五、果てなき夜

 小雨そぼつ夕べ。燈明に薄暗い四畳半の板の間にて、私は諸肌を脱ぎ、拾に背を向けて座った。夜の勤行を終えて、渡りの前の身支度だった。拾は髪の毛の束を優しく持ち上げると、よく絞った手巾で丁寧に背中を拭った。

 綺麗だ、玉のような肌だと言いながら、決して直には触れないように。私は神聖な存在で、聖人以外が触れてはならないのだ。

「義王丸さまは、みそぎ御祭礼おんさいれい、何日に舞われるのですか?」

朔日ついたちと十五日、それから晦日みそかじゃ」

「楽しみでございますねぇ。はぁ、この御髪みぐしが、古人いにしえびとのよな美豆良みづらとなるのですかぁ。お美しゅうございましょうなぁ」

 拾は重ねて髪を梳く。私の得度式が決まってから、拾はそれまで以上に時間をかけて髪を手入れするようになった。

「あと三ヶ月ですなぁ」

「……うむ」

「おめでたいことですけど、なんや寂しいような気ぃもしますわ」

「そうか」

 得度すれば、拾の手を煩わせる業務が一つ減る。私に付せられた美しさも、白粉と共に消え去る。稚児観音の化身でなくなれば、夜の勤めもなくなる。

「……早く得度したいものじゃ」

「流石、義王丸さまは篤き徳行とくぎょうの御心をお持ちですわぁ」

 私は答えずに、片膝を抱えて目を閉じた。拾の手は、私の寂しい肌に触れないまま、四尺の長髪を掬っては、櫛に通す。

「義王丸さま。義王丸さま……」

 私に届けるでもない呟きが繰り返される。母を呼ぶ幼児のような、その名を口にすること自体が目的の声だった。

「義王丸さま……義王丸さま……」

「――何じゃ、一体」

「いえ、この御名をお呼びすることも、あと僅かと思うと、存分に呼んでおかねばならん気ぃのしまして」

 苛立ちの溜息を吐きながら振り返れば、邪気のない漆黒の目が微笑み返していた。苦悩を知らない、疑いもしない。美しい者は、美しい心を持つと信じきっている。

「……拾よ」

「はいはい」

「そなたは――」

 想像もしていないだろう。たった半刻後の吾が見せる痴態を、無様によがる声を。そう、意地悪く笑ってやりたくなった。

 幾日か前の晩、聖人は遂に手の熱を、私の情欲へと与えた。衝迫しょうはく。硬直と、かつてない悦楽。私が果てれば、聖人が、笑う息遣いを口付けで隠した後に、言った。

目出度めでたきことかな。まこと、目出度し』

 私は、急速に冷える身体を震わせながら、初めて人に害意を覚えた。甘えたふりをして腕を首に回し、締めてやろうかと思った。

 何も目出度いことはない。私は、仏の道に生きるしかない人生だ。聖人さえ、私に悦楽を仕込まなければ、情欲も知らず、人も憎まず、この世の不浄、煩悩に触れずに、純真なままに死ねたはずだ。名実ともに、拾が見ているような、義王丸でいられたはずだ。

 しかし、弱いのは私だとよくわかっていた。己の欲情を抑えられず、尊師を恨み、従者を甚振いたぶって一時の安堵を得ようとする。他でもない、私が一番醜いのだ。

「――そなたは、何を思うて吾の名を呼ぶのじゃ?」

「何を……あ、シユイ、ですか?」

 私の口に任せた方向転換は、拾の記憶によって、意味を成した問いに変わった。拾の手先は毛流れの癖を解くことに忙しいが、細い目は天井を見上げて答える。

「えー、ただもう、良い音だなぁって思うんですけどね、ギオーマルさま。でも、そういうことじゃないんですよね? シユイ」

 拾はまた考えたままを口にして、そのうちに何かに気付いたような声を挙げると、鼻の根に皺を寄せて、屈託ない笑顔を見せた。

「義王丸さまって呼ぶたびに、この方が幸いであるようにって、祈ってます!」

「……そうか」

 妙に胸が騒つき、顔を背けた。私自身に対する祈りは、罪を覚えさせた。私は、祈られるに相応しい身ではない。御仏の前に名を唱えられる身ではない。私の険しい眉根に、拾が不安気に尋ねる。

「祈りは、シユイに含まれませんかぁ?」

「……含まれるだろうの」

「そうですか、良かった」

 拾は機嫌良く、思惟ないおしゃべりを再開した。私は聞き流して、揺らぐ紙燭の灯を見つめ、祈りの発生について考えていた。

 私は、物心付くと同時に、祈りの対象としての仏を与えられていた。小さな厨子に入れられた釈迦如来像の前に座り、教わった通りに手を合わせた。

 そうして、肌を離れない寂しさに耐えた。夢と知りながらも醒めない夢が続くような、房から一輪だけちぎられた藤の花のような。私だけが、本来連なるべきものに身を連ねていない心地。孤独、向かう先のない愛着。

 仏が与えられていなければ、私は、母恋しさに沈む心を、どのように慰めただろうか。話し相手のない寂しさを、寝付けない不安を、自分の存在が不確かに思える恐怖を――。

「自己の救済を願う祈りと、他者の幸福を願う祈りとは、根本が異なる」

「はい?」

「心の揺らぎが、人を祈らせるのじゃ。自らに関する祈りとは、己の弱き心から生じる。苦しみから逃れたくて祈るとは、溺れる者が足掻くのと変わらぬ」

 拾の手が不可解の思案に止まったが、私は理解させる気もなく、発見のままに話した。

「――では、他者に対する純然たる祈りとは、何処より生じるのか。慈悲じゃ。自らの利益を考えない他者への祈りこそが、仏心ぶっしんじゃ。その仏性ぶっしょうは、一切いっさい衆生しゅじょうことごとく持つはずだというのに」

 私には、仏性の現れたる純然たる要素が、欠片もない。仏は欠乏の心にも安堵を与えてくれるが、その安堵を得ることを目的とした祈りは、結局、煩悩より生じているのだ。

 私の祈りは、義務と、私の内部に生じる哀れみやいきどおりをやり過ごす手段とでしかない。悲田院の子らへの祈りも、安禎の脚への祈りも、朝夕の勤行にて念ずる祈りも全て。

 私は、努力を重ねて浄くあろうと決意したが、その決意すらも、利己に基づく。慈悲の心を他者へ分け与えようと、何故、考えられないのだろうか。欲深き者。飢えを知らず、富を享受きょうじゅしながら、この上なく、醜い下郎。

「醜き者は、滅んでしまえ」

「……義王丸さま?」

 拾が私を覗き込んだ。私は素早く観音の微笑みを浮かべる。

「そなたは、美しき者じゃの」

「そ、そんなぁ、そんなことありますかねぇ? 本当ですかぁ、えへへー」

 微塵の疑いもない笑顔。対する私は、仮面にて人を喜ばせる。否、この仮面しか、私にはない。白粉を塗り、紅を指し、髪を結い、香を焚いた小袖を纏い。鏡の中の私は、世の美しさに則っただけの形代だった。


「義王殿は、まことご熱心にて」

 御厨子の観音像へと手を合わせる私を、聖人は背後から抱き寄せた。耳にかかる髪をかき上げて、首筋を喰む。手を取られる。私が内心にて唱えていた懺悔文さんげもんは、十遍を繰り返さぬうちに途切れた。

「義王殿、お御口みくち――」

 私は従順に振り返って、唇を合わせた。湿った生温かい感触。聖人の腕の中で、私は次第に横抱きに倒され、髪も解かれる。地肌の下にある骨の形を確かめるように、聖人の指は、髪の根に絡められる。

「まこと、麗しや。仏弟子にあるまじき心なれども、惜しきと思い侍りける」

「……あと、八十八夜にて侍る」

「お数え賜えるか?」

「待ち侘びたる日なればこそ」

 私を暴く唇と手から離れられる日。私は、聖人の両膝の上に抱かれながら、燈明を得て輝く御像の玉眼を返り見た。幼き私に幾度となく微笑みかけた仏の目は、もう微笑まない。得度した後に、どれほどの修行を経れば許されるのだろうか。

「義王殿……何をか恐れ賜いける。近頃、しきりにお見せ賜う、塞ぎ遊ばすお顔を」

「あれ……心苦しきことにぞ。別なることはあらず」

 揺れる目を隠そうと手を翳したが、聖人はそれを緩く分けて、私の頬に手を添えた。

「――義王殿。義王殿は、得度をば恐れ賜いけるべし」

 こういうときばかり、聖人は尊敬に値する学僧の目を寄せるのだ。聖の眼差しを前に、私は、偽りを述べることは出来ない。

「……しかり」

「何故ぞ?」

 抱き寄せる腕は、愛欲ではなく、慈愛に似ていた。だから、惑わされるのだ。だから、私は聖人の首を絞めたくなるのだ。何もわからない。この世の中を貫く、一つの真理が欲しい。それだけに従っていれば間違いのない、絶対なる安心が。

「吾は……この先を生きる……に、何もなき心地のして……」

 心が生気の水を貯えたかめだとしたら、孤独は、その甕を焚き付ける火。火に焚かれ、沸いては不安となって、やがて枯れる。

 誰かを愛したり、誰かを純粋に祈ったり、初夏の薫風を切って走ったり、心より笑いかけたり――私は、もうできないのだろう。

 私の心の水は、何処へ消えてしまったのか。きっと、皮膚の孔から蒸発したのだ。表皮に寂しさばかりを残して。

「――義王殿や。義王殿の寄る辺、それはこの聖人めにぞ侍る」

 広い胸に抱かれては、身を預けてしまいたくなる。仏は私に語りかけない。しかし、この男は、寂しさの薄膜を破って、確かなる存在の熱を与えてくれる。幼児をあやす柔らかな手付きで私の背を打ちながら、深い呼吸の中で、聖人は語るのだ。

「新たなる名を得て歩みむとは、心細きことなり。されど、義王殿の行く道は、義王殿独りにあらず。聖人めも、貫首さまも、その前の貫首さま方も、代々辿り来た道にぞ侍りける。長谷川に生を受けた吾らが勤め。楽にはあらざりしかども、決して苦なる道にもあらず」

 強く掻き抱いて、頭を撫でて、眠らせるように上体を揺らす。私は寂しく愚かな稚児なので、慈愛の多少を、肌に与えられる熱に測ってしまう。

「義王殿、確かならざる不安を放縦ほうじゅうし賜うは、実体以上の恐怖を生じさせるべし。不安は細々と分けて、何に依るものかと名を付け賜え。御心みこころいたずらにな惑わし賜いそ」

 私は静かに頷いて、弛緩のままに、聖人の肩へと顔を埋めた。聖人は、いつになく優しい手付きで小袖を脱がせた。古い表皮を落として、新たな皮膚へと触覚を目覚めさせるように、私の肌を撫でる。

 愉しむような目に見下ろされることはなく、慰めと憐れみに眼差されては、私は、情愛を錯覚してしまう。掌に導かれ、身体の奥より発する熱が、与えられた情愛への返答なのだと、誤認してしまう。

「義王殿や、義王殿……。口付け、せさせ賜えよかし」

 私が首を振る理由は、快楽の拒絶から、快楽をもたらす理由への拒絶に変わっていた。

 燈明が揺れる。聖人が私を侵す。聖人の手が、私にさらなる熱を与える。湿った肌に張り付く、熱い肌。蒸される室温。針を刺して抜きたいほどに、血管を圧す脈動。

 夜更け、私はまた一つ、御仏に背く罪を重ねた。

「――義王殿や、もうしばし側にましませ」

 背中から抱かれ、床へと引き戻されるが、私は振り向かないままに、首を振った。すぐにでも寝たいほど、身体は重たかった。

「お許しくだされ……吾は、もう……」

「この床にてお眠り賜わば良ろし」

「さには、侍らず……」

「お眠り賜え――」

 身を返されて、抱き締められる。片手に髪を撫でられ、片手に背を打たれては、抗いは止まる。追い討ちに口付けがなされ、私は目を閉じた。静寂の中、全てを忘れて溶ける。

「義王殿や……ふふ、お若きこと」

「聖人、さま……あっ……」

 かざされた手に、私の身体が強張るが、脳裏では、得度までの八十七夜ばかりは、快楽に沈んでも良かろうと、欲望がささやく。

 お前はこの先、愛欲を排して生きていけるのか? 排さずとも良いではないか、聖人とてお前を抱いているのだ。おお、聖人までをも、欲から離れさせられないとは、抱く側にはさらなる悦楽があるのだろう。それを、知りたくはないか――? 

「聖人さまっ……なりませぬ……!」

「ならぬとは、如何なる故にぞ?」

「あっ……!」

 その目は、試すような愛欲の目だった。愉悦に唇を持ち上げて、私の両手首を一纏めに敷布へと留める。聖人の右手は返答を促して、執拗に胸を這った。私は、言語の思案を快楽に追いやられたまま、髪を乱して首を振るしかない。

「義王殿は、まこと愛らしきお方よのぅ。お聞かせ賜え、あれ、お聞かせ賜えよ」

「吾は、……得度より後は――あぁ……」

「得度より、後……?」

しかり……! ああ、それより後は――斯様かように召さるることも……あっ」

 聖人の唇が、続きを奪った。深く追われ、息切れに脱力すれば、打って変わって柔らかな腕に抱き締められる。

「義王殿は……ふふふふ、然様なことを、お悩み賜うか。ご案じ召さるるな」

「え……?」

「聖人めは、義王殿の名が変わろうと、姿が変わろうと、別段なくお愛し侍るべし」


――ケッペンカケタカ、ケッペンカケタカ。


 丁度、夜啼き鳥が啼いた。雨足も強まっているようだった。

 二度目の交わりは激しく、見苦しいほどまでに私の痴情を暴いた。私は、止まらない涙を悦びと安堵とに見せかけながら、私を地獄へ導くこの男を如何にして殺そうかと、虚しい妄執もうしゅうを抱いていた。

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