第47話 空白の過去

「助けるって――」

 私はなんとか思い出そうとした。

 兄がいなくなった日の事は、おぼろげながら覚えている。私はリビングの隅っこにうずくまり、やたら大きく見える大人たちを見上げていた。部屋はどんより薄暗くて、うごめく大人は不気味な巨人のようで、子供だった私はひたすら怖かった。


 だけど、覚えているのはこれだけ。

 私に何があったかなんて、一片も思い浮かばない。


「――何か、あったっけ?」

 首を傾げつつ問い返すと、二人とも表情が強張った。田中さんの何か言いたげな視線に、河野さんはしたり顔で頷いた。

「やっぱり、記憶なくなってる」

「記憶?」

 さっぱり分からない私に、河野さんは軽く咳ばらいをして答えた。

「双葉ちゃんは、川で死にかけてたんだ」

「え?」

 とんと覚えがない私をよそに、河野さんは話を続けた。

「そこの土手んとこの川が、台風で増水しててさ。流されかけてたっていうか、岩に引っ掛かってたんだよ」

「え、っと……」

 脳が、じわじわと痛い。息ができなくなりそうな、変な恐ろしさが襲う。

「私と典子で、ちょうど土手歩いてて。典子が先に見つけて、慌てて土手を駆け下りてったんだ。

 私も一緒に降りて、こっちも流されないようにって必死になりながら、双葉ちゃんを二人で引っ張った。必死過ぎて、細かい事は覚えてないけど」


 うっすらと、濁った闇に色が浮かんだ気がした。しかしそれはあまりに希薄で、捉える前に見失った。


「助けた時、双葉ちゃんの意識はあったんだ。息もしてた。だけど変にボーっとしてて、いつも一緒に遊んでたはずの私達に『誰』って聞いたんだ」

 納得しかけて、止まる。

 私、


「その後、双葉ちゃんをおうちに連れていこうってなったんだけどさ。双葉ちゃんのお母さんは、輝人兄ちゃんがいないって大騒ぎしてて。双葉ちゃんの様子がおかしいことも、川に流されかけてたことも、何も聞いてくれなかったんだ」


 河野さんが語る間、田中さんは両手を胸を辺りで握ってうつむいていた。だけど視線はこちらを向いていて、不安げに私を覗っている。

 私は、妙に苛立つ自分を感じた。この話に触れたくない、過去なんて見たくも知りたくもない。

「だから何」

 私の口から出た言葉は、自分でも驚くほど棘を持っていた。彼女たちも同じだったのだろう、びくりと肩を震わせ、固まっている。

 私は他人を傷つけた痛みに怯えた。だけど私の口と頭は、二人の口を封じようと勝手に動いた。

「あんたら二人とは、出会ってたかだか4、5カ月だったじゃん。それで友達だなんて笑えるし、忘れる程度の関係だったんじゃないの。川の話もおおげさ。そりゃ流れてるんだもん、誰だってハマることぐらいあるんじゃない」

 河野さんが目を吊り上げ、何か反論しようとした。その前に、横から田中さんが身を乗り出した。

「双葉ちゃんは、土手の向こうの川がどういうところか知ってる?」

「ああもう、知ってる知ってる!でっかい川があるんでしょ!」

 私は、学校で習った地図を思い出して適当に答えた。この辺は河口に近いらしく、かなりの川幅が地図上では描かれていた。

「あの川には、いつもは水は流れてないの」

「知らない! てかお前ら、何が言いたいんだよ!?」

 私の怒鳴り声に、田中さんが怯んだ。だけど私も限界だ、もう何も聞きたくない、何も知りたくもない。

「私は、そのっ――私達のこと、思い出してほしいのとっ」

「知らん!!」

 私が全力で睨んだので、田中さんが黙った。そんな彼女を庇うようにして、河野さんがこちらににじり寄った。

「双葉ちゃんの洗脳を解きたい。あんたんちのクソババアやクソオヤジが言ってる輝人兄ちゃんは、実在しない」

「どういう意味だよ!」

「双葉ちゃんの前で、言う言葉じゃないけど、さ」

 河野さんは言い辛そうに口を閉じた後、何かを覚悟したように口を開けた。

「輝人兄ちゃんは、毎日怒鳴られて、殴られてた。双葉ちゃんと大差ないくらい、大声がうちまで響いてた。それに双葉ちゃんの両親は、行方不明の直前まで周りに輝人兄ちゃんの悪口を言いまくってたんだ。『うちの息子は、出来が悪すぎる』って」

 そんなはずはないと、全力で否定しようとした。兄は医学部を目指す天才だ。素行だって優良そのものだったはずだ。だけど何かが脳裏に浮かんで、私の息がまた詰まった。無意識に、喉を手で押さえる。

 河野さんはまだ話し続けた。

「行方不明になったとたん、あいつらは輝人兄ちゃんを賢かっただのいい子だっただのって、言うことをコロっと変えたんだ。でもって、輝人兄ちゃんにしたのと同じように、双葉ちゃんに怒鳴るようになって――ちょ、双葉ちゃん?双葉ちゃん!?」


 私は、喉と口を押えた格好で喘いでいた。田中さんが部屋から飛び出していき、河野さんが私を揺さぶりながら、何か謝っている。

 私はそれを遠くで聴きながら、なぜか涙を流していた。ざあざあと、濁流の中のような耳鳴りが全ての音をかき消していた。

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或る少女のサバイバル 多賀 夢(元・みきてぃ) @Nico_kusunoki

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