幸せの値段
剣 道也
幸せの値段
「私たち、別れましょう」
栄子は短く言葉を告げた。
会計をするため店員を探す様を見て、太郎は慌てて声をかける。
「ちょ、ちょっと待って! なんで!? なんで別れるんだよ!?」
食い下がる太郎に、栄子は極めて迷惑そうな顔を向け言葉を吐き捨てる。
「はぁ? そりゃ別れるわよ、何よこれ」
栄子は、一枚の紙を太郎につきつけた。
「総支給17万、健康保険と厚生年金と……その他もろもろ引かれて……手取り12万!? 馬鹿じゃないの!? これで恋人を続けるほうがどうかしてるわよ!」
その紙は、太郎の給与明細だ。
「あんた、大企業じゃなかったの!? 何が福利厚生がしっかりした会社よ! そんなの、ちゃんとお金を貰ってからの話じゃない!」
太郎と栄子は恋人同志だ。
大学時代に合コンで知り合った二人は、栄子からの猛烈なプッシュを受けて付き合うことになった。
美人でルックスもよく、オシャレで気さくな栄子は、太郎の人生の中でも一番に魅力的な女性だ。
そんな彼女に迫られたら、太郎が好意を持つのは当然のことだった。
「せっかく高学歴のあんたを選んだのに、失敗だったわ! ねぇ、何かあてはないの? 私、嫌よ。12万円をやりくりするなんて、そんなの嫌。そのぐらい、街を歩いている男にちょっと言えば、喜んでくれるんじゃないの?」
──あれ? 僕は誰と話しているんだろう。
太郎は、目の前の光景が現実だとはどうしても思えなかった。
太郎は栄子と付き合って二年になる。
その間、栄子は本当に完璧な彼女だったのだ。
どんな時でも、太郎にいつも笑いかけてくる元気な女性だった。
栄子の顔を思い出せば、いつも決まって笑顔が浮かんでくるほどに。
友人と会う時は、太郎を立ててくれる健気な女性だった。
勉強以外の取り柄がない太郎でも、周りの友人から冗談で妬みを言われるほどに。
捨てられていた猫のために、一生懸命飼い主を探す優しい女性だった。
この子となら、一生一緒にいようと思えるほどに。
だが、太郎はまだプロポーズをしていなかった。
太郎はまだ23歳。新卒一年目である。
太郎としては、もう少し仕事に慣れてからの結婚を考えていた。
周りからは優柔不断だと揶揄される中、栄子に言われた。
”ねぇ、私と結婚する気って無いのかな?”
栄子がそこまで自分を待っていてくれたことを知らなかった太郎は、焦り婚約を申し込もうとした。
その時、栄子から言われたのだ。
とても嬉しいと。
そして、将来プランを立てるため、給与明細を見せてほしいと。
心優しく、頭のいい栄子のことだ。
きっと、ずっと夢だと言っていたマイホームを建てるために、色々と試算を始めるのだろう。
しかし、その考えは、どうしようもなく浅はかだったのだと痛感することとなる。
「無理。私、あんたとは無理よ。この際だからハッキリと言っておくわ。あんた、掃除は勿論、料理も洗い物も、全部私任せじゃない。私をなんだと思ってるの? 家政婦? 奴隷? はぁ? そんな給料で人を雇えると思ってるの? 私をいくらの女だと思ったの?」
目の前の女が、どうしてもこれまでの栄子と結びつかない太郎は、何も言い返せず困惑している。
「大体、私という女がいながら、他の女のことも見てるのって何様のつもり? 私を放って飲み会に行って、連絡もしてこないなんて、そんなにあんた偉かったの? 一夫多妻でも目指してるの? こんな給料で?」
太郎は、ただただ目の前の女を呆然と見つめている。
「それとも何? 何かお金を得られる手段があるの? 保険、入ってくれるの? 私のために、死んでくれるの? あはは、それならいいかもね。あと1年ぐらいなら、もう少し恋人ごっこをしてあげる。なんなら家族ごっこでもいいわよ?」
あれだけ愛し合った女が、自分に死ねと言っている。
──いっそ、もうそれでもいいか。俺はなんて駄目な男なんだ。
栄子を責めるよりも、情けなさが勝ってしまった。
出会ってから言い争いなどしたことはない太郎は、すがりつくようにお願いする。
「ご、ごめん、本当にごめん。反省したから、仕事頑張るから、家事もするから。だから、別れるのは少しだけ待ってよ」
だが、それには何の意味もなかった。
「無理。私、もう決めたから。あーあ、ほんと、時間を無駄にしたわ。もうあんたとは会わない。そんな給料でも結婚してくれる、素敵な人に出会えたらいいわね。ふふ、ないわね、そんな奇跡。じゃあね、ばいばい、さようなら」
別れの言葉を三度も口にした栄子は、領収書をおいたまま店から出ていった。
涙は出なかった。
たった今起こった現実が、まだ信じられなかった。
二人分の食事代2万6千円を店に払い、家に着き、コートを脱いだ時、ついに決壊した。
涙が、一生分の涙が溢れ出てくる。
「うぅ……栄子……栄子ぉぉぉ!!」
あれだけの非道をされても、未だ太郎は栄子のことが好きだった。
しかし、もう二度と元には戻れないことは流石に理解している。
それと同時に、太郎を恐怖が襲う。
──二年。
栄子と付き合った年数だ。
太郎は二年、彼女と愛し合った──つもりだった。
二年の間、様々なことがあった。
初めて異性に電話をした。
思いつく限りの出来事を話した。
何も話すことがなくなり無言の時間が過ぎても、電話で繋がっているという事実が嬉しかった。
着信履歴も、発信履歴も栄子で埋まった。
年下の栄子が、敬語を使うのを止めた。
より距離が近くなった気がした。
たまに冗談で太郎先輩と呼んでくれるのが、なぜだかたまらなく幸せだった。
コロコロと表情を変える栄子が愛しかった。
初めて愛し合った。
初めて同士の二人だったから、初夜はうまくいかなかった。
それでも、何度か一緒に夜を過ごす内に、体を重ねる喜びを知っていった。
太郎はもう、栄子以外とは寝ることはできないとさえ思った。
そしてそれは、栄子にしても同じだと思っていた。
二年、恋人として過ごし、愛を深めていった。
「栄子ぉぉぉぉ……」
それが全て、砕け散ったのだ。
いや、砕け散ったでは語弊がある。
欠片も残さず、全て無となった。
虚無の彼方へと消えたのだ。
それは、太郎にとてつもない恐怖を与えた。
不安と言ってもいいのかもしれない。
またこの二年を誰かと過ごすことができるのか。
自分は果たして、結婚することができるのか。
長い年月をかけて育んだ愛を、また一から繰り返さないといけないことに対しての恐怖。
そもそも、給料の安い自分なんかを愛してくれる人が現れるのかという不安。
太郎は失恋の悲しみと、将来への強い不安に押し潰されそうになりながら生きていくことになる。
幸せを買うには、一体いくら必要だったのだろう。
いくらの給与明細を見せたら、栄子は結婚してくれたのだろう。
なぜ正直に見せてしまったのだろう。
なんの意味もない後悔を抱え、過去に戻ることを妄想して生きていた太郎だが、意外と直ぐに運命の人と出会うことになった。
出会う、というよりは、出会っていたのほうが正しいのかもしれない。
「僕と……結婚してくれませんか?」
大学時代の友人だった愛里とは、会社の帰りに偶然出会い、そこから何度か食事をする内に交際に発展した。
そして付き合って一年。太郎は愛里に結婚を申し込んだのだ。
女は上書き保存。男は名前を付けて保存。という言葉がある。
太郎は、愛里にプロポーズをしたところではあるが、付き合っていた頃の栄子の記憶は色あせていなかった。
正直、あの頃の栄子を100点とするならば、今の愛里は70点にも満たないかもしれない。
素朴な顔で、ごく一般的なスタイル。だけど、誰よりも優しい子だった。
太郎からすれば、これ以上の高望みはできない結婚相手だ。
一生独身かもしれないという恐怖を、愛里はいとも簡単に取り払ってくれたのだ。
太郎は、愛里が愛してくれる分だけ、愛里を強く愛した。
「はい……嬉しい、嬉しいです」
給料3カ月分の指輪を、愛里は涙を流しながら受け取ってくれた。
以前よりは多少上がったとはいえ、給与明細を見せなくて良かったと、太郎は安堵した。
自分の年収をいつ伝えるべきか。
愛里はいくらだったら満足してくれるのか。
トラウマを抱えていた太郎は、給与明細を見せることはなかった。
しかし、愛里のお腹に子供が宿った時、ついに給料を告げる決心をした。
それは、覚悟などという崇高なものではない。
今なら別れることはないだろうという、卑しく打算的な考えだった。
結果、愛里は笑って許してくれた。
お金の管理は愛里が全て行うこととなり、お小遣いは微々たるものになったが、太郎にとってはこれ以上ない結果だった。
◆
太郎は目覚め、心地よい朝日を浴びる。
身支度を済ませたところで、リビングに入る。
「おはようございまーす、お邪魔させてもらってまーす」
「おはようございます、太郎さん」
リビングには妻の愛里の他に、愛里の友人が二人くつろいでいた。
昔からの友人らしく、この三人はよく見る組み合わせだ。
太郎を見た愛里は、少し慌てた様子で近づいてくる。
「ご、ごめんね、うるさかったかな? 起こしちゃったかな?」
「全然そんなことはないよ、気にしないで。ほら、気兼ねなくくつろいでてよ」
言いながら、太郎は三人が食べた食事の片づけを始める。
蛇口から出る水の音は、愛里達の会話を邪魔するには至らない。
「いいなぁー愛里。洗い物してくれる旦那さんなんて、希少種だよ、希少種!」
「ほんとだよ。私の旦那なんて、休日は寝てるかパチンコしてるかのどっちか。しかも愛里の旦那さん、掃除もしてくれるんでしょ?」
「えぇー! まじ!? 飲みにも行かないし……ほんといい旦那さん! うちのと交換してほしいなぁ」
二人の友人から羨ましがられ、愛里ははにかんだ笑顔を浮かべている。
二人は驚いているが、太郎からすれば当然のことだった。
過去、栄子と付き合っていた太郎は、確かに栄子の指摘通り、料理や洗濯、洗い物といった家事全般を全て丸投げしていた。
栄子は働いていなかったので、それが普通だと勘違いしてしまっていたのだ。
他にも、会社の付き合いだからと飲み会に行き、帰りが遅くなることが何度かあった。
栄子は最後の時まで指摘をしなかったので、それが常識だと思ってしまった。
いわば、調子に乗っていたのだ。
過去の出来事から教訓を得ている太郎は、自分にできることは全て行った。
給料を上げるために、少しでも早く昇進しようとがむしゃらに働き、空いている時間を勉強に費やした。
愛里は専業主婦ではあるが、太郎が家に居る時は家事を全て行った。
少しでも愛里を不安にさせないように、友人との飲み会は全て断った。
自分に万が一があっても愛里を困らせないように、生命保険と医療保険は限界まで入口した。
「愛里ってば、こんな理想の旦那さん、いくらで買ったのよ」
「ふふ、一億円、かな?」
愛里の冗談に、太郎は思わずにやついてしまう。
自身を過小評価している太郎にとって、一億円という金額はあまりにも法外だ。
ましてや太郎が払う側でもなく、愛里がそれほどの価値をつけてくれたことが嬉しかったのだ。
「それじゃぁ、出張行ってくるよ。夜に電話するから。いや、栄里香を起こしちゃったら大変だ。寝かしつけたらラインしてくれるかな」
洗い物を終えた太郎は、愛里に声をかける。
「うん、出張頑張ってね」
友人の前だと言うのに、愛里は太郎の頬にキスをする。
確かな幸せを感じながら、太郎は玄関を後にした。
「参ったな……」
言葉の内容とは対称的に、太郎の足取りは軽かった。
北海道まで出向いた太郎だが、取引先の重役に不幸があり、アポイントが飛んだのだ。
上司からは仕方ないのでそのまま一泊してこいと指示があったが、太郎はホテルをキャンセルして帰ることにした。
右手には六花亭のバターサンド。
愛里の大好物だ。
驚く愛里の顔がみれると、太郎は今から笑みが溢れていた。
家に着いた頃には11時を回っていた。
愛里からラインは来ていないが、娘の栄里香はもう寝ている頃だろう。
録画したドラマでも見ているであろう愛里を驚かせるため、静かに鍵を開けて家に入る。
ふと、玄関に愛里以外の靴を見つけた。
──あの子たち、まだ帰ってなかったのか? いや……これは──
太郎は驚愕する。
その靴は、太郎が見慣れた物だった。
しかしそれは、愛里の物ではない。
太郎は地べたに跪き、靴の匂いを嗅ぐ。
──間違いない。でも何で?
太郎は全身から汗が噴き出すのを感じていた。
高まる興奮を他所に、慎重に、ゆっくりと、足音を立てないようにリビングの前まで行き聞き耳を立てる。
「はい、どうぞ。今月の分」
「ふふ、ありがとう愛里」
その声を聞き、太郎の動悸は更に激しくなる。
決して声が漏れぬよう、両手で口を押さえて目を閉じた。
──あの匂い、この声……なんで? 愛里と知り合い?
声の主は、過去太郎が付き合っていた栄子だったのだ。
「残り9,420万円、いいペースね。太郎、また給料上がったんでしょ? 凄いじゃない」
「栄子のおかげだよ。それに、利子もなく待ってくれるなんて、本当にありがとうね」
──利子? 借金? いつ? どこで?
太郎の脳内はパニックになっているが、太郎に気付かない二人は会話を続ける。
「子供も生まれて、本当に幸せそうね。栄里香ちゃんだっけ……私の字が入っちゃったのは申し訳ないけどね。聞いたわよ? 太郎ったら、本当に模範的な夫になってるらしいじゃない」
「うふふ、それも栄子のおかげだよ。ここまで上手くいくなんて、正直私も思ってなかったよ」
愛里まで興奮しているのか、いつもより饒舌になった彼女は、過去の出来事を語りだす。
「本当に上手くいったわ。普通にしてたら、私なんかが、太郎さんと結婚なんてできるわけないもの。栄子のおかげ。栄子が言う通りにしてくれたから、私は太郎さんと結婚できた」
「ふふ、私はいいわよ。それなりに楽しかったし、これだけお金を貰えるなら、下手な水商売よりも効率がいいわ。これ、いいわね、恋のキューピッド。一途に思ってる健気な子を見つけたら、今度は私から契約を持ち掛けようかしら」
太郎は頭がいいほうだ。
だから、断片的な会話からでも、何が起こったのかを理解した。
自分の人生に、何が起こったのかを理解してしまった。
──ふふ、一億円、かな?
昼間、愛里が笑いながら答えた光景が思い出される。
愛里は栄子と契約したのだ。
一億円で、太郎と二年間付き合うように。
そして時がきたら、地獄へ突き落すように。
弱った太郎の気を引くのは、さぞ簡単だっただろう。
独身を恐れた太郎と結婚するのは、確定された未来だっただろう。
トラウマを抱えた太郎の奉仕は、十分に満足するものだっただろう。
──は、はは、ははははは。なんだこれ、なんだこれなんだこれなんだこれ!!──
太郎は声を押し殺して泣く。
二度も愛する人に裏切られた太郎の心は深く傷つき、それは壊れたと言ってもいいのかもしれない。
太郎は物音を立てないように注意しながら、裏側からキッチンに入る。
手入れをかかさなかった包丁は、僅かな光をも反射する。
なぜか、今はその光が、とても美しく大切なものに見えた。
──良かった、本当に良かった、僕はついてる、ついてるんだ。
太郎の脳裏に”不幸中の幸い”という言葉が浮かんだ。
太郎は自身に保険金をかける際、営業の勧めで愛里の分も入口していた。
色々な保険会社に手を出していたので、その分愛里にかかっている保険金も大きくなっている。
──栄子もそうだ。栄子も、入ってるはずだ。好きなんだから、そうだ、絶対そうだ。
全く根拠もなく、そこに至る論理も破綻しているが、太郎は栄子にも多額の保険金がかかっていると断定して走り出した。
「あぁ、大好きだよ栄子。はは、勿論愛里も愛しているよ」
太郎は二人の体を動かし、その手を自身の体に巻き付ける。
「幸せだなぁ。はは、最初からこうしておけば良かった」
太郎が二人の愛を堪能していると、サイレンの音が近づいてきた。
娘の栄里香が泣き止まないので、ご近所さんが警察に通報でもしたのだろうか。
それとも、30秒にも満たない時間だったが、二人の悲鳴はそれだけ鬼気迫るものだっただろうか。
「さぁ、保険金はいくらになるかな。お金が入ったら何をしよう。しばらく会社は休みを取って、4人で旅行なんてのもいいかもな」
自分を裏切った愛里と栄子。
それでも愛してしまう愛里と栄子。
二人の死が合わされば、相当な保険金がおりるはずだ。
そのお金を太郎が受け取れるはずがないのだが、まともな思考はとうに壊れてしまっている。
鮮血を纏った太郎は、願わくば愛里が太郎を買った一億円を超えていれば嬉しいなと、死合わせの値段に想いを馳せるのだった。
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