021 松戸ダンジョン攻略(その4)

「ん?」

 菱川が目だけをぐるりと動かす。

 視線が交錯した瞬間、楓香の背筋に泣きたくなるほどの怖気が走った。威圧されているわけでもないのに、と考えたところで菱川の眼が弓なりに歪んだ。

「ひぅっ」

 思わず楓香の喉から悲鳴が漏れた。まなじりにはすでに涙がたまっている。

 にもかかわらず、菱川はにこやかに笑いかけてくる。唇が裂けそうな不気味な笑顔が恐ろしくてたまらない。

「あなたは確か、彼のパートナーでしたね?」 

 粘ついた声が耳朶を打つ。目を合わせられず俯きがちになった楓香だったが、菱川はお構いなしに身を曲げて無遠慮に覗き込んできた。

 ぎょろっとした三白眼が視界に映った瞬間、楓香のSAN値は限界を迎えた。

「人違いですお騒がせしましたありがとうございましたー!」

 脱兎のごとく逃走を開始。来た道を引き返し、全力疾走で菱川から遠ざかっていく。

 ──なんなのあれ!?

 講習のときは、いい人なんだろうとしか思わなかった。羊太郎が威嚇していたのは横目に見ていたが、そのときも菱川は優しい笑顔を浮かべていたくらいだ。それなのに、なぜ今はこんなにも恐ろしく感じられるのだろう。

 涙を拭いながら走ると、数分もしないうちに地べたに座り込む羊太郎の姿が見え始めた。周囲に鬼の姿はない。何のかんのと言っておきながら自分一人で殲滅したらしい。

 その背中を目にした瞬間、楓香の涙腺が爆発した。

「山城さぁああん!」

「おせーよ蜂ヶ谷。なかなか来ないから終わっちまっ──」

 振り返った羊太郎が目を剥いて立ち上がる。

 予想だにしない機敏な動きに楓香は驚き、「なんですかいきなり!?」と叫びながら、威嚇するレッサーパンダのごとく両手を挙げた。

「……どうしました?」

 ゆっくり手を下ろし、楓香は乱れた呼吸を整える。

 いつもなら馬鹿にされるところなのだが、なぜか羊太郎は固まったままである。その双眸は厳しく、忌々しいと言いたげな目つきだ。

 訳も分からず小首をかしげたそのとき、

「いやァ、疲れた疲れた。あんまりにも速いから驚きましたよ」

 先ほどよりも間近になった粘着質な声に肌が粟立つ。

 その場から飛びのいた楓香の顔色から、サァッと血の気が引いていく。隣の羊太郎はと言えば、眉をひそめて不快感をあらわにする。

「あれ、どうしてそんなに恐い顔してるんです? 私、何かしちゃいましたかねェ?」

 菱川は肩を竦めておどけた。疲れたと抜かしながら、息一つ切らしていない。

 さも寂しそうな顔を作りながら伏し目がちにこちらをうかがう様子からは、格下への嘲りが透けて見える。しかし、今の楓香には憤慨する気も起こらない。この男と敵対してはいけないと、心臓が早鐘を打って警告していたからだ。

 すると、羊太郎がわざとらしい営業スマイルを湛えて一歩前へ踏み出た。

「ハハ、驚いただけですよ。B級冒険者の講習も務めるA級の冒険者サマがなんでこんなところにいるのかな、と思ったんです」

「いえいえ、ちょっとした仕事の帰りですよ」

「仕事?」

 羊太郎が片眉を持ち上げた。

 基本的に、A級の仕事と言えば羊太郎が挙げた講習や、特定のドロップアイテムの確保依頼などが主となる。もっとも、それなりの企業ともなると所属クランを派遣させることが常であり、菱川のようなフリーランスには余程のことがない限り回ってこない。

 一方の講習は、フリーランス向きの仕事である。ダンジョンセンター主催の初心者講習や、ダンジョンセンターを介して冒険者自身が他の冒険者に講習を依頼するなど様々な形態がある。楓香たちがブラフマンに師事しているのも──彼の場合は押しつけてきたのだが──、一応は講習の形を取っているわけである。

 もっとも、菱川の周囲にそれらしい人影は見当たらない。

 訝る羊太郎を後目に、菱川はこれまた胡散臭い笑顔を浮かべた。

「蜂ヶ谷さんがあんまりにも速いから、追いつくのに必死で置いてきちゃいましたよ──なんて言ってるうちに、ようやく追いついたみたいですね。噂をすればなんとやら、ってやつですか」

 菱川が首だけで振り返る。顎で示す先には、ぜえぜえと呼吸を荒げながら走る男女二人組の姿があった。学ランにセーラー服と、なぜ入ダンが許可されたか不思議な格好である。

 二人組はそばまでくると、体力が尽きたのかがくりと頽れた。にもかかわらず、引率したのであろう菱川は呆れた顔で横に首を振った。

 これに驚いた楓香は、羊太郎からリュックをひったくって二人に駆け寄る。

「大丈夫!?」

 学生時代に短距離走をやっていた楓香は、当然ながら選手へのサポートもこなした経験がある。手際よくタオルとペットボトルをそれぞれに押しつけた。

 小さな悲鳴に目を向けると、女の子が足を抱えるように抑えていた。

「ああ、攣っちゃってる! ごめんね、少し伸ばすよ」

 彼女の右足を抱え、膝を伸ばして爪先を体側に倒していく。何度もこうしてきた学生時代を思い起こして、懐かしさが胸中に湧きあがった。

「強さは大丈夫かな。痛くない?」

 彼女はこくこくとうなずいて応えるが、どうにも辛そうだ。

 一方の男の子は、運動に慣れているのだろう。体を痛めた様子はないものの、渡されたタオルを凝視して固まっていた。

「よかったら使って。あと水も飲んでいいから。どっちも私たちは手を付けてないから、安心していいよ」

 楓香が微笑むと、彼はおずおずとボトルに口をつけた。

「あ、あの。ありがとう、ございます。も、大丈夫、です」

「よかった! もう痛みはない?」

「はい……」

 楓香は手に込めた力を解き、彼女の足を下ろす。

 上体を起こそうとするのを支え、ボトルの蓋を開けて彼女に手渡した。駅伝などでもよく見られる光景だが、全力で走ったあとは全身の筋肉がほぐれて力が入らないことがある。そんなときは、ボトルの蓋を開けるだけでも重労働なのだ。

 タオルで彼女の額を拭いながら、楓香はその瞳を覗き込む。

 上手く焦点が合っていない。運動慣れしていないこともあるだろうが、水分と塩分の不足から来る熱痙攣の初期症状だろう。そんな状態で力を入れようものなら、その部位の筋肉がまた攣ってしまう。

 彼女の足は筋肉が薄く、明らかに走り慣れていない。つまりそれは、実力が伴わないうちに無理やり連れてこられた可能性をも示唆している。

 それがどれだけ危険なことか。一生心に残る傷を負うリスクだってあるというのに。

 ──ふざけんな。

 楓香は臆病だ。それはいまでも変わらない。

 モンスターと対峙するときだって、取り繕った強い自分で恐怖心を塗りつぶしてやり過ごしているだけだ。泣きたくなるほど痛い思いだって、表情を作って隠しているだけだ。

 だからこそ、目の前の男が許せない。

「こんなの、おかしいでしょう」

 柳眉を逆立て、楓香が感情をあらわにする。すでに恐怖心は失せていた。

 燃え盛るような純然たる怒りが、腹のうちに煮えたぎっている。

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退職したから、ダンジョンに潜ります。 樋渡乃すみか @HitonoSumika

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