ヤンデレヒロインの数奇な過去

ヤンデレ前史:心中物とファム・ファタール

 まずここで限定しておくことは、昨今確認することができるキャラクター性の一つである<男性がヤンデレ>であるコンテンツに対しては、現代特有の新潮流であるとして、その過去を問う事はない。すなわち、そもそも女性性・ヒロイン性の一種として今日におけるヤンデレが発露されたものであるという立場を取っている。

 この段階からして批判があることは想像に難くないが、本作の紹介文でも述べたように、この考察の目的は、未だ盤石とは言えないヤンデレ像に対し、過去の文芸からアプローチすることによって、ひとつの仮説を提供したものであって、必ずしも他のヤンデレ文化への解釈への避難もしくは新解釈の提示ではない。


 往々にして文化は継承・伝播されることは疑う余地が無い。それは批判という形式であっても同様である。当然、有史以前の文化芸術に関しては、定説はあっても、明瞭に証明できたとは言い難い点はある。

 しかし、近現代の文化に関して言えば、その情報媒体の保存性が高まったのみならず、その種類に関しても一挙に増えた。例えばそれまでの時代では文章の他に、演劇か絵画などによって、その情景を表現したが、近現代ではそれに写真や録音、映画や映像など多岐にわたる。それ故に、どのように文化が変容したか、キーとなる一出来事を探るのは困難であるが、一方でその大まかな流れは把握することが可能である。


 さて、ヤンデレを主としたコンテンツは一般に「メリーバッドエンド」であることが多い。メリバと略されるこの概念は、解釈可能性が多様ないわゆる「Open-ended」であり、すなわち、受け手の解釈によって、幸福と不幸が入れ替わる結末のことである。愉快な事を指す「merry(英)」と不幸な結末を示す「バッドエンド(和英)」を掛け合わせたものだ。

 例えば「どんでん返し」などが人気を集めるのは、その娯楽性の高さに由来するが、なぜメリーバッドエンドが作品性として定着したのだろうか。

 ここで、〈いや、メリバなど聞いたことが無い〉と言う人も多いだろう。だがしかし、メリバの代表例として、アルデンセンの『マッチ売りの少女』やウィーダの『フランダースの犬』、そしてわが国の古典『ごんぎつね』を思い出してもらえれば、いかに初等教育等の読書に展開されているかが分かるだろう。

 ここで諸外国の文化受容を論じるのはやや困難を極めるため、わが国に絞って考察してみたい。


 上記のような作品例によって、やや印象が薄れてしまったかもしれないが、メリバの形式でよくあるものに「心中しんぢゅう」が挙げられる。

 心中とはご存知の通り、本来は相思相愛の仲にある男女が双方の一致した意思により一緒に自殺または嘱託殺人することを意味し、あるいは『情死』ともいう。

 当事者にとっては、死による愛が結ばれるなど「ハッピーエンド」であるが、一方で社会的には不幸であると捉えらえるなど「バッドエンド」とも言える。これがメリバの特徴である。

 現代社会でも、安楽死が議題に挙がり、自殺へも一概には語りきれない。そのようななかで、なぜ心中が娯楽として描かれるのだろうか。

 例えばミステリー・サスペンスは、殺人等のタブーを通して、謎ときや人物描写を楽しむものとされる。

 一般に推理小説の生みの親とされるのは、エドガー・アラン・ポーであり、彼が活躍したのは1835年頃からである。興味深いのは、当初、恐怖小説として活躍した点であるが、これは<狂気への関心>であるとして、あとに述べることとする。

 日本において、心中は来世思想にも関連がある。来世思想の一例を挙げるならば、『源氏物語』の桐壺帝と桐壺の更衣との当時としては異様な愛情関係は、言うなれば「よほど前世の因縁が深かったのだろう」といった具合に書かれている。


 このように、文学の中で来世思想が表現されることは多々あったが、特に心中に関しては近世・近松門左衛門などによる『心中物』がある。文字通り、心中や情死を題材とした人形浄瑠璃・歌舞伎・歌謡のジャンルのひとつである。

 心中を題材とした歌舞伎は、1683年、大坂生玉の新町遊廓の遊女大和屋市之丞と呉服屋の御所の長右衛門による心中事件を大坂で舞台化したのが最初であるといわれ、近松門左衛門が1703年に、心中物の代表作『曽根崎心中』を発表し、以降、心中物の連作がつくられていったという歴史がある。

 それによって民衆間では、情死・心中が美化され、当時の男女がこれを賛美する傾向さえ生じたとされる。

 8代将軍・徳川とくがわ吉宗よしむねは、退廃的な風潮を是正するため、1722年、『相対死』という名称で禁令を出した。

 その内容は、「不義で相対死をした者は死骸を取り捨てて弔わせず、双方存命ならば三日晒しのうえ『非人』にすること」であり、翌年、江戸町中にこれを触れているなど、その人気の度合いが推し量られる。

 このように、比較的近い文化の歴史において、心中物というメリバが愛好されたのであった。


 ここで、その後、西洋に起こった19世紀末から20世紀初め頃の世紀末芸術において好んで取り上げられたモチーフを紹介したい。それは「ファム・ファタール(仏: Femme fatale)」である。通常、男にとっての「運命の女」というのが元々の意味であるが、同時に『男を破滅させる魔性の女』のことを指す場合が多い概念だ。

 そしてファム・ファタールには代表的ヒロインが存在する。

 その名はサロメ。

 1世紀頃の古代パレスチナに実在した女性で、義理の父は古代パレスチナの領主ヘロデ・アンティパス、実母はその妃ヘロディア。

 彼女はそう、イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの首を求めた人物として、キリスト教世界では古くから名が知られ、その異常性などから多くの芸術作品のモチーフとなってきた人物である。

 新約聖書においてその名は記されていないにも関わらず、少しずつイメージが変容し、ついには魔性の女となった。その一役を買ったのはフランスの象徴主義画家ギュスターヴ・モローの『出現』などの絵画とされる。

 母へロディアの策略としてではなく、サロメ自身の望みとして首を欲したという傾向を一段と顕著にさせたのが、オスカー・ワイルドによる戯曲『サロメ』。フランス語で執筆され、1896年にパリで初演。

 サロメを全体の主人公として前面に出し、洗礼者ヨハネに強く魅せられたサロメがその誘惑を拒絶するヨハネに対して、ヘロデの要望で「7つのヴェールの踊り」を舞った代償としてヨハネの首を求める。

 そしてその最終場面では、その首にサロメが口づけするというもの。

 日本で最初にサロメ役を演じたのは日本初の整形美人女優・松井須磨子であり、1913年12月、島村抱月の芸術座による帝国劇場での上演である。

 余談だが松井は、1918年11月5日、恋仲にあった抱月が病死すると、いわゆる後追い自殺を行っている人物でもある。

 注目してもらいたいのは、モローの絵画を経てワイルドの戯曲も世界的にヒットし、日本でも早くに上演されているという事実である。

 その後しばらくして、『サロメ』に類似した事件が1936年5月18日に東京市荒川区尾久で発生する。

 性交中に愛人男性・石田吉蔵を扼殺し、局部を切り取った事件、通称「阿部あべさだ事件」。

 定は包丁で彼の性器を切断し、雑誌の表紙に陰茎と睾丸を包み、逮捕されるまでの3日間、彼女はこれを持ち歩いたという。

 また、定は傷口から流れ出た血でシーツに『定吉二人キリ』、左太ももに『定吉二人』と書き、石田の左腕に包丁で『定』と刻んだ。

 この狂気性に世間は「阿部定パニック」となったという。

 このように、文化のみならず、現実社会においても、狂気的な愛というものが話題に挙がることがあったのである。

 愛情の故に狂気的な結果を生む、ヤンデレ的な作品と言えば多くの人が『School Days』を想起することだろう。

 ここで注目してもらいたいのは、『School Days』におけるヤンデレ的キャラクターとして記憶される「かつら言葉ことのは」についてである。なぜ彼女がヤンデレの代表格と言い難いのかは、冒頭に述べた個々人のヤンデレ像が必ずしも一致しない「解釈」によって成立しているからであるが、彼女をヤンデレ黎明期におけるキーパーソンであると認めるならば、これらの事例もひっくるめてあることが分かる。

 周囲の嫉妬と嫌悪から受けた酷薄ないじめや、友人だったはずの「西園寺さいおんじ世界せかい」と、思いを寄せていたはずの「伊藤いとうまこと」の裏切りによって、彼女は狂気的な結果を生む。

 すなわち、彼女はなヤンデレヒロインなのである。


 これまで挙げてきた文化史的事例を思い出してほしい。

 近世における「心中物」はメリバとして主人公である男性と、そのヒロインの意思が一致して、世俗的には不幸な結果を生んでいる。

 それに対し、近現代の事例の特徴は、男性側とヒロイン側の意思が不一致なのであり、それによって不幸な結果が生じている。

 そしてそこには来世思想が確認できず、むしろ現世において、自身の望みを強制的に反映されていることが分かる。

 ここに、ひとつの課題として今もなお残される「メンヘラとヤンデレの違い(の有無)」が見えてくるのだ。


 つまり、ヤンデレコンテンツは分類上、基本的にメリーバッドエンドであるのに対し、ヤンデレとして知覚されだした当初の作品性・キャラクター性は、『School Days』でもそうであったように、「バッドエンド」として印象付けられるのだ。

 心中という身近で特殊な個性が関与しない事象に、19世紀末に既成のキリスト教的価値観に懐疑的で、芸術至上主義的な立場の一派である「デカダンス(退廃主義)」が台頭し、やがてそれは世紀末という現実と結びつき、文化人の間で他力本願的な破滅願望であるところの「ファム・ファタール(魔性の女)」が人気となった。また、怪奇ホラーから狂気グロテスクへと物語の事件設定は分岐し、やがては探偵(推理)小説なるジャンルにも発展する。

 そういった文化すらも大正デモクラシーは吸収し、「エログロナンセンス」という少女と狂気を対立美術として関心を寄せさせた。やがては太宰治などの日本におけるデカダン文学を育み、そして今日、ストーカー事件が世間を騒がせ、狂気的な、バッドエンドをもたらすヒロインが、今再びメリーバッドエンドという、少なくとも当事者間では幸福であったろうという物語形式を復古させるに至ったのであり、言わば強いて古典を意識しない、稀に見る文芸復古ルネサンスのひとつなのである。

 

 古典に依らないがために、先述したメンヘラとの問題も残される訳だが、むしろ、新たなる形式を探求しているこの現代こそが、後において「ヤンデレ」のクラシックとなることは言うまでもないことだろう。

 それを促すことこそ、本作を投稿する最たる目的であり、ヤンデレを論評・考察する使命の所以である。

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<ヤンデレ>という文化資本 綾波 宗水 @Ayanami4869

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