第6話 儚い青が終わる

 午前中だけ仕事をして、駅で待ち合わせたわたしたちは電車に乗った。空いていた席に二人で並んで座る。健太の肩が軽く触れるが、気付かないフリをする。

「成美ちゃん、ちゃんと食べてる?」

 表面だけ硬直していたわたしは、ゆっくりとぎこちなさを隠しながら彼の方を向く。体の表面が固まって、パリパリと音がするようだった。

「ちゃんとご飯作ってる?」

「だ、大丈夫! ちゃんと作ってる」

「へ~」

 心底可笑しそうに笑うので、わたしは顔が赤らんでいく。鼻筋が汗ばんでいくのを感じた。

「なに作った?」

「・・・・・・きちんとレシピ見て作ったのは、ラタトゥユかな」

 自炊はしていたが、きちんと名前のあるものでかつレシピを見て作った料理は多くない。

「え、俺食べたことないよ~。ラタトゥユってなに?」

「・・・・・・夏野菜たっぷりの煮物、かな?」

 わたしはだんだん自信がなくなってゆく。「成美ちゃん食べたことあったの?」と聞かれて、わたしは首を横に振る。

「ははは。食べたことないなら正解かどうかわからないね。おいしかったのなら成功だろうけど」

 わたしも思ったことなので、苦笑する。いちいち健太の言うことは的確だ。憎らしいくらいに。

 乗り換える駅で、お互い自動販売機で飲み物を買った。ずっと乗ってみたかった電車に乗る。平日なので空いているかと思ったが、地元の学生などが多く乗っていた。レトロでかわいらしい車内は、心地よい生活感を運んでいた。

 窓からはのどかな風景。こんなとき、どんな音楽が似合うだろう。わたしは移動するとき、そのイメージに合った音楽を聴くのが好きだった。

「そういえば。健太さんに教えてもらってすぐ見たよ。『ショーシャンクの空に』」

「あー、懐かしいね」

「あと、小説は読んでないけど五木寛之原作の『大河の一滴』を見たよ。セルゲイ・ナカリャコフのトランペットが素晴らしかった」

 健太が笑って聞いてくれる。あの頃、健太は五木寛之の小説を読んでいると言っていた。

 ずっと話したかったのだ。空白の時間を埋めるようにわたしは話し続けた。

「あれからたくさん映画を見たし、本も読んだよ。でも、流行りの映画じゃないと誰とも話が合わなかった」

 ずっとわたしは健太と話がしたかったのだ。

「『フライド・グリーン・トマト』がよかった。見たことある? 古い映画だけど、すごく好き。わたし、毎週末はずっと映画を見てた。お盆休みはずっと小説を読んでた。映画を見ても、小説を読んでも、誰とも共有できなかった。ずっと・・・・・・」

 健太を見た。ずっと、会いたかった人。

 やっと呼吸ができる、止まっていたわたしの世界に燦然さんぜんと光が差す。

「ずっと、話がしたかったの。健太さん。だから、ここまで来たの」

 わたしはそこまで言うと、健太から逃げるように視線を窓の外へ向けた。

 なにか言ってほしい、でも怖くてなにも聞きたくない。

 健太の前ではどうしてこんなにも素直になれないのだろう。

 怖いのだ。

 あんなに好きだったのに、好きすぎて拒絶された。その記憶が邪魔をして、なかなか踏み込めない。今だって、いつ拒絶されるかと恐怖におののいている。

 お願い、わたしはこれ以上求めない。だからお願い。もう少しだけ、側にいさせてほしい。

 言葉にできない願いを、心から祈った。


 平日の午後だと、有名な水族館であっても空いていた。大きな水槽の前で、青色に染められながらわたしたちはただ黙っていた。

 静かな館内で、ときどき遠くから子供の声が聞こえていたが、あとはなにも聞こえない。水質を管理する大きなモーターの音が館内を包んでいて、小さな音はかき消されているのだろう。

 ゆっくり泳ぐ魚たち。ときどき、大きなウミガメもいて、さらにゆっくりと泳いでいた。

 どれだけここにいただろう。呼吸のたびに、ひんやりとした青色が胸の奥までみていくようだった。

 まるで自分も水中にいるような錯覚。

 そうか、だからわたしたちは言葉を発さない。わたしたちは水中の魚なのだ。

 そこまで考えて、わたしはそっと笑った。コポコポと音がしそうだった。

「いまだったら、寝転がって見るのもおすすめですよ」

 突然人間が現れて、わたしはびっくりした。ゆるゆると言葉を理解する。

「空いている時だけの秘密の楽しみ方です」

 飼育員だろうか。「秘密」といった時のしぐさがかわいらしかった。

 わたしは大きなストールを持っていたのでそれを敷くことにした。水槽から少し離れて、ごろんと横になる。

 こうすると天井に届くほどの大きな水槽が視界いっぱいに広がり、深海にいるような気分になった。遠くで水面がきらきらと光っている。

「わぁ、これはすごい」

 思わず言葉にしてしまった。魚になったはずなのに、自分で台無しにしてしまった。

 健太の手が触れる。そっと指をからめる。

 わたしはただ魚を見ていた。群れる小魚を見て、ときどきエイも見た。

 彼らにわたしたちは見えているだろうか。

 わたしはこのまま魚になりたいと思った。健太と一緒に、この水槽に閉じ込められたい。一緒になら飼われてもいい。広い海の中でははぐれてしまうから、この狭い水槽の中で一緒にいられたらいい。

 余計なことは考えず、与えられる餌をみ、騒がしい好奇の視線にも気付かぬよう努力して、他の種の魚たちにも多少の配慮をしながら、健太と泳いでいられたら幸せだ。

 目を閉じると、青の光に満たされて、ゆれる。ゆれる、ゆれる。

 きっとこれを幸せと呼ぶのだろうと、わたしは泣きたい思いで心に刻んだ。


「もっと早く来ればよかったね」

 帰りの電車に揺られながら、健太がぽつりと言った。紫陽花あじさいの見頃は大分過ぎていた。

「紫陽花好きだから残念だったな」

 健太に再会して、3か月が経とうとしている。季節は晩夏に差し掛かっていた。

「梅雨の時季は映画ばかり見ていたね。なんで思いつかなかったんだろう」

 それほど充実していた。健太に再会して、退屈に思ったことは一瞬たりともなかった。

 楽しければ同時に胸が締め付けられるような息苦しさを感じ、お互いが家に帰るときはまた会う約束ができることに胸の奥が沸き立つように熱くなった。

「そういえば、健太さんちからスカイツリーが見えるんでしょ。いいなぁ」

 少し眠気を感じたので、話をしようと思った。部屋からスカイツリーが見えるというのは、再会する前のメールのやり取りで聞いていた。

「そうだね。でも普通に生活していたら自然と目に入るものだから、あまり気にしてないよ」

「そんなものかなぁ」

 以前、メールに小さな写真が添付されていた。窓枠に縁取られたスカイツリーはライトアップされていてとても綺麗だった。

 そのことを話すと、

「じゃあ見に来る?」

 これから、と健太が言った。


 駅を出てしばらくしたら、急に雨が降ってきた。

 迷いをぎ取るような性急さで雨に追い立てられ、わたしたちは走った。

 それほどの距離ではなかったが、それでも運動不足なわたしの息は充分上がっていたし、雨に濡れたシャツが肌に張り付いていた。

「とりあえず入って。このタオル使って」

 部屋の明かりをつけ、健太が他の部屋に消える。タオルを受け取ったわたしは濡れた体を拭きながら、遠慮がちに周りを見渡した。

 健太らしい、シンプルな部屋。整理整頓されていて、本棚には多くの本が収納されている。落ち着いたトーンで統一されているが、ところどころに青色のものがパーツのようにちりばめられていて、彼の好きな色は青だったなとわたしは思い出した。

 部屋の中心あたりでぼんやりしていたら、急に部屋の明かりが消えた。

「そこの窓。窓は小さいけれど、見えるでしょう?」

 健太の声が思いのほか近くでした。

「あ、ほんとだ。かわいい」

 部屋が暗くなったことで、スカイツリーがよく見えた。確かに窓自体は小さかったが、それが却って、まるで秘密の宝箱を覗き見たときのような高揚感を与えた。

 無機質なはずのそれがまとうのは、砂糖菓子のようにやわらかな色彩。以前に添付されていた写真のままだった。その場所にわたしが今いる。そのことが信じられない。

 わたしは静かにその灯りを見ていた。雨が窓にぶつかって、雨粒が幾筋も伝っていた。

「ああ、もう。全然拭いてない」

 急に頭からタオルを被せられ、周りが見えない状況でわたしは息をのんだ。大きなタオルごと、健太に抱きすくめられていた。硬直する わたしを大きく拭いたあと、まるで壊れ物を扱うような慎重さでタオルを取り払った。

 ぎゅっとつむっていた目を開け、ゆるゆると顔を上げる。わたしに向けられた健太の視線を、正面から受け止めた。

「……ケータイ、壊れてなかった?」

 瞬きもせずにかすれた声で問われ、わたしはすぐに答えることができなかった。

「勢いよく落としたし、かなり濡れてたと思うけど」

「あ、うん。さっき画面を確認したけど大丈夫だったよ」

 話す内容に不似合いなほど強い健太の視線に耐えかねて、わたしは逃げるように目を伏せた。

 強い力で腕を引かれ、わたしはつまづくように彼の胸へ抱かれた。健太は既にシャツを着替えていて、洗剤の清潔な香りがした。わたしは自分の服が濡れたままであることを思い出して、夢中で彼の胸を押した。

 伸ばした左腕がれて、より体が密着する格好となった。バランスを崩した体を抱きとめられ、気がつくとわたしはソファに横たわっていた。

 その角度から、窓がよく見えた。健太の肩越しに、淡い光がこちらを見ているようだった。

「ずっと、考えてたんだ。いつだって、どんなに理屈をこねたって、自分でも嫌になるくらい」

 影を落とした健太の表情は読み取れない。ただ、いつになく震えた彼の声が、わたしの内臓深くまでえぐるようだった。

 健太の肩へと伸びていた腕をゆるゆると引く。その途中、わたしの手にその光を浴びて光るものがあった。

 わたしはそれを茫然と見つめた。

 健太も、動かなくなったわたしに気付いた。わたしの視線を追って、

「あれ、成美ちゃん指輪なんてしてた?」とわたしの左手を不思議そうに見つめた。



 言いたいことも言えずに、下手にかっこつけて。

 そのくせ終わったことと片付けられないまま何年も心の中を散らかしたままにして。

 新しい恋をしても、不意にあなたを思い出す瞬間が確かにあった。

 いつだってあなたを忘れられなかったとは言わない。ずっと変わらず、あなただけが好きだったわけじゃない。

 あなたは、心の奥に潜む深海に、ずっといた。そして、わたしが予期しない一瞬の隙に首をもたげるのだ。

 そのたびに、わたしは足元に散らばったあなたの欠片かけらを拾い上げてしまう。

 あなたとは寒い季節に恋をして、たくさんの逢瀬おうせを重ね、春の暖かさを知る前に別れた。

 たった3ヶ月だけだ。

 散らかったこの場所に、わたしはいつも立ち返ってしまう。

 いつだってあなただけが好きだったわけじゃない。

 わたしは、あなたと別れてからずっと散らかったままの可能性という名の後悔を片付けたかった。それらをひとつひとつ潰していかなければ、わたしはどこにも行けないとわかっていた。


「健太さん、わたしはずっとあなたのことが忘れられなかった。健太さんと別れるとき、思わず口をつぐんでしまったことで、何年も何年も立ち止まったままだったの。あなたとの日々は眩しいほどに輝いていて、あなたに恋をしていた時間が宝物のように感じた。後悔ばかりが散らばって、身動きが取れなくなった」

 わたしの左手にはシンプルな指輪がすっかり馴染んだ様子で輝いていた。

 そうだ、わたしは結婚したのだ。

「どうしてもっと早く連絡してくれなかったの。どうしてもっと早く、わたしは素直になれなかったの」

 健太からのメールを受け取る少し前、わたしは付き合っている人からのプロポーズを受けた。もちろん真剣に交際していたし、彼のことは大好きだった。ただ、微笑んでうなずく瞬間、ほんの少し胸をざらりと撫でるものを感じただけだ。

「もし結婚する前だったら、わたしは健太さんに会って、後悔もみんな片付けてしまいたかった。付き合っている彼を捨てて、健太さんとまたやり直したいなんて考えてない。ただ、この散らかった心の奥底を、整理したかったの」

 そうしなければ、わたしはこれ以上前には進めないと思った。

 それでも時間は留まることなく流れ、結婚指輪はわたしの左手にしっとりと馴染んでいった。

「健太さん、あなたが本当に好きだった。大好きの只中ただなかであなたと別れ、後悔やわだかまりがおりのように堆積たいせきして、いつも酸素不足だった。それでも、また人を好きになることができて、優しい愛に満たされて結婚をするはずだった。あの日、あなたからメールが来た日。わたしは心の瘡蓋かさぶたを剥がされてようやく、あなたに拒絶されたときの傷が癒えていなかったことに気付いたの」

 気付いたけれど、わたしはどうすることもできないまま、ただ茫然と時が流れていくことに抗わなかった。傷口からは静かに少しずつ血が流れ、治まらない痛みに痛覚が麻痺したらいいのにと思った。

 健太さん、健太さん、あと何度呼べるだろうか。あぁ、終わってしまう。わたしはどうしようもない喪失感に胸がぺしゃんこにされる苦しみに耐えながら、嗚咽おえつこらえずに泣いた。

「健太さん、あなたと過ごした短い冬の時間と同じだけ、別の季節を過ごしてみたかった。そうしたらあなたとの別れを消化できると思った」

 健太さん、あなたがかすむ。もうすぐ見えなくなる。声も届かなくなる。


 大きな水槽に横たわり、青い水に沈められたあの瞬間だけは、永遠だと信じたい。

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