六、欠落の心
拐ってくれと願う心を咎め、私は身体の重みに任せて、眠りに就いた。
眩しさに目覚めれば、まだ硬い桃の実の香りがした。枕から顔を挙げると、畳の傍には大小の盤と手巾が用意されている。頭痛に響く足音と共に、拾が入って来た。
「おはようございますー。昨日はどうも、すみません。遅くお戻りだったみたいで、寝てしまっておりまして。お疲れでしたか? 蔀戸開ける音にも、お目覚めでなかったので。さ、お起きください」
拾が、暗闇に隠れようと身体を丸める私から、容赦なく掛け布を奪った。なされるままに座らされ、身体を拭われながら、心が昨夜の絶望から目覚めようとしないのか、再び夢に落ちかけた。甘くも青い匂いに意識が満たされる。
「……この香りは?」
「ああ、蓮です、蓮の花。お庭のお池に、まあ綺麗に咲き揃っておりまして。さっきまで降ってたんでしょうなぁ、花の
文机の上には徳利に挿された純白の蓮があった。夜明け前に、なお白い妙光を発する様は、清香の漏れ出る筋が見えるようだった。芳香の中に、深く嗅いではならないような、秘められた匂いを感じた。酔いを予感させる、酸味だった。
「……初めてそれと知りながら聞いたやもしれぬ」
「蓮ですか? 朝に花が開きますから、朝が一段香るんです。お庭降りて、聞いてごらんなさいまし」
「そなた、花――」
花が好きなのだな、と言おうとして、止めた。以前は菖蒲、その前には桜や山吹。新たな季節の花が咲くたびに、拾は私に告げた。しかし、取り分けて花が好きなのではないはずだ。拾は、世の中の事象を素直に受け入れている。目に映るものを、愛することができる。拾のおしゃべりは、愛すべき物事に触れた実感を、愛する私に伝えているだけなのだ。
私の言葉を待つ拾の硝子玉の目に、私の影が映る。愛のない私の実体を見透かされてしまう気がして堪えられず、目を逸らした。
「……義王丸さま?」
「いや、花は……良いものじゃと思うてな」
「お喜びですか? 良かったですわ、またご用意します! ――ええ、義王丸さまは、お花がお好きだったんですかぁ。あれあれ、そんなら、もっと早う色々飾って差し上げたら良かったのに。俺、本当、気ぃ付かないで」
拾は惜しげもなく私に心を寄せ、私を愛する。豊かな水がもたらす豊かな感性。
寂しさの由来は、ここだと気付いた。私の世界は、あまりに閉塞していて、僅かに有する感情さえ、寂しいだとか、悲しいだとか、全て自分に向かうものなのだ。他人に対する感慨がなく、他者との相互な
巡り合う心――心を与えられ、
拾の優しい指が、私の髪を
これを受け取れたなら。私の心は、満たされるのだろうか。欠落を埋めて、人を愛せる真っ当さを得られるのだろうか。拾は私を愛している。そうだ、私も拾を愛しているからこそ、私は拾の心を受け止めて、与え返すことを願うのではないか。
心よりの労り、互いの楽への喜び。幸福の祈念、悲しみへの共感。愛し、愛を受け入れること――。
一人の人間として、一人の人間たる拾を愛したい。
落雷のように、私の心へと強い衝動が生じた。振り向いて、髪を束ねる大きな左手に、私の右手の指を添えてみた。温かかった。
「えっと、義王丸さま? 痛かったですかね、すみません」
「違う……」
引かれる手を留めて、両手で包み込む。緊張に固まり、埋まらない隙間が寂しい。
怖い。心を明かすこと。拾は拒絶などしないとわかっていても、怖い。漆黒の目が、困惑に揺れる。私は、この目を安んじたいと願う。拾を迎えて半年。私は初めて、拾の目の奥に拾の心を探した。
「……そなたの幸いを念じておる」
熱い目が、私を見返した。眼差しがもたらす充足の心。喜び。櫛が床へと落ちる。私の手の内に、柔らかな手が収まる。引き寄せて、小傷の浮かぶ日に焼けた甲に額を当てる。
「念じておるぞ、心より」
拾の熱が、手と額とを通して、私の深奥に入り来る気がした。温かく幸せな心地に、初めて愛を自覚する。顔を挙げれば、拾は感激に手を震わせ、低い鼻の根に皺を寄せて、泣き笑っていた。
「義王丸さま……これ以上なき、幸いにございます……!」
「そうか。そうなら、吾も嬉しい」
「ええ、ええ!」
拾は両手を胸に押し抱いて、子どものように涙を流し続ける。愛しいと思った。涙を拭き、抱き締めてやりたいと思った。湧き出でる心に任せて、手を伸ばしかけたとき――
「さすがは、義王丸さまは観音さまのご化身。まこと、計り知れぬご法力。こう、手の先からふわぁと温かい波が全身に広がって。ありがたや、ありがたや……!」
私は何も言えずに、拝まれていた。悲しみは無感を連れてくる。泣き喚くほどの与力は、私には残されていなかった。
昼前には、再び雨が降り出して、誰もいない薄闇の本堂の内は、さらなる静寂に閉じ込められていた。燈明の焦れる音、私一人の読経の声。私を見そなわす
拾が愛していた私とは、観音の化身たる義王丸であって、寂しさに愛を求めるような私自身ではなかった。私とて、拾を愛していたわけではないのだろう。愛の
私の孤独さえ、私が作り出していたというのに。母を求め、ありもしない思い出を作り出し、父たる安禎を拒絶し、乳母の愛からも逃れ、私は仏の子だなどと言い。寺に入ってもやはり、私を愛する尊師を受け入れない。
義王丸の名、名に与えられる愛。それほど厭いながら、名を棄て、孤独な人の子として、俗世に独り生きる覚悟はない。破綻を自覚しつつも、全てを仮面の下に秘匿する。
身勝手なのだ。自ら招いた孤独、その寂しさに中毒を起こし、愛を求める。熱を欲する。
合掌の手が、内より生じた痺れに離れ、耳に届く念仏の声も霞みがかる。目の前が昏くなる。背中から奈落へ落ちるような感覚、冷や汗と動悸。福々しい頬をしていた如来は、いつの間にか仁王の形相に変わって、私を見下ろす。義王丸を呼ぶ、幾人もの声。
『――亥の丸やぁ、ほれもう泣きなさんな』
母の胸に抱かれた私は、乳の匂いのする襟を握り込んで、声を挙げ続けていた。母の手が、私の
『痛うなぁい、痛うなぁい。天狗さんが、向こうのお山に
母の唄う声は、泣き疲れた私の肺を埋めて、手足の先にまで行き渡る。安らぎに身を任せる。白い乳房、温かな脈動。
短い痙攣に、息を思い出せば、私は冷たい床板に頬を当て、本尊の前にうずくまっていた。低く香る白檀に混じって、雨に濡れた土の匂いが立つ。堂内は先刻と変わらない静けさで、如来も粛然たる目に戻っていた。大きく息を吸い、身体を起こす。
法貴寺貫首を継ぐ者として長谷川の家に生まれた私は、法貴寺にて生きて、死んでいく。私の身は、寺から逃れられないが、心ばかりは逃してやれないだろうか。母を求める幼い執着も、その補いに誰かを拒絶したり、もしくは、愛そうとしたりする欲望も。
この身体に、心は残さない。私はもう、何も感じたくない。歯を食いしばり、息を殺すうちに、閨事は終わっていたではないか。それが、少しばかり、長引くだけだ。
襟を正し、袖を整える。水晶の数珠を握り直して、再び合掌した。二度と、愛の幻影には惑わされない。仙界へ拐ってほしいとも求めない。仏の目が再び微笑むまで。私は、名実ともに、義王丸となることを誓った。
どれほど過ぎたか、堂内には灯が点けられて、雨も上がっていた。開かれた南の大戸を振り返れば、白洲の前庭に出来た大小の水溜りには、夕映が切り取られていた。軒から落ちる、名残の雨音。高い虫の音。静かな風。
仏が見せ賜うた麗しき世界。満たされる五感。この充足のみが、本当の幸いだ。もう一度、如来へと手を合わせた。
夏安居は続く。私たちは寺に籠もり、梅雨が進むにつれて、参籠者も消えた。雨は
ある日の夕暮れ。
「もし……如何にぞ泣きける」
顔を挙げた女は、肌こそ野良仕事に焼けていたが、流れるような
「子が、消えてしまったんです、一月前……! それで、国中の寺社に詣でていて……!」
女はそれ以上を述べずに、敷居を乗り越え、私の袖へと取り
胸を突き抜けた衝動は、哀れみと正義心だと思い定めて、私は深く息を吐いた。手を伸ばし、優しく背を撫でる。
「哀れなることにぞ。吾も、戻り来ることを祈らん。さらば、もう、な泣きそ」
「
「痛ましきことにはあれど……拐われたるが天狗にあれば……仙界は、悪き場所にはあらざるべし」
「真にございますか……?」
「うむ。さらば、な泣きそ。母の悲嘆も、仙界なる子は知るらむ。いずれ帰り来たらば、笑わるるべし」
観音の微笑みを見せて、女人の両肩に手を掛ければ、女人は、私へと合わせた手の甲で涙を拭いながら、幾度となく頷いた。
気休めだが、女人にとっては、求めていた安らぎなのだ。望まれるままに観音として生きてきた私は、こうして、育てられたままに法貴寺貫首をも継ぐのだろうと思った。
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