七、衝動と抱擁

 私は女人にょにんを悲田院へと連れた。女人は、我が子が仙界にて育てられるのならば、代わりに、下界の孤児を育てようと言ったのだ。

「そなたの篤信とくしん、必ずや天も知るべし。良き子をもらい、良き子に育てよや」

 旅芸人の一座に貰われていった拾の弟を思えば、この女人の許にて養育される子は、幸いな身の上であるだろう。

 暮れかけた塔頭の門前にて、五、六人の子らが鬼ごっこに駆け回る。私は、その内の一人に声をかけ、房主への目通りを願おうとしたが、そのとき――

「――母ちゃん!」

 玉砂利を軋ませ、六歳ほどの男児が、女人へと駆け来た。両腕に母を求め、安堵の涙を流しつつ。

「犬丸や――!」

 母子は、門戸より指す夕日の中で、抱き合い、泣き合った。遊んでいた子らは、すっかり消沈して、中には母恋しさに泣き出す者もいた。私は、一番年長の子に皆を連れて門内へ入るように告げた。

「――稚児さま、ありがとうございます! ありがとうございます、本当に!」

 子を抱き締めた女人は、膝を着いたままに頭を下げるが、私は、微笑も忘れて犬丸と呼ばれた子を見下ろし、立ち尽くしていた。

「お前、どうして此処ここに来た……?」

「白い着物の、天狗みたいな格好した人たちが――」

 しゃくり上げながら、犬丸は恐怖を浮かべて説明した。山間にある家の裏手にて、独り遊んでいたところ、三人連れの山伏やまぶしたちに取り囲まれ、手足と口を縛られて、背負子しょいこの籠に入れられたという。

「籠の隙間から、外見ても、全然知らない山の中を行って……それで、此処に来た」

 揺れる籠。地を刺しては鳴り響く錫杖しゃくじょうと、途切れぬ陀羅尼呪だらにじゅ。日は暮れ出して、烏が鳴き喚く。恐怖と吐き気に混乱する内に、篝火かがりびを焚いた古寺の裏庭へと転がされる。私を取り囲む武士の一人が、私の顔を掴み、その目の色を見て――

 私は、良寂坊へと駆けた。直垂の大袖と袴が、わずらわしくも風をはらむ。草履を脱ぎ捨て、薄暗い仏前を横切り、主房の襖を引き開けた。聖人は、経典の巻物を持つ手を驚きに握り込みながらも、落ち着きの目で私を見上げた。

「何事ぞや、義王殿らしくもなき」

「――吾は、長谷川の子ではないのですか?」

「あれ、何を」

 聖人は、本当に寝耳に水という顔をして、経典を床に置くと、丁寧に巻き取りながら、私を諭す。

「何をかのたまう。まぁ、お座り賜えよかし。如何なる悪夢をや、見賜いけるか」

 私の耳には届かなかった。襖戸に手を掛けたまま、叫ぶのだ。

「――吾には、母がいた! 一緒に、山に住んでいた! それが、拐われて……! お館さまは父ではない、父ではなかった!」

「……義王殿」

「吾は、吾は……亥の丸と呼ばれていて、賤しい籠作りの子で……! だけど、この目が金色だからと……」

「義王殿や、お気を鎮め賜え」

「吾は――」

「――義王殿!」

 寺に来て初めて、聖人が声を張った。私の身体が固まり、襖戸から離れた手の先より水晶の数珠が抜け落ちて、敷居の上に硬い音を立てて転がった。

「義王殿や」

 聖人は、ゆったりと居ざり寄ると、数珠を拾い上げて、捧げ渡した。その目には、常と変わらず、理知と慈しみがあった。

「義王殿は、長谷川の子にぞ、違いなき。さなる上で、問い侍りぬ。誰より、吹き込まれたる噂にぞ?」

「吾は……覚えておるのです……」

 私は数珠を受け取らないままに、震える声で弁明した。けれども、燈明に陰る聖人の強い目には敵わない。

「覚え賜う? はて、聖人めも、よく覚え侍り。お父上さまが、大層ご熱心に、義王殿を育み賜いつることも、お愛し賜いけることも」

 聖人が私の右手へと、数珠を握らせた。さらに両手で包み込む。

「瞑想中に在らぬ幻影を見ることは、聖人めも、しばしば侍りつ。されど、全ては煩悩より生じたるものなり。な迷い賜いそ。御仏に祈り続け賜えよかし」

 篤く導かれては、私は揺らいでしまう。私の未熟なるが故に、思い違いをしたのではないか。逃げ出したい思いに駆られて、幻覚を記憶と信じ込もうとしたのではないか。

 しかし、物心付いたころよりあった母の記憶、父であるはずの安禎への拒絶、一族の誰にも似通わない顔立ち――。

 意志の力にて混乱を押さえ込もうとしても、私の身体は、認容の限界を震えとして現す。夕闇に薄暗い部屋に、荒い息遣いばかりが響く。右手を見た。私の内奥ないおうを知る聖人の指があった。

「聖人さまは、如何にぞ、吾を愛し賜うや?」

「義王殿を愛しく思いたればこそ」

「それは……それは、煩悩にぞ侍らずや?」

「侍らず。義王殿は、観音菩薩の化身なれば、この愚かな聖人めをお救い賜いけり。義王殿は、御身そのものが、聖人めの法悦ほうえつにぞ」

 一片の疑いもない信念の目が見上げてきていた。私は、これに立ち向かって、己を主張することはできない。言葉もなく首を振って後退ると共に、手を引き抜く。

「吾は……観音にもあらず……! 醜き……」

 主房を駆け出た私を、聖人は追わなかった。


 良寂坊の南池に茂る蓮の葉は、窪みに雨粒を抱き、夕映ゆうばえきらめく。葉の間を突いて、花は首を伸ばすが、その多くは蕾み、緩やかな風に吹かれるまま、鋭い先端を揺らした。

 私は堂の庇より飛び降りて、裸足に砂利を駆け、数珠を持つ手を振りかぶった。小さな水晶玉を連ねた数珠が、夕陽に反射して、光の弧を描きながら、蓮池に向かう。一つ、真白の蕾を弾いて、念珠は水に堕ちた。

 私は池端に崩れ、声もなく泣いた。仙界へと拐ってくれる天狗などいなかった。否、私こそが、天狗に拐われた子だったのだ。

 母を奪われ、名も奪われて。出自の記憶も偽りを与えられていた。幼い私は、本来の自分を奪い取ろうとする世界と、ただ一人きり、戦っていたのだろう。その寂しさと欠如感に苛まれて、しかし、世界には抗えず、記憶は薄れていった。守り通せたのは、断片の情景と、亥の丸との名ばかり。

 吐き気を催す現実。私を取り巻く欲望。私は一体、何のために生きてきたのだろうか。神も仏もない。ただ奇特にも、金色の目を持って生まれてしまっただけで、聖人の情欲に充てがわれていた。私から安穏を奪い去った長谷川のために祈らされていた。

 聖人は事実の如何を重んじないだろう。安禎も、認めはしないはずだ。私の朧げな記憶ばかりが、私は亥の丸であったと示し、何の破綻もない顔をした現実に、異論を唱える。

 私が間違っているのだろうか。私だけが、この世におかしい人間なのだろうか。育てられた恩に報いて、長谷川に殉じようとしない私が。心を殺しきれない私が。

 そんなはずはない、私は正気だ。この世界が全て、おかしくて、狂っているのだ。


 死んでしまえ。

 私を義王丸と呼び、尊んだ者、全て。神も仏も、皆――!


 雷鳴が響いた。夕陽は暗雲に隠れ、蓮の蕾は生温い風を受けて、不気味なほどにゆったりと大きく揺れる。烏が一斉に鳴き喚き、頭上を幾羽も飛び去る。黒い羽根が一枚、目の前に落ちた。

 天が、私を罰する。仏に背いた私を――。襲いきた恐怖に戦慄わななき、私は転げるように、池へと駆け入った。冷たい水は腰まで及び、水を吸った着物が動きを阻む。それでも、泥に包まれる足裏を懸命に抜き、蓮の葉と蕾を掻き分けて、念珠が落ちた辺りを目指した。

 雷は止まない。遂に、稲妻が光った。その一瞬の明かりでは、黒い水面の底に沈む水晶玉を見つけられるはずもない。いっそのこと、稲妻に打ち抜かれて死んでしまいたい。はたと、私の手が止まった。

 着物の重さに任せて、膝を折れば良いだけではないか。ままならぬ人生を苦しみもだえて過ごすよりも、自らの意志で死を。

 足指の一つずつを捉える泥が、私の体重を受けて更に深まった。私は、この世に未練などなかった。

「――義王丸さま!」

 拾が、走り来た勢いのままに、池へと駆け込み、私へと手を伸ばす。力強い腕が、私の腕を掴む。引き寄せて、私の頭を拾の肩へと収めた。速まる鼓動を聞く。

「な、何をされてるんですか、何を――!」

「……数珠を落とした」

 この期に及んで、私は咄嗟に嘘を吐く。

「数珠――? 俺が明日、探しますから! 俺が探しますから、上がってください!」

 一瞬前まで死のうとしていたというのに、拾の動揺を抑えもしない声に、私は安堵を覚えてしまうのだった。池から引き上げられ、肩を抱かれたままに、庭を横切る。聖人の主房を見遣ると、東の庇より険しい顔で私を案じる聖人と目が合った。私は、すぐに逸らし、重たい身体を拾に預けて歩いた。


 夕べの勤行を報せる鐘が鳴り、拾が部屋に戻り来た。聖人へと、今夜の勤行と渡りは休む旨を伝えに行っていた。

 私は、湯の張られた盤に膝を抱えて座り、散漫と脚の泥汚れを落としながら、拾に髪を洗われていた。

「お気を落とさないでくださいな。明るうなったら、俺がきっと見つけて差し上げますから。ね?」

「……もうよい」

「きっと見つけてきますから。だって、あれ、お父上さまから頂いた物って言うてらしたじゃないですか」

「もうよいのじゃ。罰当たりに変わりはない」

 私が黙るので、拾はさらに慰め続ける。

「お許しくださいますよ、御仏も。義王丸さまの信心深きこと、ご存知でないはずがございませんもの。観音菩薩のご化身であられるのですから」

 観音の化身。功徳、徳行。繰り返される内に、毛先の泥が落とされる。義王丸に相応しく整えられてゆく。私は結局、義王丸の名の許にしか生きられない。見せかけの反発。本当は、抗う気力も、術も持たない。

 冷めゆく湯を手に掬い、顔を映す。紙燭の薄明かりに照らされる目の色は、罪を重ねてなお、称えられた金色を保っていた。


――ケッペンカケタカ、ケッペンカケタカ


 夜啼き鳥が、また騒ぎ始めた。父の戯言、母の子守唄。私は愚かなので、この期に及んでなお、天狗の来訪を願ってしまう。

「あ、そういえば」

 拾は、身体を拭い上げた私へと小袖を着せながら、思い出したような声を挙げた。

「義王丸さま。先月だか、俺、白い羽根、大きなの、お見せしましたでしょう? 天狗さんの羽根じゃないかって」

 私の息が止まったことに、拾は気付かない。私を畳へと座らせて、髪を乾かしに掛かる。

「あれをですね、門前の博徒さんたちに見てもらったら、こうのとりの尾羽根だって。それにしても、あの大きさは珍しいから持っとけって言われました。いやぁ、でも、残念ですねぇ、天狗さんじゃなかったみたいです」

 私はやはり、拾を愛してなどいなかったのだ。加虐の衝動が抑えられない。この男の無邪気さを、打ち砕いてやりたい。この男の愛した義王丸が、如何に醜い俗人であるか見せ付けて、絶望に堕としてやりたい。何も信じられないと泣かせて――

「義王丸、さま……?」

 振り向けば、疑いのない黒硝子の目が見返す。今ここに、曇らせてやろう。巾を握る手を降ろさせ、逃れる身体を押さえるように首へと手を回し、呆然と開けられた唇へと唇を重ねる。聖人が愉悦の内に私を苛めたように、私も拾の強張った舌を舐め上げた。

 私に触れられない拾は、息を止めて、櫛を握り込んだ拳を太腿の上で震わせるまま、抵抗を図れない。舌を甘く噛み、耳から首筋を執拗に撫で回せば、身体は応えて引き攣り、鼻から声も漏れ出る。後ろへと引かれる拾の上体を畳に倒し、私は馬乗りになった。

 落ちくる濡れ髪を払いながら、拾を見下ろす。まばたきを忘れた目には涙が張り、弱々しく首を振るたびに、両の目尻からこぼれる。

 良い眺めだ。私はずっと、拾を組み敷きたかったのだ。おしゃべりを黙らせて、澄んだ目に穢れを突き付けたかった。

「拾よ、選ばせてやろう。吾を抱くのと、吾に抱かれるの、どちらが良い?」

 着せられたばかりの小袖の帯を解けば、拾は両手で顔を覆った。

「……お止めください、どうか」

「何故じゃ? そなたの愛した稚児さまが、情けをくれてやるというのじゃ」

 冷笑して、手首を掴み、顔から退かせば、拾は硬く目を閉ざし、唇を噛んでいた。それでも、首筋を撫でれば、私の脚には悦楽の緊張が伝えられるのだった。

「目を開けよ――開けよ」

 漆黒の目が素直に姿を表す。涙を拭けないままに、押さえ付けられた手首を見遣っていた。私は、昼間は聖然とした聖人が、閨にてあれほどの執心を見せるわけを、理解できた気がした。壊してやりたい、私の手で。

 手を動かすなと言えば、拾はすすり泣きながらも従順に、両手を頭の上に留めた。堅牢な唇を舐め、舌先にて割り開けて、口内を荒く探る。肩を撫で、胸を下り、袴の紐に手を掛ける。身を捩られようとも、かまわずに解く。帯、下帯――。手に捉えた熱は、哀れなほど正直に、拾の苦悩を示していた。

「どうしてやろうかのぅ? 拾よ、ほれ。ふふふふ、答えよ」

 拾は、目も口も硬く閉ざして、首を振り続けた。答えよと、私の手が緩く催促すれば、上がった息の間から、苦し気な声が返される。

「……お許しくだされ、義王丸さま……!」

「何故じゃ? 言うてみよ、何故じゃ」

「……して、しま」

「何じゃ?」

「――愛してしまいます」

 息だけの告白に、私の手が止まり、拾の手も言い付けを破って、涙に濡れる頬ごと顔を覆い隠した。

「……ふふふふ、ははははは!」

 これほど、おかしなことはない。抵抗を奪われ、一方的に情欲を注がれ、痴情を晒させられて。非道を強いる私のどこに、愛する余地があるというのだろうか。拾の手を払ってあごを掴み、私へと向かせる。

「――愛してみよ! 愛してみよ、この醜き吾を……! 観音の化身と、いいように穢されて、愚かな……吾を…………」

 私の涙が、拾の低い鼻梁に落ちて、揺れる黒硝子の目に流れ込む。苦悩が混じり合う。

「もう……嫌なのじゃ、何もかも……!」

 拾が目を閉じて、私たちの苦悩が目尻から溢れた。再び目蓋が開かれたとき、燃える目が私を刺した。ける情欲。憐れみ、慈愛、衝動――。迷いのない手が私の背を捉えた。

「ひ、拾……待て――!」

 私の竦んだ声は、口付けによって塞がれた。うなじを押さえられ、逃れようと身を引けば、重石おもしの外れた拾が素早く私の腰へと脚を回す。

 私は、拾の厚い胸板の下にいた。手首を捉えた硬い手は、頑とも動かない。無礼だと咎める隙もなく、熱に苛まれた舌が、私の発語を阻む。息も継げない。痙攣を引き起こすほどに注がれる劣情。

 愛するとは、そうか、情欲に身を焦がすということか。それならば、何の不思議もない。私は、絶望と安堵の混じった無気力に襲われて、弱々しい笑い声を最後に目を閉じた。

 けれども、拾の手から力は抜けた。唇も離れ、啜り泣く声が遠退く。目を開けば、畳を降りた板の間に、拾がうずくまっていた。後悔と悲しみと、憎しみと……それらは全て、拾自身へと向かっていた。

 私は、気付くと、拾の背を抱き締めていた。この男を確かに愛していると思った。私の胸に抱かれたまま、拾は泣き続けた。

「すまぬ……拾よ……」

「ごめんなさい、俺……!」

「すまぬ……」

「ごめんなさい。なんで、気付いて……ずっと、お辛かったこと! ごめんなさい……!」

 私は、悲しみに謝罪を重ねる唇に唇を合わせた。これ以上なく優しい口付けだった。

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