一読してまず、モチーフの多彩さに驚かされます。
単純にいえば語句の幅広さ、ということになりますが、〈お茶の水博士〉(「猿」)から〈ばねのぱんだ〉(「Na」)、あるいは〈二日酔い〉みたいに青ざめた〈梢〉(「雨を待つ森」)から〈鳶の赭い翼〉(「ナンセンスだろスプリング」)まで、対象を汲み取り書き取っていく筆致がとても鮮やかで、それだけで惹かれるところがあります。
要するに文章の質が高いということで、この点では「風景メモ:北の稲妻」と題された作品が、わかりやすい証左となっているかなと思います。
おそらくどこにでもある堤防近くの風景の素描……というコンセプトである文章群が、すでに固有の「文体」を獲得している様には瞠目せざるをえません。
そしてもうひとつ、事物への認識の明晰さ。
何気ない静物の描出、その沈黙を描き取ることが、認識じたいの「コペルニクス的転回」を導く瞬間が、いくつもの作品で的確にすくい取られている印象です。
たとえば「罪の道」という作品において、死の象徴として立ち現われた〈鴉〉は、〈赤い内腑〉をあらわにする〈狸〉の存在によって、害意あるいは「罪」としての徴を与えられます。そして結末部に挿入された飛翔のイメージによって、それそのものが忽然と、〈旅路〉として捉えられるのです。
「罪」を負って飛ぶその姿に、つたない言葉を使えば私たちの生が託されていることはいうまでもありません。
緻密な観察こそがまことの他者との出会いとなる、そのお手本を見せられるような心地です。
当たり前のことですが、他者との出会いとは必ずしも甘美な体験ではなく、むしろそれが厳然たる、他者とのすれ違いとなることもあるでしょう。
同じ場所にありながら異なる何者かである誰かとの対峙、緊張、憂愁が最も鮮烈に描写されているのは、「同舟」という作品かもしれません。「舟の上」に在りながら「背中合わせ」に「過去ばかり」見ている、誰かと誰か。
他者が他者である一瞬を、無駄なく切り取った佳品という印象です。
「同舟」がすれ違いの「瞬間」を描いているのだとすれば、「嵐」はより遠大な時間性と空間性を把握したうえで、ほとんど映画的なモンタージュを駆使した傑作です。あまり書きすぎても鑑賞のお邪魔になるかな……と思うのでこのへんでやめておきますが、とにかくすばらしい作品です。
というわけでだいぶ長くなってしまいましたが、それだけ忘れがたい、固有のものを宿した作品が集められています。
ひとりでも多くの人に読まれることを願います。