階級とコミュニケーション、あるいは諦めながらも去らないこと

まだまだ更新の途中な雰囲気ですが、いったん本作を通読して連想したのは、これら三つのキーワードでした。

いきなり話が脱線しますが、カフカの「夢」(だったかな?)という掌編は、語り手が墓に埋葬される夢を見るという、端的にはそれだけの小説です。もちろんカフカなので語り手は恐怖を感じるはずもなく、埋められる己の存在を感じながら「うっとりして」いて、うっとりしているとふいに眼が覚めて、小説は終わります。

対してこちらの「視界」という作品では、「ウイングチップ」の持ち主である誰か――会社?上司?取引先の人間?――に「私」が「三つ指を立て」ていると――地に臥せって叩頭の姿勢を取っている?――、その肉体が「床の下」へ沈んでいく、この顛末と諸感覚が描かれます。

「夢」でとらえられた甘美な消滅願望にくらべると、そこには自己破壊への衝動がじっとりと滲んでいます。「記憶にないはずの揺り籠」で「眠る」結尾を採らされる「私」には、目覚めによる世界への復帰すら拒まれている気配が濃厚です(カフカ自身がプラハの小官吏として生涯を全うしたことを思えば、その対比はもっと強烈になるかと思います)。

ではひるがえって考えるに、「私」が眠りから覚めることを拒むものは何でしょうか? 作中において、「私」は叩頭と同時に「重力に耐えてい」ますが、自分はこれをメタファーとして読みました。つまり「私」が耐えているのは「重力」ではなく、実のところ〈階級〉なのではないか? ということです。

ここでいう〈階級〉とは、もちろん「革靴」と「スニーカー」に象徴される、富と権力の差異を想定しています。「夢」の主題が自足的な消滅であるとすれば、「視界」はむしろ他律的な、消滅の〈させられ体験〉とでもいうべき夢想――そのトリガーが「革靴」への屈従であることはいうまでもありません――を活写することに主軸が置かれています。ある種の迂遠さを抱えるこのモチーフを、この簡潔さと、今・ここの風俗を下敷きにして描いてしまう眼力には、非常にすぐれたものがあるのではないか?……となんかエラそうに語ってしまいましたが……とにかくすげえッ!の一言です。

しかし一方で、妙な表現ですが自分は本作に、ある種の希望のようなものを感じます。つまり〈階級〉という構造が二項を――自分と他人を、あるいは労働者と使用者を?――要求するモチーフであることによって必然的に要求される〈コミュニケーション〉が、この作品にはつねに内在しているのではないか?

とはいえ本作に収められた諸編を読んでみても、ふつうの意味での会話や他人とのやり取りが書かれている印象は受けません。しかしたとえば「深夜」での徹底的かつ映画的な「群衆」「野次馬」の描写は(個人的にはガス・ヴァン・サント『エレファント』やミヒャエル・ハネケ『71フラグメンツ』あたりを連想しました)、消滅に自足し他人を等閑視するひとの目線では書けないものだと感じます。そこには表層的な会話を超えた、無関係との関係とでもいうべき、深い〈コミュニケーション〉があらわになっているように思えてなりません。

あるできごと、ある事件の只中で「諦めているのかもしれない」のだとしても、諦めながら去らないこと、そこに立つことがどれほど難しいことか、レビューを書いている自分も、日々の暮らしを通して痛感しているところです。それが忘れていたい苦々しい感覚だったとしても、そのような闇をこれほどありありと書いていただけたことに、作者の方の作意と違う点があったとしても、心から謝意を述べたく思います。

熱に浮かされて限界レビューとなってしまいましたが、決して難解な作品ではないので、とにかく読んでみてください。これはマジでおすすめです!