見知らぬ指輪

吉岡梅

第1話

 手指にはそれぞれいわれがあるという。曰く、親指は成功や活力の指、人差し指は精神力の指。その謂れは指ごとに異なり、さらに右と左の手指で異なるという。小灯あかりも全ての手指の謂れをそらんじているわけではないが、その指の謂れは知っていた。左の手。すらりと伸びた4本目の指。薬指。誓いと約束エンゲージの指だ。


 その根元のほど近くに見慣れぬ環がはまっている。真鍮しんちゅう製であろうか。黄土よりややにび色に傾いたその表皮は、鈍重に光を散らしている。手首をぐるりとして腹側を見ると、環は植物のつるかのようにうねり、突き出した細かな枝葉がひずんだまま指の腹を甘く噛んでいる。


――この指輪はいったい何だろうか。


 小灯には見覚えも、心当たりもなかった。初めて目にするそれは、しかし、妙に指に馴染んでいた。


――ひょっとして、この旅籠のしきたりかしらん


 河を渡り辿り着いたこの湖畔の旅籠では、就寝中に仲居がこっそり左の薬指に指輪を嵌めるのだ。そして――。くすりと笑みが漏れる。馬鹿馬鹿しい。首を軽く振って床から起き上がると、夜具を3つ折りに畳んで伸びをした。不思議と指輪を外そうとは思わなかった。外そうとしても、きっと無駄なのだろう。


 いまさら指輪ひとつがどうこうなどというのは些細な事だ。一緒に持っていくというのも悪くない。


 浴衣のまま障子をからりと開け、広縁ひろえんの籐椅子に腰かける。ガラス窓越しに見える薄靄うすもやの空の下には、きらきらりと早瀬が閃めく湖が広がっていた。姫森めもりうみ。地平のきわまで並々と湖水を湛えたその姿は、正に内陸の海と呼ばれるに相応しい。しばらくそのまま湖を眺めていると、襖の向こうから声をかけられた。


「おはようございます。朝食をお持ちいたしました」


 胸元と裾を直し、腰掛けたまま「お願いします」と返す。すらりと襖が開くと、袢纏はんてん姿の爺やが平伏し、膳を運んできた。


「仲居の手が足りませんで、むさ苦しい格好で失礼いたします」


 爺やは手慣れた手つきで膳を並べ、ティーポットから紅茶を注いで座椅子をしつらえる。卓上には真っ白な平皿に載せられた2きれのフレンチ・トーストにミニトマトとセロリのサラダ。脇の小鉢には岩海苔が盛られていた。卵液をたっぷりと含んでへにゃりと柔らかなトーストには、程よく焦げ目が着いている。小灯は岩海苔を手に取ると、甘やかな香りを放つ焦げ目の上へとかるく塗り始めた。


 トーストを押しつぶしてしまわぬよう、ふうわりと岩海苔を塗っていると、爺やが興味津々といった体で声をかけてきた。


「お食事中に失礼かとは思いますが、トースト、しかもフレンチ・トーストに岩海苔を塗るのですか」

「はい。我ながら悪食あくじきと思っています。ですが、好きなんですよ」

「そうですかそうですか。好きな物を食べるのが一番ですものね」

「ええ。ついの食事としてはいささか地味かな、とも思ったのですが、やはり好きな物を食べようかと」

「成る程。ここだけの話、板場も困惑していたようですよ。ここではいろいろなご注文を承りますが、初めての品だと言っておりました」


 にこりと笑顔で応じ、ナイフとフォークでトーストを切り分ける。と、握り込んだ左の掌の中で環がこつこつと音を立てた。爺やが怪訝そうな顔をする。


「おや、その指輪は……」

「ええ。今朝起きたら生えていました。こちらの旅籠ではそうなるのでしょうか」

「寝ている間に指輪が生える……。はは、そうですね。皆さまの手に指輪が生えるのであれば、当館のセールス・ポイントになるのでしょうが、生憎あいにく初めてお伺いするお話です。しかしその指輪、不思議なものですなあ」


 食事の手を休め、小首を傾げる爺やに掌を差し出して表裏にぐるりとする。小灯も小首を傾げて肩を竦め、なんとなく軽く会釈を交わすと食事へと戻った。爺やは頃あいと見たのか、す、と身を引くと丁寧に平伏した。


「では私はこれで。お食事が済んだら、お声がけください。膳を下げに参りますので。ああ、それから本日の還りの波のお時間は、10:30となっております」


 壁掛けの時計を見ると、時刻は8:30。あと2時間。あと2時間で自分は湖へ還るのだ。小灯はしばし手を止めたが、再びナイフとフォークを動かす。掌中の環が、かつり、と音を立てた。


###


 小灯は手に履き物を持ち、湖水に足を浸しながら歩いた。湯を使い柔らかに暖まった素足に打ち寄せる波が心地よい。湖面に沿って吹き寄せる風が頬を撫でる。半袖の襯衣しゃつに膝丈のスカートといった出で立ち。旋毛つむじの上で緩く纏めた髪を解こうかどうか迷って、やめておいた。


 周りの皆も思い思いの装いで湖畔へと集まっている。多くの者はひとりだが、中には包含関係の者と手を取り合っている者もいる。皆、一様にぶらぶらとしているのは、その時が来るのを待っているのだろう。


 と、一陣の風がごう、と吹いた。湖の方からざざ、と波音が立つと同時に湖面がぐらりと揺れ、高く長濤うねりが生じた。時間だ。


 周りの大気の温度が急激に下がるような感覚の後、ご、ごごと地鳴りを響かせ地も揺れる。と、共に湖の荒れは激しくなり、ざざざと音を立てて白い波柱が産まれた。その先端がむっくりと膨張し破裂したかと思うと、ずるりと5本の指が生じ

た。あれは、手だ。


 湖からは次々と手が、腕が産まれる。手は波間に見え隠れしながらもその数を増やし、何百、何千もの手、それ自体が白く蒼い波となり湖畔へと打ち寄せる。唖然とそれを見やる皆の上に覆いかぶさったかと思うと、今までそこにあったものを握りしめて去っていく。そして次。また次の手が。手は矢継ぎ早に押し寄せては去っていく。その度に、湖畔の皆が次々といなくなっていく。


 小灯は眼前に広がる風景を唖然と見ていた。なにか現実離れしている。大きすぎる。覚悟はしていたものの、事象はその想像を容易たやすく超えてゆく。半ば茫然自失しているその横っ面を激しく湖の平手が打った。


 たちまち水に飲みこまれ目の前が昏くなる。手にしていた靴はどこかへと離れ、足が、体が宙に浮く。息をしているのかどうか自分ではわからない。藻掻く間もなく波の掌が小灯と辺りを握り込み、そして、――そして去って行った。


###


 すっかりしずかになった湖畔に在るのは、小灯だけだった。四つん這いになり、ずぶ濡れのまま必死に呼吸を整える。襯衣は体に貼りつき、スカートは腿まで捲れ上がっている。纏めていた髪は解け、ぼたぼた雫を垂らしている。


 ひゅう、ひゅう、と喘鳴ぜいめいを発しているのが自分の喉だという事にやっと気づく。それでも小灯の心に去来する感情はただ一つだった。


――何故なぜ


 何故、自分は連れて行かれなかったのか。他の皆は約束通り姫森の湖へと還って行った。境目を外され溶けあいひとつになり、再び新たな物へと転じる準備のため。役目を終えしばしの休息へと入った。自分もそうなるはずであった。が、何故。


 咳込み、水を吐いた小灯の目に一組の足が映った。手を付いたまま顔だけを上げると、爺やが困ったように小さく笑って立っていた。その手には小灯の片方の靴を手にしている。


「片方だけ見つけました」


 差し出されたそれを受け取り、しゃがんだまま履く。ぐっしょりと濡れた靴の感触は重く、直ぐに脱いだ。


「ああ、それが良い。履くなら乾いてからが良いでしょう」


 爺やの言葉に素直に頷く。そして、何故、と問おうとしたが言葉が出なかった。


「まずは湯に入りましょう。そのままでは、風邪をひいてしまいます」


###


 浴衣に着換えて部屋へと戻る。なんとはなしに薬指の環を眺めていると、襖の向こうから声がかかり、爺やが茶を持って来た。熱い茶を啜り、添えられていた煎餅をひとつ、ぱり、と噛む。ほんのりと香る梅の香りが、やっと気分を落ち着かせた。


 小灯はぽつりと呟く。


「なぜ、私は残されたのでしょう」

「わかりません。が、恐らくはそちらの指輪が関係しているかと」

「これが?」


 あらためて薬指を見やる。今朝から馴染みとなった歪んだ環。これが邪魔をしたのだろうか。いったいなぜ。


姫森の管理人ガーベジ・コレクタは、特定の印を持つものを避ける習性があります。まだ消し去ってはいけないものを消し去らないために」

「私が、いえ、私とこの指輪がそれだと」

「はい。その可能性が高いかと」


 管理人は合理的だ。将来の仕事タスクに備え、資源リソースを最大限に確保し有効活用しようとする。仕事の済んだオブジェクトは、その時点で姫森メモリに還るのが望ましいが、膨大な者がいちいち還るのはかえって管理コストがかかってしまう。そこで仕事の済んだ者をまとめ、一定時刻が来た時点で一括して真っさらな状態へと還す。「廃品回収方式ガーベジ・コレクション」と言われる管理方式がそれだ。


 だが、単純に一括消去してしまうと、まだ仕事を持つ者まで消し去ってしまう恐れが産まれる。すると、システムは機能不全に陥り正しく動かなくなる。それだけは避けねばならぬ。そのため、目印を付けておくのだ。


 多くの場合は自己のみで判断するのではなく、参照カウンタの仕組みを利用する。ある仕事を行う者に、仕事を頼んだ者がいる人数の情報を保持し、その数が「0」でない限りは消去されないよう制御するのだ。必要とするものがいる限りは消去しない。シンプルでいて、強力な約束ルール。しかし、このカウンタ情報が正確に管理されない場合、本来の役目は終えているはずなのに、まだ仕事が終わっていないと認識されてしまう者が産まれる。


「つまり、この指輪が参照の目印だと」

「はい」

「じゃあ私はこの先――」


 小灯はそこで言葉を切った。為すべき目的も無く、ただ単に姫森の資源メモリ・リソースを食いつぶし続けるだけの歪んだ存在。それが今の小灯だ。「本流メイン・プロセス」からはその存在を認識されず、いつ、一部を書き換えられて暴走するかもわからない不安定な者。者とも認識されずに存在し続け、暴走リークを引き起こしシステムを停止に追い込む可能性をはらんだ異形の存在。


域外の不死者ゾンビ・プロセス


 小灯の口から洩れた言葉に、爺やが頷く。


「そうなりましょうな」


 爺やの顔は相変わらず、困ったような、憐れむような小さな笑顔だった。「よいせ」と声を発すると、身体の後ろから鉄瓶と一組の盃を取り出した。その一つを小灯へと渡すと鉄瓶の蔓を布巾で包んで軽く掲げる。


「そう嘆く事もありませんよ。少々退屈ですが、まあ、自由にやれます。そのうち参照している方が気づいてカウンタをゼロにしてくれる事もあるやもしれません。その辺りは気にしても詮無いことです。ささ、まずは一献」


 爺やが鉄瓶を傾けるので、小灯は慌てて盃を両手で持ってそれを受ける。熱燗であろうか。アルコールの香りがつんと鼻を突いた。


 頭を整理しきれぬまま、ぐいと杯を煽る。喉から胃の腑にかけての道が順々に灼け、ふう、と大きくひとつため息を吐いた。――なるようになるしかないか。酔いと共に、妙に開き直った諦観ていかんが体中に広がっていく。


「ご返杯を」


 小灯は、爺やの布巾と鉄瓶を手に取って逆に傾ける。今度は爺やが慌てて杯を手に押し戴く番だ。自分は何をしているのだろう。本流からは無視され、手に残ったのは寄る辺の無い不安定で、形だけの自由な不自由。


 自分はいつまでこうする事になるのだろうか。小灯にはまったくわからなかった。わからなかったが、しかし、――なんだかやけに楽しかった。


 その左手の薬指では、鈍色に輝く指輪が甘く指の腹を噛み続けていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

見知らぬ指輪 吉岡梅 @uomasa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ