八、天狗に拐われし子

 深い呼吸の中に与え合う熱は、視覚を奪い、触覚の感受を研ぎ立てた。溶けるほどの柔らかさ。引き結ぶ唇を舌先にて尋ねれば、拾はわずかに門戸を開いて、私を招き入れた。

 中に潜む熱は、遠慮と畏れとに緊張していた。強張りの縁を削ぎ落とすように、しかし、優しく絡ませる。余すところなく、私の熱を与えたい。拾の熱を受け止めたい。

 癖のある硬い髪、ふくよかな耳朶。脈動を伝える首。引き寄せれば、拾は、私の頸を支えながら、静かに畳へと寝かせた。浅い呼吸と共に、拾の胸が私の胸を圧す。速く、力強い鼓動が、新たな熱を私の胸へと与える。

 愛している。その実感。私にも、人を愛するに足る心が残っていた安堵。愛したいと願った拾が今、生きており、腕の中にいる。最も側にある者は、私。健やかな拾と、私を健やかにいさせない寺と――。

 私は、意を決した。今一度、拾を抱き締めると、両肩に手を掛けて、拾を離れさせる。切り出す言葉に迷い、黙って見つめれば、拾の目は急速に冷静さを帯びて、涙に揺れた。

 髪を払い、身体を起こす。拾は、乱れた襟を手で合わせ、申し付けられる処罰に怯えて、私を見つめ返していた。私には、微笑んで見せるだけの余裕もなかった。

「そなた、寺に来る前は、何と呼ばれていたのじゃ……?」

「え……? へ、平次郎へいじろうです、平次郎」

「平次郎。吾はのぅ、亥の丸と呼ばれていた。山中の小さな社の麓で、父は籠を編んでいた。母は、それを売っていた」

「……義王丸、さま?」

「――平次郎よ」

 襟を握り締める手を取り、引き寄せる。

「吾に触れてみよ」

 手を離せば、躊躇ためらいを示した平次郎の右手は、四尺の黒髪の他は一糸をまとわぬ私の胸の前に浮いた。薄い胸を打ち付ける鼓動は、昂りを秘めおかせない。もし、平次郎が自身の意志で私に触れるのならば、私は、私の決意のともないに、この男を選ぼうと思っていた。

 平次郎の喉が震え、目を向けられる。大きく頷けば、指先の熱が近付く。なおも戸惑いつつ、中指の先が触れる。人差し指、薬指、そして掌。私の鼓動が受け止められる。寂しさの薄膜が融ける。

「わかるか……? 吾もおびえておるのじゃ。されど、平次郎よ――吾を信じよ」

 手を握る。愛に優しい平次郎の手が、私の手を迎える。隙間なく合わさる。肩口に額を預ければ、平次郎は私を抱き締めた。この男が、私に愛を寄せる。安らぎの中で、私は、私の真実を語った。

 私を抱き締める腕は、次第にきつくなり、閨にて夜毎耐えていた話に至っては、私の肩を涙が撫で落ちた。

「そなたが泣くことはない」

「……どうして、義王丸さま、泣かずに……こんな、こと……お話……」

「上手くなったのだろうのぅ、心の訴えることを聞こえぬふりをするのが」

 冷静な声に、自分でも悲しくなった。

「そなたが妬ましかった。心に感受することの豊かで、優しいそなたが。まことの吾は、優しさなど、持ち合わせぬがためにの」

「な、何を――何を仰せですか! 義王丸さまは、お優しきお方でございます!」

 揺さぶるように、平次郎が肩を掴んだ。

「義王丸さま、俺がここに来た日、辛かったなって労ってくださったじゃないですか! 弟たちが売られてったときだって……」

 すぐ下の弟と妹が、それぞれ法貴寺から程近い家に買われていったとき、平次郎は、門前にて、いつまでも彼らを見送っていた。末の弟が旅芸人の一座に引き取られていったときは、夜半、床に就いてなおも、さめざめと泣いていた。私は庇の間に降り、平次郎の枕許にて、数珠を持った手を掛け布に乗せて、彼の安らかなることを祈ると約束した。

「そのまま、俺が眠るまで……なのに、お優しくないだなんて」

「優しさではない。吾のためじゃ。夜、泣く者があれば、こちらも眠れぬのだから」

「でも、うるさい、黙れの一言で済まさなかったじゃないですか」

 あの夜、私は優しさを根源に動いたと認めて良いのだろうか。平次郎の悲しみに、心より共感していたと。それを、安んじたいと。

「……全てが、ではなかったかもしれないが、皆無だったわけでもない……のかの?」

「う、うーん? ……よくわかりませんが、俺には十分すぎたくらいでございます」

 息も苦しい抱擁ほうようは、心までをも温める。枯れたかめへと、生気の水を注ぐ。私は、この心をもって、平次郎と共に生きていく。

「このまま、何も感じぬふりをして寺に死ぬとは、それほど難しいことではないの。だが、吾は――」


――ケッペンカケタカ、ケッペンカケタカ


 夜啼き鳥が、旋回する。闇に隠れる私の悪行を探しているのだろうか。青田の道を駆け抜けたいとの私の願いを、摘み取ろうと。来なば、来よ。私はもう恐れはしない。拐ってくれとも願わない。

 平次郎の腕から離れ、正対する。黒い硝子玉の目は、私と同じ決意の涙に光っていた。

「そなた……あの天狗の羽根は、まだ持っておるのだな?」

「ございます」

「そうか……良き物を拾ってくれたの」

「――義王丸さま。一生お仕えいたします。何処どこまでも参ります、何からだって、お守りいたします……!」

 私は目を閉じて、信頼と喜びを示した。頬に手を添えられ、目蓋を親指にて撫でられる。遠慮がちな浅い口付けと、童の悪戯いたずらな笑み。

「……俺が、ここよりお拐いしても、よろしゅうございますか?」

「ふふ、馬鹿を言うな。吾がそなたを拐うのじゃ。吾がそなたの天狗じゃ」

 私は膝立ちになって、平次郎へと口付けを落とした。夜啼き鳥の啼き声は、既に耳には入ってこなかった。

 抱き締め合い、熱を分かち合えば、安堵の弛緩を経て、やがて、心はさらに深い交わりを欲して、身体を揺り動かす。口付けにはもう、探るような慎重さはない。

「……どうか、今よりは、熱くお愛し申し上げること、お許しくだされ」

「平次郎よ……愛してしまうと言った通りに、吾を愛せ」

「この上なき幸いでございます」

 私の愛する者が、私を愛する。優しい指先が、私の身体へと快感の答えを教える。

 御仏は、いつか私を罰するだろう。それでも、私は一度しかない今生を、豊かな感性の許に生きたいと願ってしまったのだ。


 私は翌朝、空の左手首を大袖の下に隠して、聖人の許へ上がり、全ては煩悩が見せた幻影だと、昨夕の動転を詫びた。聖人は、それからしばらく、私の挙動を注視していたようだったが、私が以前に増して熱心に仏に仕え、また、みそぎの御祭礼に奉納する舞の稽古に励む様子を見て、心配は落ち着いたようだった。 

 何事も変わりない様を装い、変わりなく観音の化身として過ごす。やがて、門前の田に落雷があり、それを最後に梅雨は明けた。

 六月朔日、祭礼の日の未明。私は、自室の中央へと一尺半余りにして純白の「天狗の羽根」を残し置き、平次郎と共に法貴寺を忍び出た。

 手を取り合い、黎明に青白い水田の街道を北へと駆け抜けて、それきり、大和国へは踏み入れていない。



 

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天狗に拐われし子 小鹿 @kojika_charme

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