第34話 空っぽの歌

 スピーカー機能にされたトウカの携帯電話から、岸の言葉が流れてくる。


 現在のCOLORFULのボーカル、みどりの父親であり、所属事務所を擁しているグループ会社の社長である逢沢が、取引先相手として超感覚研究所にいたこと。

 彼は今日、十年もの歳月をかけて準備したを行うということ。

 作曲サークルの行きつけであり、ワタとその父親である渡辺が働いている音楽スタジオ、horen。あそこが、逢沢のグループ会社によって経営されているということ。


 彼の必死な声音に、フジサキとトウカは真剣に、ひと言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。


『今までのことも、逢沢社長が指示していたとしたら。多分そのは、アオの能力を使うものじゃないかと、おれは思う』

「強めてたのも、そのためだったかもしれないってことだね」


 アオの能力が最悪の形で強められたとして、そこから想像できる結果にフジサキは眉を顰めた。


(あの能力がもっと強くなったら……)


 たとえば、忘れたアオに出会い直しても、忘れてしまう――覚えておくことができない、とか。

 たとえば、「忘れる」という能力の本質が情報の喪失にあって、アオの情報そのものが世界から失われてしまう、とか。


 考えられる状態はいくらでもあった。

 誰もがアオを思い出すことができない状態。それはつまり、誰もアオを知らないということだ。


『どうやってアオの能力を発動させるかは、わからない。アオは、トウカの前でしか、うたわないから』

「うん、アオはもう、変なところでうたったりしない」


 自信ありげに、トウカはそう言った。その瞳が寂しさと不安で揺れていることに、フジサキは気づいている。


『だけど、ワタたちは向こう側だ。それだけじゃない。うち研究所と取引をしてたんだ、必ず、能力持ちもいる』

「ワタや渡辺さんがどう思っていようと、関係ないということか」


(……あぁ、わかった)


 逢沢はきっと、こうも考えているのだろう。

 ――誰も認識していないのなら、はたしてそれは、存在していると言えるのだろうか、と。


 本当に、フジサキは忌々しいと思った。その考えに辿り着いてしまえる、自分のことを。

 それでも、逢沢と同じところに立つことは決してないと、断言できる。たったそれだけが、二人の違いなのかもしれない。

 アオの隣に立ちたい、立ちたかったという、願いこそが。


 パチン、と、トウカが自分の両膝を叩いた。


「じゃあ、早く助けに行かなきゃ――」

『待て』


 立ち上がりながらテーブルに置かれた携帯電話を手に取ろうとして、そこから聞こえてきた制止に、トウカは中腰のままで止まる。


『その前に、やっておくことがある』

「何?」

『たとえ、おれ自身がアオを忘れてしまったとしても、世界からアオを失わせるわけにはいかない。おれはそう思ってる。二人はどうだ?』


 そんなこと、決まっている。

 同時に頷いたフジサキとトウカの姿を、岸は見ていない。けれどもやはり、彼にはそれが伝わったようだ。


『……トウカ。monochromeを大切に思え』

「思ってるよ!」

『アオだけじゃない、おれたちのこともだ』

「当たり前でしょ、思って――って、え……どういう意味?」

『トウカも、アオのこと、忘れるかもしれない』

「え……う、うん……」

「あぁ、そういうことか。……そうだな、そうなったとしても、トウカがmonochromeを聞く理由がないと駄目だ」


 アオのことを忘れないように、アオだけを大切に思っていたとして。しかし、それを見失ってしまえば繋がりは簡単に消えてしまう。アオを思い出す手段すら失ってしまう。それだけは避けなければいけない。


 トウカが目の前の携帯電話とソファに座ったままのフジサキを交互に見る。

 それから、「わかった」と大きく頷いた。

 ぽすんと気の抜ける音を立ててソファに座り直し、もう一度頷く。その音とは対照的に、唇をきゅっと引き結んで。


「わたし、もうmonochromeしか聞かない。monochromeだけが好きだから。だから他の曲は、全部消しちゃう」


 フジサキの目の前で、すぐ行動に移すトウカ。

 膨大な量の音楽ファイルを全選択し、そこから慎重に、monochromeだけを除外する。


 そして押された、削除ボタン。残ったのは勿論、アオがうたっている曲だ。


「アオも、フジサキも岸さんも、会長だって。みんな大切だよ。アオを――じゃなくて、何かを思い出せなくなったときとか、違和感があったとき。わたしは絶対に、monochromeを聞く」


 だから、ね? と、トウカは笑う。


「アオを、迎えに行こう!」


 トウカが岸との通話を切り、携帯電話をズボンのポケットにしまって。

 フジサキはそんなトウカに急かされながら、立ち上がって。

 空調を、電気を消して、サー室の鍵を手に取って。

 ガチャリ。扉を開けた。

 アオのことを迎えに行くために。


 ――しかし。


「なん、だ。これ……」


 突如、空気と鼓膜が震えだした。

 震わせているのは、聞き覚えのある旋律と、の言葉。

 それを耳にするのは初めてのことであるはずなのに、フジサキは確信する。


 紛れもなく、アオの歌だと。

 そう思った瞬間、音が、彼の視界を埋め尽くした。


 いきなりの感覚に立っていられなくなり、フジサキは扉にもたれかかるようにして床に座り込む。

 その時にはもう、先程まで掴みかけていたは遠くへ消えていた。聞こえているのが、誰の声かもわからない、知らなかった。

 けれども、似た景色なら何度も見ていたはずだ。

 家で、大学で。……誰かの隣で。フジサキの能力は、それを知っているはずだった。


 思い出せない。思い出せない。




「大丈夫! 大丈夫だよ、フジサキ。わたしが、思い出してるから」


 聞こえてくる歌詞を、トウカも覚えていた。まさにこの場所で、最初に聞いたのだ。

 いつにも増して淡々とした語り口とともに。彼女が、抽象的で、良く言えば詩的だと評していた、あの言葉を。

 ワタがいたからこそ、少しも取りこぼすことなく残っている思い出だ。


(……かいちょーの、ばか)


 たったひと言。心の中に落としたこれだけで、文句はおしまいにする。

 彼にも事情があったのだ。そうでなければこんなことはしないはずだと言い聞かせながら。

 みんなが大切なのだと、トウカは決めた。それならば、彼の作ってくれた楽しい時間を抱えていたいと思う。


 大丈夫だ、今度はそう心の中で呟く。自分はまだ、アオを思い出すことができている。


 アオの歌によって能力を発動させているフジサキをサー室の中へ戻し、トウカは三号棟を、キャンパスを出る。一日で最も暑い時間、正面から照らす強い日差しにも構わずに、走る。

 歌はまだ聞こえていた。だが、甲州街道を渡る信号待ちで周りを見てみても、そこはあまりにも日常すぎる風景だ。もう、アオの歌が聞こえていることすら忘れているのかもしれない。


 トウカは気づいている。今この瞬間にも、思い出すアオが少なくなっているということに。

 これは空っぽの歌だ。心のこもっていない、ただ淡々としたナレーションに音程をつけただけのもの。トウカの能力は発動しているが、言葉を吐き出す必要もないくらいに、空っぽの歌。

 その分だけ、戻ってくるアオの情報も減っているのだ。


 それでも一年前、アオがうたうことを望んだ自分は間違っていなかったと、トウカは胸を張って言える。


(アオの歌は、本当に凄いんだから。……こんなのじゃなくて、ちゃんとフジサキにも、岸さんにも……かいちょーにだって、聞かせてあげたかったな)


 早くアオに会って、彼女の本当の歌を聞きたいと思った。

 トウカのスニーカーが、乾いたコンクリートを蹴る。


 空気はまだ、アオの歌で震えている。

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