最終話 君が沈む

 一番最初に認識したのは、電子モニター。耳障りな高い電子音はこれの仕業だったか、と心電図モニターを見ながらぼんやりと思った。

 目は開いても、なかなか寝返りを打つ気にはならなかった。ようやく、首だけをゆっくりと動かした。

「あ、気がついた」

 窓を背にしているので、その人を見るとひどく眩しい。逆光の長身の人は、うれしそうにわたしの顔を覗き込んだ。

「どこかつらくない?」

 問われるが、声は出ず、体はおもりがついているように重たかった。首を振ることもできず、諦めてわたしは瞬きをした。長いこと膨らんでいたお腹が今は小さくなっていたが、軽くなったとは思えなかった。

「無理してしゃべらなくていいよ。丸一日眠り続けていたんだから」

 頭痛がする。頭も体もどうしようもなく重たかった。

 どこからだろう、懐かしい曲が聞こえてきた。じっと耳を澄ますわたしに気付いたその人は、

「そう。死んじゃったからね。来日公演も決まってた矢先だから。また特番やってるよ」と病室の外に目をやった。

 来日公演を控えていたアメリカのロックバンドのメンバーが事故死したニュースは、数か月たった今でもときどき特番を組まれるほど話題になった。

「誕生日おめでとう。眠っている間に30歳になったよ。それから、ありがとう。小さめだけど元気だよ。今は保育器に入ってる。あとで会いに行こう」

 頭を優しく撫でる手は無骨だけれどあたたかい。あぁ、帰ってきたのだとわたしは思った。

 では、どこから帰ってきたのだろう。

「和樹くん・・・・・・」

 わたしはかすれる声で、夫の名前を呼んだ。

「成美、泣いてるの?」

 ひどく喉が渇いていた。からからに渇いていた。


 わたしは丸一日眠り続けたのが嘘のように、順調に回復した。

 壊れそうなほど小さな我が子を、壊さないように慎重に抱いて、わたしは退院の迎えを待っていた。

「ごめん、遅くなった。家を出るとき不思議なことがあってさ」

 そう言って和樹が差し出したのは、わたしがかつて使っていた携帯電話だった。二つ折りで、今ではガラケーと呼ばれる旧式だ。それはパールがかった空色で、それがとても気に入っていた。

「これが急に鳴り出したんだよ。書斎のガラクタ入れに無造作に入れたろう。音を頼りに探したよ」

 わたしは怪訝けげんに思いながら受け取る。その懐かしい重さに何故か胸が騒いだ。

「うーん、電池ないみたい」

「ありゃ、結構長い間鳴ってたんだけど。なんだったんだろ」

 それきり、わたしはすっかり忘れていた。帰ったら充電してみようとは思ったが、家に着いたら慣れない育児の連続で、古い携帯電話が鳴ったことなんてすっかり頭から抜け落ちていた。

 その存在を思い出したのは、子供が生後半年を過ぎてようやく落ち着いて昼寝をしてくれるようになった頃だった。

 そういえばと思い、古い充電器を探し出して充電してみた。小さな赤いランプが点灯してほっとする。

 少し時間を置き、電源ボタンを押す。やがて起動したのを確認すると、未読メールが一件あった。

 差出人は懐かしい友人の優で、日付は一年以上前だった。メールアドレスは変えてなかったのでいま使っているスマートフォンに届くはずなのに、と不思議に思った。

 件名は『ありがとう』だった。

『優だよ、元気? 生まれたよ。赤ちゃんも美和さんも元気! 麻子ちゃんもうれしそう! これもみんな、なるちゃんのおかげだよ』

 短い本文の下に、画像が添付されていた。

 わたしの知らない女性が赤ちゃんを抱き、その人のかたわらでうれしそうに少女が笑っていた。

 優が撮影したのだろう。彼は写っていなかった。

 年上と見られるその人は、綺麗で幸せに満ちた優しい表情が印象的だった。何故かその人から目が離せなかった。

 その写真一枚で、家族のぬくもりが伝わってくるようだった。いい写真だな、と思い、俺は写真家の卵だと以前優が言っていたことを思い出した。

 その瞬間、強風になぶられたような衝撃が全身に走る。眼前に、本来見えているはずの情景じょうけいとは異なる映像が駆け抜けた。それは次々に切り替わり、膝がガクガクと震え、わたしは立っていられなくなった。その場に崩れ落ち、震える手で口元を覆った。嗚咽おえつが洩れる。涙がせきを切ったように溢れる。


 過去の思い出になっていたはずの健太からメールが届き、懐かしさと後悔と封じ込めたはずの感情とで呼吸もままならなくなったあの日から、わたしたちはささやかなメールの交流を始めた。

 わたしは結婚をしたことも言い出せず、

「これは懐かしい友人と昔話をしているだけ」と自らに言い聞かせながら、日々の他愛もない話題のメールを続けた。

『ZEROspaceが来日するね』

 九月に入ってもまだまだ暑さが残っていた頃、健太からメールが来た。その文字を目で追うだけで、胸がヒリヒリしたことを覚えている。

 それは付き合っている頃、共に好きだったアメリカのロックバンドだった。ネットで検索すると、来年のゴールデンウィークに数日間に渡って大規模なライブコンサートが開催されるとのことだった。

 わたしは無意識に、シャツの胸元を握り締めていた。胸が痛み出すのを堪えられなかった。

『あの声は、一度は生で聴いてみたいな』

 次につづられた健太のその一言で、わたしの意識は一瞬であの頃に立ち返ってしまった。付き合っていた頃、ただ健太が好きで、共に同じ曲を聴いていたあの頃。

 許されないことだとわかっているから、どうか一日だけ許してほしかった。

 チケットを二人分取ったことを伝えると、

『最近の曲は全然聴いてないから予習しておかなきゃ』という返信があった。文字だけなのに、健太が笑っているのが見えるようだった。

 まだ先のこと。それなのに、何時の電車に乗れば夕方の公演に間に合うだろうか、その頃の気候は暑いだろうけれど羽織るものを持ったほうがいいかなど、細かなことを気にした。それほどライブは楽しみだったし、健太に会いたかった。

 11月のある日。以前勤めていた会社が倒産した日からちょうど一年が経った頃だった。朝のニュースを見ていた夫が慌てた様子でわたしを呼んだ。「なぁに?」と返事をしながら、彼が見つめるテレビの画面を見た。

 わたしは無意識に口元を手で覆う。小さな呻き声が出たかもしれない。速報として、ZEROSpaceのヴォーカルが死んだと報じていた。酩酊状態での事故死だった。その後も色々な憶測が飛び交ったが、ただ真実とわかるのはそれだけだった。

 それでも、わたしは泣いた。もうライブであの声が聴けないのだと思うと涙が出た。一度でいいから聴いてみたいと言った人のことを思った。わたしはもうその人にも会えないのだと、涙でふやけた脳裏でぼんやりと思った。

 それから数週間後、わたしが妊娠していることがわかった。

 たくさん泣いたから、もう心は綺麗に洗い流されたと自分に言い聞かせた。もうなにも迷わないし、思い出さない。そう信じていた。

 それなのに、あの日。陣痛に長時間苦しみ、麻酔も効かず、無事に我が子が生まれたことも知らないまま、わたしは意識を失った。

 意識を失う瞬間、頭の中には夫のことも赤ちゃんのことも、健太のこともなかった。

 なにもない、思考は途絶えたまま。

 ただ、深い暗い青の深海に沈むような錯覚。

 気が付くとわたしは別の生活の世界にたたずんでいた。28歳のわたしは、一部の思考に靄がかかったような不安を感じたが、それもすぐに忘れた。5月の爽やかな日差しに気分を躍らせながら就職したばかりの印刷会社に通い、数日経った頃に健太にメールをした。

『ご無沙汰しています。実は都内に引っ越してきました。都合のいいときに飲みましょう!』

 わたしは膝を抱えて泣いた。天を仰ぎ、嗚咽も殺さず、声を出して泣いた。流れた涙が首を伝い、シャツの襟元を濡らした。

 もう傷は痛まない。わたしは長い夢を見ていた。

 深い海の底に横たわり、わたしは長い夢を見た。それはわたしの妄想で、夢で、細いかすかな糸でられた希望だった。

 片付かなかったジグソーパズルの最後のピースが埋まった。ようやく思い出の蓋ができる。

 健太のことが大好きだった。健太と別れてから、小さな後悔が少しずつ堆積し、息もできないほどわたしを苦しめた。誰でもいいから、わたしを解放してほしかった。

 わたしは空色の携帯電話を持ち、ゆっくりと撫でた。

 その側面に、ざらりと引っ掛かる大きな傷がある。

 激しい雨に追い立てられ、健太の部屋へと走ったとき。雨で濡れた手から携帯電話が滑り落ち、激しくアスファルトに打ち付けた際に付いた傷だ。健太が拾い、手渡してくれた。

 わたしはその傷をそっと撫でた。まだ雨に濡れているかのようにひんやりと冷たかった。

 心の傷はもう痛まない。

 もしあなたを思い出し、古い火種ひだねが心をチリチリとがすことがあっても、あの日に立ち返ればあの白雨はくうがたちまちに消し去ってしまうだろう。

 わたしはもう深い海に沈まない。

 わたしは浮上したのだ。あなたとの思い出をあの深い海に置いて。


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深い海に沈む 七瀬 橙 @rubiba00

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