第35話 そして、アオが終わる日
南中からこぶし三つ分ほど傾いた太陽が、しかし、その威力を落とさぬままに地上を照らす。
白っぽく霞む空気は、熱と音とで、複雑な波に揺らめいていた。
ひと昔前に建てられた民家の塀から顔を覗かせる植木。そこから伸びる枝葉が、強い陽射しにも負けることなく、小さな木陰を作る。微かな風に吹かれながら、その形を少しずつ変えていく。
震える世界のその中心、音楽スタジオhorenのBスタジオ。
もう誰一人として、その目でアオを捉えることはなかった。視界に入ったとしても、次の瞬間には忘れてしまう。アオを認識することすらできないのだ。
彼らはただ、この状況をイベントの終了と認識し、互いを労っている。
すべてがスローモーションで再生されているかのように、アオには見えた。
ヘッドホンを装着したままの渡辺の横を通り過ぎ、開け放たれた扉からスタジオを出る。
たくさんの、何でもない言葉を交わしたロビー。
乱雑に置かれた録音機材。レンタル楽器。
コルク板に貼られた、未来に残るかもわからない写真たち。
すべて、作曲サークルに入ってから「大切」へと変わったものだ。
休んでいるのか、目を閉じたまま動かない貝塚をちらりと見て、アオは思い出の場所を後にした。
夏の深い青色の空が、アオを見下ろしている。
渡辺が発動させた能力は、この広い空を通じて、どこまでも届いているのだろう。――アオだけを置き去りにして。
アオは、このスタジオのある路地裏から人のいる大通りへ出るのが怖いと思った。
スタジオ内にいたのは、真意はどうあれ、逢沢の手の者たちだ。そうではない、まったくの他人が自分の存在をどう認識するのか。これから、それを知らなければならない。
知らず、食いしばった歯が、口の中で小さく嫌な音を立てる。
何もかもが遅かった。
もう十年も前から、逢沢は準備をしていた。
もっと早くに気づいていれば、違う未来を選べたかもしれない。自分が選択される未来に立てたかもしれない。けれども現実には、掴めなかった。
アオはそれを悔しく思うことすら悔しかった。それゆえに、悔やまない。
ただただ、空の青色が、目に染みた。
彼女はいつだって前を向いてきた。どうしようもないこの状況の中でも、また前を向く。
(……トウカ。あなたがいたから、私はまた、うたうことができたわ)
この幸せを決して忘れないと、アオは思う。
逢沢があのように言ったということは、トウカすら、自分のことを忘れてしまうのだろう。
誰もが忘れてしまったとき、どうなるのかはわからない。だが、それでも自分は歌の中にいると、アオは信じることができる。
アオはずっと、歌を、歌の力を、信じてきたのだ。
これからも、未来は続いていく。
けれども。
世界からひとりの歌うたいを消さんとするかのように。
空気が、痛いくらいにアオの表面をなぞる。
「――アオ!」
姿を見なくてもわかる。アオを呼ぶ声を発することができる人物など、世界でたったひとりしかいない。
アオの心に湧き上がるのは、息苦しいほどの寂しさと、喜びだ。彼女はやはり、アオを思い出しに来てくれた。
トウカの姿を視界に入れながら、アオは、口もとだけで薄く微笑む。
「……終わってしまったわね」
「アオ、うたって!」
走ってきたらしいトウカは、突っ込むようにしてアオの両肩を叩いた。
「流れているじゃない。聞こえているでしょう?」
「違う。アオの、本当の歌を聞きたいの」
両肩に置かれた手が、そのまま下に降りてきて、両手がぎゅっと握られる。
トウカの真剣な瞳は、いつかと同じ勢いを持っていて、それから、この一年と少しの間に積み上げてきた親愛の気持ちが込められていた。
「まったく、仕方がないわね。……オーケー、とっておきをうたいましょう」
呆れた表情を作りながらも、楽しそうに、うたうように言葉を紡ぐアオ。
もう感情を抑える必要もない。能力の発動を恐れる必要もなかった。
さあ、歌を届けよう。
今、世界中を震わせているものではない。
トウカの耳にだけ届く歌。これだけが本物なのだと、刻みつけるために。
回り続ける何かを 眺めていたの
私たちは同じ 環の外側にいて
たったふたつ 隣り合う歯車のように
耳を塞いでいても良いよ
口を開かなくても良いよ
ずっと あなたに出会うことを、望んでいた
これはアオがアオを取り戻した日、あのとき、アオがうたった歌だ。
新歓のポスターに書かれた詩に、アオは惹かれて。
堪えきれず溢してしまった歌に、トウカは惹かれた。
アオはうたいながら、軽く伏せられたトウカの顔をじっと見る。
堪能するように目を閉じていたトウカは、歌が途切れそうになったことに気づいたのか、顔を上げた。
握られた手が震えているのは、能力の発動による「言葉を流したい」という衝動を抑えるためか、それとも――。
「アオ、アオ。もっとうたって。じゃないとわたし、あなたを忘れてしまう」
トウカの声は、泣きそうなほどの必死さを孕んでいた。
当然、アオはそれに応える。より大きな声を絞り出すために、口を、喉を、大きく開く。喉が枯れてしまうまでうたい続けても良い、とでも言うかのように、笑いながら。
これでもう最後なのだと。そう、互いに理解していた。
ちらりと、停められたままの自転車にトウカが目を遣り、アオがそれに首を振る。
片手だけを繋ぎ直して、二人は歩き出した。
アオの右手と、トウカの左手。帰る場所は、同じだ。
いつかと同じように、そしてあれから何度も渡った、歩道橋。
上から見下ろせば、環状八号線を走る車が、キラキラと太陽光を反射しながら列をなしている。
拭われない汗が、二人の頬をつうっと伝った。
いつだってこの空の向こうに
希望があると知っていたから
いつだってこの空の向こうに
あなたがいると知っていたから――
アオはうたい続ける。
住宅地に響く、アオの歌。
ふわりと包み込むようなやわらかさを持ちながらも、芯を通したような、強い声。
自由で、突き抜けるような感情を湛えた、魅力的な旋律。
何人の耳をも向けさせるであろうそれは、たったひとりだけに向けられるには、あまりに甘美で。
自分の家に帰り着いたトウカは、脱力感とともに、囚われる。
「あぁやっぱり。アオの旋律が、世界でいちばん美しいよ」
「私も、トウカの言葉が世界でいちばん綺麗だと思うわ」
どちらからともなく、繋がれた手と手が強く握られて。
「……あ、駄目だよアオ。うたうの止めたら……」
ふっ、と緩んだ。
「あれ。あ、お……って?」
指先で、かろうじて掬っていたアオの情報が、するりと抜け落ちる。
何かを映そうとしていたトウカの瞳が、それを捉えきれずに宙をさまよった。
頭からこぼれ落ちるように、何かが消える。
その正体がわからなくて、傾げられた首。
今はただ、耳から入ってくるアオに関する情報を溢さないようにすることしか、できない。
「……えっと、何かを思い出せなくなったときは、monochromeの曲を聞く」
つい先程に決意した思いが、トウカを突き動かす。
携帯電話に入っている曲がmonochromeのものだけであることに、違和感はない。トウカにとってはmonochromeだけが大切で、monochromeの曲だけを聞いていたいから。
首に掛けていたヘッドホンを装着し、再生ボタンを押す。
その歌声は、ひどく懐かしくて、優しい気持ちになれるものだった。
心のずっと奥の方から、じんわりと温かくなる。
(……何だろう。知ってるのに、知らない)
歌の中にこもってしまったトウカを、アオはただ、見ていた。その奥に、岸と、フジサキの存在を感じながら。
彼らもきっと、トウカに託していたのだと。
ワタだってそうだ。アオとトウカの繋がりが、少しでも長く続くようにしてくれていた。
そう確信できる程に、五人は深く関わりあっていた。
「今度こそ本当に、さよならね。ありがとう、トウカ。ありがとう……」
――歌の中で、また会いましょう。
部屋からアオがいなくなっても、トウカは気づかない。
アオが目の前にいたことすら、忘れていた。
歌の中にいる大切な何かだけが、トウカの心を掴んで離さない。
トウカは慣れた手つきでリュックからノートとペンを取り出した。
新しいページを開き、
溢さないように、消えてしまわないように、丁寧に、丁寧に。
これはすべて、アオの歌を聞いて生まれた言葉だ。……だからこれは、アオだ。
世界中に溶けてしまった、アオという人間の存在を。彼女がうたった残響を。
何度、欠いたとしても。また、集め直すから。
欠いては、集め、書いては、集めて……。
トウカの頭の中で響く。何度も何度も、訴えかけてくる。
たったひとつの衝動。たったひとつの欲望。
彼女を。アオを。
――搔き集めろ、と。
<かき集めた青・完>
かき集めた青 ナナシマイ @nanashimai
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