第6話 勘違いしないでね!

   

 勘違いしないで欲しい。

 この物語は「歌が上手くなるためには童貞を捨てよ!」という啓蒙書ではない。

 未経験でも、筋肉の正しい箇所を意識して、正しく腹式呼吸できる者はいるだろう。

 使うべき筋肉の部位さえ理解できれば良いのだから。


 そもそも、腹式呼吸が基本という概念自体、合唱をやめてしまった今では、少し疑問に感じている。

 まあ『基本』であることを否定する気はないが、それほど強く意識する必要はないだろう、という考え方だ。


 大学のサークルで合唱を始めた僕だが、後々、一般の合唱団でも歌うようになった。

 一般の合唱団のレベルは千差万別であり、それなりに色々なところで歌って、なかなか面白い経験をさせてもらった。

 それはそれで、いつか別の機会に物語として披露したいくらいだ。


 そんな中、最も印象的だったのは……。

 通常の演奏会の他に、毎年のように『仕事』のコンサートやCD録音がある、というセミプロの合唱団だ。

 その『セミプロの合唱団』では、今さら腹式呼吸なんてうるさく言われることはなかった。基本中の基本だからかもしれないが。

 むしろ重要なのは、声の響き。

 厳密には実声とファルセットを混ぜるという指導法であり、喉の声帯の筋肉を、その伸び縮みの向きを含めて意識するような感じだ。

 ただし、声帯の筋肉をコントロールしようというのは、横隔膜の制御以上に難しく、僕としては結局『声の響き』として捉えるしかなかった。

 具体的には、いかにお腹を使うかではなく、いかに上の方へ声を響かせるか、という意識。腹部よりも頭部を意識するイメージだろうか。

 少なくとも自分の感覚としては、その方が歌声っぽい歌声が出せていたと思う。

 セミプロとして活動するには毎年のオーディションに合格する必要もあったのだが、不合格は一回だけだったので、最低限の発声法くらいは正しかったはず。


 ただし、特に意識していなかったとはいえ、自然に腹式呼吸が出来ていた、という可能性もある。

 頭の上の方まで声を響かせようとしたら、それだけ腹の底から息を流す必要があり、無意識のうちに腹式呼吸になっていたかもしれないのだ。もしもそうだとしたら、これはこれで、腹式呼吸をするためのイメージの一つになるだろう。


 他にも、無意識のうちに腹式呼吸が出来ていたかもしれない、という傍証がある。

 例えば、この物語の初回にチラッと述べたように、最近では時々しゃっくりが出るようになったが……。

 ふと思い返してみれば、趣味として合唱をやっていた頃は、しゃっくりなんて全く出なかったような気がするのだ。

 コンサートの本番の舞台上で、あるいはCD録音中、しゃっくりが出たりしたら、それこそ大惨事になるだろう。しかし、そんな経験はなかったし、他人事としても聞いたことがない。

 なんだかんだ言って、当時の僕を含めて、合唱をやっている者ならば誰でも、ある程度は自然に、横隔膜をコントロールできている――腹式呼吸している――のではないだろうか。




(「腹式呼吸がわからない」完)

   

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

腹式呼吸がわからない 烏川 ハル @haru_karasugawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ