恐ろしくて懐かしい、すべての川

個人的な話から始めさせていただくと、自分は良くも悪くも特徴のない住宅街に住んでまして、近所にはチャリが捨ててある、鯉が死んでいるドブ川しかありません。夏場は臭くて最悪です。

なのでこの作品の〈川〉というのも、なんとなく野趣あふれる自然豊かな、さらさらした小川……❤、みたいなのをイメージしてました。しかし、読み進めるにつれてどうも違うんじゃないか、という気がしてきました。むしろこの〈川〉から連想されるのは、境界であり辺境であるところの、恐ろしくて懐かしい場所です。言い換えると異境であり故郷でもある場所、という感じでしょうか。

ストーリーラインが最も取りやすい「孫兵衛の顔」という作品では、同時に最も直截に、語り手の故郷である「谷」が題材にされています。「老人ばかり」の「母方の田舎」で、「ぼく」は自分のさまざまな表情を「父」や「父の父」になぞらえて受け取られます。〈川〉のように連綿たる血縁のつながりを見出す「老人」たちが「ひどく安心している」ことに気づいている「ぼく」は、「何も言わず笑う」ばかりです。

この光景は、微笑を誘うユーモアと解釈されるべきでしょうか? むしろ自分は、「谷」そのものが「ぼく」の自己同一性を解体し、「孫兵衛」のペルソナを頑なに要請してくる、ある種の恐怖をとらえた叙述として読んでしまいます。

作品の末尾で「ぼく」は結局、「祖母に見送られ谷を出て行く」ことを、つまり故郷ではない「町」で生活することを選びます。おそらく「町」とは、たとえば排水パイプが無数に張り巡らされた、誰にとっても故郷ではない場所のはずですが、しかし、ここには危険な逆説があります。すなわち、「町」に住むことは故郷を喪失し続けることを含意しますが、誰からも自己同一性を奪われない(かもしれない)という点で、その一点だけで「町」は故郷より故郷らしい、奇矯なふるまいを見せるのではないか?

この認識において、「谷」=故郷と「町」=異境はひとつに融け合い、〈川〉となって流れ始めます。重要なのは、これが矛盾を受け止めて高みを構築するような、止揚の運動ではないということです。それは諸星大二郎『生物都市』や塚本晋也『鉄男』のように、本来相容れない無機性と有機性が相容れてしまう、きわめてグロテスクな様相を呈しているように感じられます。

「すべての故郷の川は流れている」ことは、すべての故郷は遍在している、という意味ではなくむしろ、「深夜の排水パイプを流れる音」すらも「故郷」としなければならない、故郷喪失という苦役をあらわしているのではないのでしょうか(「それぞれに川は流れている」)。それは一面では「海にひらかれてい」くような全的統一への希求であり(「帰路」)、他面では「手という手たちが埋葬」される、どこか宇宙的恐怖を思わせる孤絶の享受(「手、の埋葬」)につながっている気がします。

一見して品の佳い言葉の選びようを装いながら、恐ろしくて懐かしい感覚とたやすく接続してしまう作品群は、もっと注目されてしかるべきかなと思います。オススメです。