかけてお供えを持ち、家を出た。
江戸の町は正月にはいつもより少し静かだったけど、お店や裏長屋で人々が笑い合う声が聴こえてくる。子供が凧を上げに行くのに親が付き添っている姿なんかは、ちらっと見かけた。
俺達は、お弟子の家の中から何軒か大店を回って、それから大家さんの所へ挨拶に行った。そして帰ってからは、裏長屋のそれぞれに、「明けましておめでとう」を言いに行くはずだった。
俺達が木戸をくぐってすぐに、おかねはこう言った。
「トメさんは先年亡くなったからねえ、さみしいねえ…」
「そうだな」俺はこれにも、動じずに返した。
でも俺はその時、自分の背中に向かって、大きな手が伸びてくるかのような感覚があった。まるで、後ろから誰かが俺を捕まえて、おかねから引き離そうとしているような。これは、おかねとの夢を見ると、必ず最後に現れる物だった。
夢の中で、俺はいつも恐ろしくて振り向けない。目が覚めてから、その事について思う事は色々あった。
“あの気配に振り向いたら、江戸時代の夢をもう見られなくなる”
“もし振り向いたら、その正体が恐ろしいあまりに、起きた途端俺は死に走る”
様々に思いつく事はあったけど、良い予感は一つもなかった。でも、一つだけこう思う事があった。
“もしかしたら、あの気配に振り向けば、俺は永遠に夢の中から出る事はなく、おかねとずっと一緒に居られるのではないだろうか”
そんな気持ちはあったけど、やっぱり怖過ぎて出来なかった。
家の中は荒れ放題で、俺は父親が残してくれた少々の貯金を、ほとんど切り崩していた。でも、食べる物は納豆や豆腐、煮染め、鰯や握り飯が多かった。時には、おかねとの思い出に思い切り贅沢をして、ねぎま鍋を作って食べたりした。
「なあお前、覚えてるか?また会ったな」
俺は、どんどん増えていく独り言で、ねぎま鍋にそう話し掛けてみたけど、あの時と同じ魚が入っている訳でも、煮えた具材が喋るはずもなかった。俺はその時も酒を飲んで、酔っ払っていた。
“さあさ、お前さんもおあがりよ”
おかねが優しく俺にそう言ってくれたのを思い出す。俺は酔いの中で、どうして彼女がここに居ないのかが不思議な気持ちがした。だから、また独り言を言った。
「なあ、おかね…お前、俺を迎えに来てはくれないのか?」
広いキッチンには誰も居ない。だから返事も無い。俺は酷い孤独を感じ、ねぎま鍋が涙でぼやけた。
「おかね…!」
俺が呼ぼうと、彼女は居ない。
鍋の中には、俺一人では食べ切れない量の具材が詰まっていて、おかねの分と思って、俺はねぎま鍋を半分残した。
翌朝俺は、残りの鍋の蓋を開け、それを食べるのを躊躇した。
その時後ろに人の気配を感じて、キッチンの隣りにある和室を覗くと、おかねの姿があった。でも、それは幻覚だと、俺にははっきり分かった。
絞りの浴衣で洗い髪をきゅっとまとめ、彼女は威勢よくお弟子のおさらいをしていた。お弟子は向こうを向いていて顔は見えないし、見た事がない、へんてこな着物の着方をした人だった。
三味線の音は聴こえなかったけど、おかねの姿は透けてもいないし、俺に気付いたように自然と顔を上げ、俺に笑いかけてくれた。俺は、自分の頭が見せているただの幻覚だと思って恐ろしさも大して感じなかったけど、おかねに近寄る事は出来ず、ただ俺に微笑んでいるだけのおかねを置いて、寝間へと上がって行った。
そんなある晩、夢を見た。それはいつもと違っていた。
俺が夢の中で目を開けると、そこは自室の布団で、布団の足元におかねが座っていた。だから俺は、ただ目が覚めただけで、おかねがやっと迎えに来てくれたのかと思った。でも、おかねが胸に抱いている者に、少し驚いた。
黒い猫がおかねの膝の上に座り、じっとこちらを見詰めている。真っ黒な体に薄金色の目が浮いて、瞳がきらきら光る猫だった。
おかねは目を伏せ、躊躇いがちにこんな話をする。その声は、暑い膜の外から聴こえるようだった。
“お前さん…どうか達者で暮らしておくれ”
それは、いつもの夢で見る、俺の都合で作り出される“おかね”ではない気がした。彼女は自分の意思でここに来てくれたような気がした。
おかねは横を向いて畳に目を落とす。
“あたしもさみしいけど…無茶をしないでおくれ”
そう言っておかねはこちらを振り向き、俺の目をじっと見る。唇は涙にわななき、彼女は必死に泣くのを堪えていた。
“さあ。この子を私と思って可愛がって、もう一度生きとくれ…”
おかねがそう言って、猫を二度三度撫でてから両腕を広げると、黒猫はぴょんと飛び降り、俺の布団へちょこちょこと寄ってくる。
俺は一瞬猫に気を取られ、手を伸ばしかけたが、もう一度顔を上げて布団の足元を見ると、そこにはもう誰も居なくなっていた。
俺は、息苦しさから目を覚ました。息が切れていた。
“悪夢ではないのに…それにしても、なんて夢だ。おかねの代わりに、俺は猫が欲しかったんだろうか?そんな事はないはずだ…”
俺は、また自分でこさえた幻の夢で、今度はおかねの身代りを誰にするのかを探し始めたのかもしれないと考えていた。
“猫を女房の代わりになんて出来るはずもないし、猫なんて、簡単に捕まえられるものでもないだろう…”
でも、俺が起きて布団に入ったままで考え回している内に、目の前に細長い黒い何かが伸びてきて、俺の顔にふにふにした何かを押し付け始めた。
「な、何…」
それは少々鉤爪のような物を持ち、柔らかい孫の手のような感じだった。そこで俺は、何かが胸の上に乗っているから息苦しかったのだと、やっと分かった。
俺は慌てて起き上がり、その正体を確かめた。そして驚愕する。
「えっ…!?」俺はびっくりして声を上げた。
そこには、さっきまでの夢でおかねが抱いていた姿そのままの、猫がいた。黒い猫だ。
薄金色の目がこちらを向いているのだけがかろうじて分かる、漆黒の体毛と、ちょこなんと座る猫らしい振る舞い。猫は、「なーお」と鳴いてみせた。そして、僅かに笑ったかのように見えた。
玄関は閉め切ってある。窓も開いているはずがない。だから、ここに猫が迷い込む訳もない。俺はそう考えて不気味に思っていたし、“あの夢は本当だったんだ”と思うと、突然に自分が怪談の中に放り込まれたように、薄気味悪かった。
「なーお、なーお」
猫は、初めて目にしたはずの俺にすり寄り、俺が布団についた腕に体をこすり付ける。それから、俺が着ていた甚平に爪を引っ掛け、俺を布団から引っ張り出そうとした。
“食事でもしたいのかな。確か鯖が一切れまだあったはずだけど…”
俺はそう考えて立ち上がる。すると、猫はとととっと部屋を飛び出し、俺がキッチンまで降りて行くと、もう冷蔵庫の前に陣取っていた。
“猫は食事の隠し場所を知ると開けるようになると言うけど…賢い奴だなぁ。それとももしかして、本当におかねの生まれ変わりだったり…?”
俺は無言で冷蔵庫の冷蔵室を開け、薄明るいチルド室から、鯖の切り身の残りを取り出した。
「なーお」
猫は鳴いて急かしたけど、もしかしたら寄生虫などが鯖の中に居るかもしれないし、俺は一応、魚焼きグリルで火を通してみた。
猫は、魚焼きグリルから、ぷち、ぷち、と鯖の脂が跳ねる音を聴いているように時折耳をぴくっと動かし、ずっとグリルの下から離れようとしなかった。
「焼けたら食べられるからな。ほぐして冷ましてやるよ」
俺は、そう言った後で、よっぽど「おかね」と呼びたかったけど、その場ではやめた。
つづく
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